第9話

 「勉強どころじゃあ、なくなってきましたね。」リョウの寝室で缶ビールを開けながら、ユウヤが呟く。ミリアはリビングのベッドで眠りに就いたので、二人の男はビールにウイスキー、それから酎ハイに日本酒、そしていくつかのコンビニで買ってきたつまみを持って隣室へと移動したのである。

 「否、ダメだ。勉強はさせる。高校にも行かせる。俺はあのクソ野郎とは違う。ミリアが社会で生きていくために必要な、最低限やるべきことは断じてやるぞ。……あいつが小一の時からそう心に決めてんだ。」

 「小一?」

 リョウはビールを呷って、言う。「ああ。あいつが初めてうちに来たのが小一で。」リョウは観念したような溜息を吐くと、ミリアが幼少時実父より育児放棄と虐待を受けていたがために言語能力が育成されず、小学校時代の担任もこぞって心配をして絵本を読み聞かせたり、特別な課題を与えたりはしたものの、劇的な改善は見られなかったこと、つまりは勉強は小学生の頃からそれこそ徹頭徹尾苦手であること等を訥々と語った。

 聞いている内に、ユウヤはウイスキーを混ぜる手を止め、眉をひそめ出す。「リョウさん、だとすると、後天的に語学能力はほとんど培われないし、語学力がなければ成績を上げるのは非常に難しいですよ。」と言った。

 リョウの顔色が変わったのを見て、ユウヤは恐る恐る言葉を選びながら続ける。「あの、……三歳までにちゃんと言葉を学べない環境下で育った子供っていうのは、後から言葉を教え込んでも、普通に喋れるようには、まず、ならないんですよ。言語を司る脳の部分は、三歳までしか発達しないから。……だから、そうなると言語によって勉強を進めるしかない以上、成績を上げるのは無理かもしれないですよ。」

 「え。」リョウは目を見開いた。「あいつ、ずっとあのままなの?」

 「否、俺も専門家じゃないですし、そういう説があるっていうことを、大学の教育関係の授業で習っただけですけれど、世の中には幼少時に育児放棄を受けた子供っていうのが結構いて、その結果、大人になっても言葉が出なかったり、飯を犬食いでしか食えなかったり、整理整頓できなかったり、あと、……早死にするっていうケースも多いらしいっすよ。」

 「……マジか。」

 焦点の定まらない瞳を宙に頼りなく彷徨させながら、リョウは茫然とそう呟いた。

 早死に、――そんなのは絶対に許されるべきではない。他ならぬミリアが僅かな幸福も得られずこの世をさるなど、考えただけで怒髪天を突くと言わんばかりの怒りが込み上げてくる。絶対に幸福にするのだ。この世に生まれてきてよかったと、そう飽きるまで実感させるのだ。リョウは荒々しく酒瓶を床に置いた。

 「もしかすると」ユウヤはごくりを生唾を飲み込む。「無理矢理勉強をさせるよりも、ミリアちゃんの特性を生かせる方面を考えてあげた方が、いいかもしれないです。あれだけギター弾けるわけですし、ソロだって作れる。音楽理論だって十分わかってる。ミリアちゃんは学校での勉強はできないかもしれないけれど、生きる道は、既に、あるんじゃないんすか。」

 「……マジか。」リョウは苦渋の表情で頷く。「でも、」諦めきれずに言葉を継ぐ。「高校は三十点ありゃあ、行けるらしいんだが、ミリアはそこも、厳しい、か?」

 ユウヤは腕組みをして黙り込む。「五教科だと、各教科六点か……。俺らの時代とそう変わってなけりゃあ、最初の問題は凄ぇパターン化されてるから、暗記さえしてもらえればいける、かもしれないです。ミリアちゃん、何か好きな教科とかあります?」

 「英語。」リョウは日本酒を手酌で注ぎ、言う。「自称、英語。あと漢字か。まあ、たしかに、俺が書いた英詩はほぼ全て暗記しているし、意味も解ってる。でもな、」リョウは缶ビールを飲み干すと、ぐしゃりと潰して下に置いた。「全然俺の歌詞とテストの出題傾向が、違ぇんだよ!」

 「そりゃ、……まあ。」ユウヤは横目でリョウを見遣る。「死だの絶望だの、挙げ句の果てに悪夢がどうだの、義務教育の教科書に載ってるわけないっすよ。でも、それを使って、」ユウヤは唇を引き結んだ。「英語で点数取らせることは、できるかもしれない。」そして微笑みを浮かべながらウイスキーを呷った。

 「マジか。」リョウはユウヤの両肩を持つ。「ユウヤ、マジで頼む。あいつは塾も断れたも同然だし、お前以外、他に面倒見てくれる奴がいねえんだよ。だって俺だって全然わっかんねえんだもんよお。玉の落ちる速さなんて、何のためにやんだ? あんなこた人生で必要じゃねえだろが?」

 ユウヤは心得顔に肯き、缶ビールを開ける。「勉強なんてそういうもんですよ。太宰治も言ってましたけど、勉強なんてすぐ忘れてしまっても構わない、けれどそこに残った一つかみの砂金があればいいんだって。……まあ、来年は教育実習も行くし、その練習だと思ってミリアちゃんの家庭教師、俺も気合入れてやりますから。……でも、何かリョウさん、意外っすよね。」ユウヤがふっと笑いを洩らす。

 「何が?」

 「否、だってあんだけ存在感放つデスメタルバンドのフロントマンが、年離れた中学生の妹の成績で思い悩むって。何か、……ふふふ。」

 ユウヤは酔いが回ってきたためか、赤い顔をして笑い続ける。リョウは頭を抱え込む。

 「んなの、解ってる。あいつのせいで作曲は滞る、ギターの練習時間は減る、最悪だ。……でもな。」リョウはぐいと頭を挙げてユウヤを見据える。「俺はあいつを何とか、まっとうに生きていかせてえんだ。それが兄貴としてのなあ、俺の使命なんだよ。」

 「あの……」ユウヤが口籠りながら言った。「リョウさんって、ミリアさんの実兄なんすよね?」

 「そうだ、でも、異母兄妹っつうやつだな。クソ親父は一緒だ。まあでもそいつは死んだけど。」リョウはそう言って忌々しそうに日本酒を呷る。

 「ミリアちゃんの、お母さんは?」

 「んなのとっくにいねえよ。いたら俺ん所来ねえだろ。まあ、そっちは、……死んでねえと思うけど。」リョウはウイスキーに荒々しく氷をぶち込むと、そのまま呷った。

 ユウヤは黙した。「……リョウさんしか、ミリアちゃんの面倒見れる人は近親でいなかったってやつっすか?」

 リョウはいささか座った瞳でユウヤを睨む。「おい、何だよそりゃあ。俺はあいつとの生活を押しつけられた、と思ったことは一ミリもねえぞ。クソ親父がくたばって、あいつが最初にウチ来た時は、酷ぇガリガリで、服はボロボロ、言葉は今以上に出ねえし、何考えてんだかわかんねえし、でも人の顔色ばっか見てひでえ有様だったけど、何でかこいつを幸せにしようとその時俺は、決意したんだ。犬猫文鳥ハムスター、何も拾ったこともねえのにな。」リョウはそう言って次のウイスキーをグラスにどぼどぼと注ぎ始める。「でも、随分今は可愛くなったろ? なあ?」リョウはそう言って微笑みながら身を乗り出す。

 「か、可愛いっす、モデルの勧誘遇うぐれえだし。」

 「な? だから、ミリアは俺の下から高校に行かせ、俺の下から嫁に行かせる。こればっかりは絶対に、譲らねえ。」

 「否」ユウヤはそう言って掌をリョウに向け、制するような動作をすると、日本酒をグラスに注ぎ入れ、一気に呷った。「……高校は行かせられても、嫁は無理っすね。」相当酔いは回ってきているのであろう、ユウヤはぐらぐらと頭を回しながら言った。

 「何でだよ、ミリアはモテモテなんだぞ。何せ小二で男に告白されてたぐれえだからな。俺が学校に迎え行ったらなあ、」

 「違ぇ違ぇ。リョウさんが許さねえってことっすよ。」ユウヤは赤くなった顔でリョウを睨む。「そんだけ可愛がってて、ミリアちゃんが男連れてきたら、どんな野郎でも叩き出すに決まってる。」

 「馬鹿! んなことしねえよ。」リョウは空になったビールの缶を握り潰す。

 「しますよ。」

 そう即答され、リョウは暫く黙して自問自答をする。

 「ほら。」

 「まあ、もしつまんねえ野郎だったらぶん殴って二度とミリアの目の前に現れねえよう、するな。これは保護者としての、義務だ。とにかくミリアのことだけを愛し、何があっても他の女には一秒も見向きもせず、で、暮らしていくためには金もそこそこ必要だな、まあ、ミリアは贅沢はしねえから、そこはそこそこでいいや。あと、卵料理が何種類か作れるとミリアが喜ぶ。そんで、メタルが好きでギターも弾けねえと、ミリアと会話ができねえからダメだな……。」

 「それ、自分じゃねえっすか。」

 「はあ?」とリョウは驚きついでに、ビール交じりのゲップを出す。その痛みに一瞬、顔を歪めた。

 「やっぱリョウさんは、ミリアちゃんを嫁に行かせる気なんかねえんだ。一生一緒に添い遂げる気なんだ。」

 「違ぇよ、違ぇ違ぇ。何言ってんだ、馬鹿。兄妹だぞ。」

 慌ててリョウは言ったが、ユウヤは我関せずといった具合に、ふふん、と含み笑いをすると茶豆を袋から取り出し、大口を開けて頬張った。

 「んなの、どうだっていいっすよ。デスメタルやってる癖に、変な所真面目なんだからなあ。法律とミリアちゃんの気持ちと、どっちが大切なんすか。」

 「馬鹿野郎。俺が職質マスターってことを忘れたのか。俺は俺を嫌いな警察は大嫌いだ。ミリアが一番に決まってんだろが。」

 「じゃあ、いいじゃん。ミリアちゃんはリョウさんのことが好きなんだから、いつまでも子ども扱いしねえで、とっととくっついてやりゃあいいんだ。」

 「てめえは馬鹿か。ミリアはまだ正真正銘の子供なの。ひよこが親にくっ付いて懐いてるぐれえなもんなの。死ぬほどクソ親父に酷い目遭わされてきて、そんで俺が普通に飯食わしたり、服買ってやったりするから、聖人君子みてえに勝手に祀り上げてるだーけー。」リョウはそう言ってほとんどやけくそのように日本酒をがぶがぶと煽る。「実際の俺は、定職にも就いてねえ、社会のド底辺デスメタラーなの。」

 「嘘つけ。リョウさん、すこぶる優しいじゃねえか。」

 「優しい訳ねえだろ!」リョウはそう怒鳴って右手で自分の膝を打った。「ミリアは成長期なのに毎日スーパーで半額の食材からしか買い物しねえし、最早あいつは半額シールが貼ってねえやつは売り物じゃねえ、ぐれえに思ってんだぞ? それにあいつは猫が死ぬほど好きなのに、ここから引っ越す金も行き場もねえから、ずーっと飼ってやれねえんだぞ?」

 「そんなのミリアちゃんは欲してねえじゃん。ミリアちゃんはリョウさんといれりゃあ万事オッケーなんだよ。」

 リョウは思わずむせる。

 「それはなあ、クソ親父にぶっ殺されかかったから……。」

 「ミリアちゃんが、義理でリョウさんを慕ってると思ってんのか。」

 「義理! そうそう、義理!」

 ばちん、と大きな音がする。ユウヤがリョウの頬を打ったのだ。

 「義理なんかじゃねえだろ! そんなこと言ったら可哀そうじゃねえか!」

 「……お前、……人のこと一日何度も引っ叩くんじゃねえよ!」リョウがユウヤに掴み掛る。氷だけになったウイスキーのグラスが倒れた。

 「何度もは叩いてねえ! 一発はミリアちゃんだ! それよかミリアちゃんの心の痛みを思い知れ!」

 更にユウヤは叩こうとし二人は引っ掴み合い、数発リョウがユウヤを殴り、ユウヤももう一発頬に手打ちを入れ、それから暫くもみ合った後、互いに酔いが回り切り、酒瓶と共に倒れた。


 そうして日付の変わる頃、ユウヤはそろそろ徹夜リハの時間だと言い残すと、とにかくミリアちゃんの気持ちを解ってやれ、それから自分はとにかくミリアちゃんのために全力で勉強を教える、そして高校生にするんだ、見てろクソ兄貴め、と言って最後は何故だか熱い抱擁を交わし、帰って行った。

 リョウは久方ぶりのアルコール摂取に足元をふらつかせながら、ユウヤの後姿を玄関先で茫然と見送ると、リビングに戻りミリアの寝顔を見下ろした。すると先程のユウヤの一言が蘇ってきた。

 ――そんだけ可愛がってて、ミリアちゃんが男連れてきたら、どんな野郎でも追い出すに決まってる。――

 本当に、自分はミリアを嫁に出せないのか、そんなはずはない、俺は兄貴だ。世界一ミリアの結婚を祝福をするのだ。その証に、今から明日ミリアが嫁に行くという脳内シミュレーションをしてみよう、と、リョウは寝顔のミリアを見下ろしながらさっそくイメージを膨らませ始めた。

 ――もうミリアが家に帰って来ることは、ない。仮にあったとしても、盆や正月だけとでもなるのであろうか。これから自分は一人で飯を作り、一人で食べるのを日課とするのだ。物凄いキラーチューンが思い浮かび音にしても、傍でミリアが目を輝かせて仰天してくれることはない。ギターの練習も一人だ。ミリアが目を皿のようにして自分の指を凝視し、端からたどたどしく真似をし、引っかかった所を教えてやるようなこともない。

 ちょっと、待てよ。リョウはそこまで来ると、はっとなった。バンドはどうなるのか。ミリアは脱退するのだろうか、遠い場所に嫁いだり、夫の転勤ということとなればそうなる可能性が、高い。しかしそれでは困る。何が、転勤だ。クソ旦那の代りなんぞ山ほど世の中にはいるであろうが、ミリアの代理となるギタリストなんぞ、この世に探し求めることはできやしない。

 リョウはまだ見ぬ夫への怒りを募らせると、ビール臭い息を苦し気に盛んに吐きながら、ミリアに「やっぱ、無しだ。嫁に行くな。」と言った。しかしミリアは寝息を立てるばかり。「おい、起きろミリア。悠長に寝てる場合じゃねえ。嫁になんて、行くんじゃねえよ。」

 ミリアはゆるゆると瞼を戦がせ、そして、眠たげに目を擦りながら開けた。目の前には酒と虚妄の怒りで顔を真っ赤にしたリョウがいる。

 「わかったな? バンドが一番大事だろ? だとしたらクソ野郎の所に嫁になんて行くな。俺が断じて、許さん。」

 ミリアは微笑み「……リョウといる。」と呟いた。リョウは甚く満足をし、はっははーと大声上げて笑うと、「ザマア見やがれ!」とさも嬉し気に呟き、ミリアを「よし、さすが俺の妹だ。偉いぞ。」と言って抱き締め、そのまま同じ布団に潜り込んだ。


 ああ、そうだ。ユウヤの言う通りだ。どこの誰かもわからぬ馬の骨なんぞに、ミリアをくれてやるものか。何せ小一から大切に大切に思い、一緒に暮らしているのだ。リョウはミリアが自分の家の前で膝を抱えながら寝込んでいる様を、懐かしく思い起こす。

 あれは夏の盛りであった。

 自分はギターのレッスンを終えた後で、何故自分の家の前で小さな女の子が眠りこけているのか、わけもわからず、一体何が起きたのだと混乱し、また驚愕した。しかしその驚きの中に既に、あまりに繊弱そうで儚げなミリアの姿に強烈な庇護欲が萌芽していたのも事実だ。それまで自分は、他者を慮ることなぞ考えたこともなかった。音楽で自らを表現すること、それだけが己に貸された使命だと信じ、自分の人生の全てを費やしてきた。それを邪魔する人間や忠実に再現できない人間は容赦なく排除し、傷つけ、自分を奉ずるファンだけを気まぐれに、愛した。

 そんな自分がミリアを守ろうと思ったのはなぜだろう。理屈で考えてみても、一向にわからない、血のせいだと言われればそうなのかもしれないが、もう一人の血を分けし肉親は最も憎悪し、その憎悪によって疲弊し切ってしまうがためにそれほど思い起こすこともできない、あの、父親だけであるので、ますますわからない。

 しかし理由などは、どうだっていいのだ。筆舌尽くしがたい苦悩と絶望を得たミリアを幸せにする、それが自分に課せられた使命であるのだから。

 リョウはユウヤに言われた言葉を反芻する。

 ――ミリアちゃんの特性を生かせる方面を考えてあげた方が、いいかもしれないです。――

 ミリアの特性、それは自分が誰よりもよくわかっている筈である。誰よりも近くでミリアと過ごし、ミリアが言葉代わりに奏でるギターを聴いているのだ。底なしの絶望が慟哭のメロディーを生み出し、全く自分と同じ音をもって音を創り上げている。

 リョウは「明日からは、ギターを弾けよ。」と呟いた。そして目の前にあるミリアの頭を掻き抱き額に接吻をすると、すぐに鼾を掻きながら深い眠りについた。

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