第19話 小柴内正幸のくれたヒント

 朝、彩那が教室に入ろうとすると、廊下に奏絵が待っていた。小さな制服が弾むゴムまりのように迫ってきた。

 挨拶もそこそこに、

「昨夜、彩那のお父さんが家に来たのよ」

と言った。

「ええっ」

 それは一体何事だろうか。

「ちょっとここでは何だから」

 奏絵は友人を廊下の隅に引っ張っていった。

「おとり捜査班よ。正式に依頼を受けたの」

 笑顔でそう言った。

「そうだったの」

「私、とても興奮しちゃった。だって倉沢家のお手伝いができるんだもの。課長さん、うちの両親に深々と頭を下げて説明してた。書類5枚に印鑑を押して持って帰ったわ」

「ふうん」

 あの父親がそんな風に人と接しているとは意外だった。いずれにせよ、これで奏絵とはおとり捜査の話をすることができる。

「装備品は貰った?」

「ううん。まだ準備中なので、今度彩那から受け取ってくださいだって。私は現場には出ることはないから、スマートフォンだけね」

「そうなんだ」

 確かに彼女の運動能力を考えると、現場に出るのは危険と言わざるを得ない。その点については安心した。


 放課後、いつものように体操服に着替えると、二人は校庭に出た。今日も演劇部の練習は基礎体力作りと発声練習で始まる。

 他の運動部の邪魔にならないように、片隅でストレッチ体操をする。彩那は友人の硬い身体を曲げるのを手伝った。彼女も最近は慣れてきたのか、愚痴をこぼすことはなくなった。

 そこへ血相を変えて、小柴内が走り込んできた。

「そんなに慌てて、どうしたの?」

 彩那が一瞥をくれてからそう言った。

「おい、お前たち。部室で封筒見なかった?」

「どんな封筒よ?」

 彩那は友人を解放して、今度は自分のストレッチをしながら訊いた。

「このぐらいの茶封筒だよ」

 小柴内は左右の人差し指で空間を切り取った。

「知らないわよ」

「筑間は?」

「私たち、今日は部室に寄ってないから」

「ああー」

 この世の終わりともいうべき声が漏れた。

「中に何が入ってるの?」

 彩那は呑気に訊いた。

「実はファンクラブの会員名簿と会費が入っていたんだ」

「へえー」

「あら」

 女子二人は身体を動かすのを止めて、小柴内の顔を覗き込んだ。

「会費っていくらぐらい?」

「まだきちんと会計してないから、はっきりしないけど、一万円近くあったと思う」

「どうしてあんたは、そういう大事な物をきちんと管理できないわけ?」

 彩那が腰に手を当てて言うと、奏絵が隣で一つ咳払いをした。

 それを横目に、

「まあ、仕方がないわね。人間誰だってうっかりすることはあるし。探すの手伝ってあげるわよ」

「助かるよ」

 小柴内は情けない声を上げた。

 それから、

「ヤバい、龍哉が来たぞ」

と言った。

「おい、彩那。百メートルで勝負しないか?」

 龍哉が声を掛けてきた。

「嫌よ。私は奏絵と練習するんだから、あっち行ってよ」

「じゃあ、小柴内一緒にどうだ?」

「俺もこの連中と一緒にやるから、いいよ」

「何だよ、そりゃ」

 そう言うと、ふてくされて行ってしまった。

「龍哉にも内緒なの?」

 彩那が小声で訊くと、

「当たり前だろ。ファンクラブの存在自体が秘密なんだからな」

「それで封筒はどこにしまってあったの?」

「いや、それがはっきりしないんだ。部室だったのか、それとも教室だったのか?」

「どちらにも見当たらないってことですか?」

 奏絵が訊いた。

「そうなんだ」

「あれだけ探してないんだから、誰かに持って行かれたのかも」

「泥棒ってこと?」

「ああ。被害額は一万円程度だから弁償できなくもないが、会員名簿もなくなっているから、誰にお詫びして返金していいのやら、それすら分からんのだ」

「何か控えはないの?」

「ない」

「会費は直接あんたが受け取ったのでしょ? だったら誰から貰ったか思い出せないの?」

 彩那は鼻から大きく息を出した。

「演劇部のメンバーはともかく、学校中の女子生徒まで一人ひとり覚えてないよ」

「あんた、女子の顔を覚えるの得意でしょ。だったら何とか思い出せない?」

「無理だよ。会費を受け取る時は、下向いて学年や名前を名簿に書き込んでいたから、顔なんて見てないんだ。相手がうちの制服着てたことぐらいしか覚えてないよ」

「そんなの当たり前じゃない。何の手掛かりにもならないわ」

 彩那が突き放したように言うと、小柴内は涙目になった。

「どうすればいいんだよ」

「こうなったら、会員名簿を紛失したので、会員の方は名乗り出てください、って正直に言うしかないわね」

「そんなの嫌だよ。俺の評価が下がっちまう。だらしない男だってレッテル貼られてしまうよ」

「本当にだらしないんだから、それくらい我慢しなさいよ」

「ちぇっ、人ごとだと思って」

 小柴内は涙混じりに言った。そして今度は奏絵の方を向いた。

「おい、筑間。何かいいアイデアはないか?」

 ところが彼女は何も耳に入っていないようだった。遠くの空の一点をじっと見つめている。

 彩那は異常に気づいて、

「奏絵、どうかしたの?」

「そうか、分かったわよ」

 突然彼女は立ち上がった。小柴内は身体をのけ反らせた。

「封筒の在り処が分かったの?」

「えっ、違う違う。ちょっと彩那、話がしたいんだけど」

「いいけど」

 二人は小柴内を放り出して器具庫へ飛び込んだ。

 奏絵は友人の手を取ると、

「ひったくり犯の動機のことよ」

と言い出した。

「本当?」

「小柴内くんの話でピンときたの」

 奏絵の目は輝いている。

「さっき、会員の顔と名前が分からないから、どうすればいいかって話だったでしょ」

「ええ」

「ひったくり犯もそれと同じじゃないかしら? 名前も顔も分からない誰かを探しているとは考えられない?」

「人捜しってこと?」

「そう。犯人は奪った現金を返すぐらいだから、お金が目当てではない。そのくせ、何度も似たような特徴を持つ女性ばかりを狙っている。逆に言えば、犯人は条件に合う人物を探し続けているということになる」

 彩那はまるで納得がいかずに、

「しかし、名前も顔も知らないっていうのは、疎遠な人ってことでしょ。どうしてそんな人を必死で探す必要があるの? さっぱり理解できないけどな」

 奏絵はそれには応えず、

「人捜しをしているだけなら、犯人はそれほど悪人じゃないかもしれないわ」

「それについては同感ね。犯人はバイクで私を振り切った時、チラッと後ろを確認したのよ。まるで私の身体がどうなったか気遣っているようだった。あの時、犯人は悪意を持ってないと確信したわ」

「だとすれば、事件の加害者というよりはむしろ被害者なのかも」

「どういうこと?」

「犯人は以前何か事件の被害に遭った。その時見た犯人の特徴を覚えていてそれを追っているってことよ」

「昔、自分もひったくり事件に遭っていて、その犯人を探しているってわけ?」

「いや、それは違うでしょ」

 奏絵はすぐに否定した。

「だって、ひったくりに遭った場所はどこか知らないけど、その時の犯人が今度は歩行者としてどこを歩くかなんて誰にも予測できないもの」

「ああ、そうか」

「身長はともかく、なぜ、長い髪、ミニスカート、高いヒールが条件なんだろう?」

「それは、自分が被害に遭った現場で目撃した、犯人の後ろ姿だったんじゃない?」

 彩那は腕を組んで言った。

「違うわ。だって同じ条件の女性を発見したところで、顔も知らないんじゃ、あの時の犯人だなんて断言できないんだもの」

「そうねえ」

 どうも議論は堂々巡りしてしまう。

 それでも奏絵は、

「ちょっと待って。犯人は銀行から出てきた女性ばかりを狙っているのよね。つまり銀行通帳を持っていることを前提にしている訳じゃない。どうしてなのかな?」

「そりゃ、通帳には名前が書いてあるからでしょ」

 彩那が当然という調子で言った。

「でも、名前が判明したところで、その人が果たして探している人物かどうかの決め手にはならないんだよ」

 そこで奏絵は手を叩いた。

「そうか、通帳に記載された口座の出納を見れば何かが分かるのかも」

「どういうこと?」

「犯人の口座には、何か特徴的な入金記録が残されているとしたら? それを確認できれば、探し求めている人物だと特定できる」

「たとえば?」

「そうね、毎月決まった日に五十万円が振り込まれているとか、何月何日に百万円が入金されているとか」

「そうか、今回のひったくり犯は以前にそういった詐欺に遭ったということ?」

「でも、まだどこか弱いのよね。顔も名前も知らない人物に大金を騙し取られることなんてあるかしら?」

 二人は沈黙したが、

「振り込め詐欺!」

とほぼ同時に声を上げた。

「恐らく犯人の祖父母が被害に遭って、その時接触した女性の特徴をもとに人捜しをしてるのよ」

 そう彩那が自信満々に言ったが、

「大まかにはそんな感じだと思うけど、まだ少し変なのよね」

と奏絵は言い出した。

「振り込め詐欺はもっと手口が巧妙だから、個人の口座に直接振り込んだ証拠が残らないようにしているんじゃないかしら」

「それに、そもそもそこまで分かっているのなら、素直に警察に任せればいい話だしね」と彩那も付け加えた。

「そうね」

 奏絵もどこか煮え切らない様子だったが、

「でも警察が取り合ってくれなかったとしたら?」

「どういうこと?」

「それは事件性が薄かったから。或いは事件と立証するのが困難だったから」

「ますます分からないんだけど」

「たとえば自殺の場合、それを引き起こすきっかけとなった人物を告発したところで、事件として立証するのは難しいでしょう」

「なるほど」

「また過失傷害などは親告罪といって、被害者が事件にしない限り、周りがいくら騒いでも警察は事件としては扱わない」

「それでも一度は警察に相談を持ち掛けている可能性はあるんじゃない?」

 彩那は勢い込んで言った。

 奏絵の目が光った。

「彩那はすぐにフィオナさんに連絡して、ここ数ヶ月の間で所轄署に事件の相談を持ちかけたものの、取り合ってもらえなかったケースがないか調べてもらって」

「オッケー」

「私は、図書館で過去の新聞を調べてみるわ」

 二人は急遽部活動を止めて、それぞれの仕事に取りかかった。

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