警視庁高校生おとり捜査班 倉沢彩那出動篇
ぽて
第1話 彩那、鮮烈な高校デビュー
風薫る五月。
この季節、新たな生命を宿した草花はその存在を競って主張している。その一方で、教室に閉じ込められた新入生たちは、退屈な日常に埋没しかけている。両者の姿はあまりにも対照的だと言えるだろう。
彼らもついひと月前はそうではなかった。出会う者、見る物全てが新鮮で、刺激に満ち溢れていた。しかしいつしか常識に飼い慣らされて、気力がすっかり奪い去られてしまった。自己主張することさえも忘れてしまった。まるでそれが大人になるための通過儀礼であるかのように。
そんな中、常識に逆らって泳ごうとする者がいた。
その少女の名は倉沢
彼女は初心を忘れなかった。いや、忘れないようにしていた。
朝、制服を身にまとえば、入学式の感動が蘇る。校門をくぐれば、心地よい緊張が全身を包み込む。
(私は、新しい環境で大きく羽ばたくのよ)
彩那の変身願望は生き続けていた。
その願いが天に通じたのか、彼女に一つの事件が降りかかる。いつもと変わらぬ穏やかな昼下がり、体育館の裏で起きたある出来事――それが人生の転機になるとは、さすがの彩那も知る由はなかった。
遠くでチャイムが鳴っていた。
数と式が猛威を振るう世界で、彩那は一人戦っていた。いや、開始十分で打ちのめされ、その後意識を失っていたというのが正確な描写である。いずれにせよ、このチャイムは彼女にとって救世主に違いなかった。
目の前には、すでに昼休みの光景が広がっていた。呪縛から解き放たれた生徒の喧騒は、教室に留まることなく廊下にまで溢れ出している。
「倉沢さん、大丈夫? 顔色が悪いみたいよ」
「保健室に連れていってあげようか?」
あの事件以来、クラスの女子は好意的に接してくれる。いや、それは女子に限ったことではない。これまで遠く距離をおいていた男子でさえ見る目が変わっていた。
「大丈夫。私は平気よ」
これ以上あらぬ心配をされるのが面倒に思われて、さっと教室を抜け出した。授業中、昏睡状態だったとは口が裂けても言えない。
(中学までの私とは違うのよ)
弁当箱を持つ手に力が入る。と同時に、手元のどこかでプラスチックが破断する小さな音がした。
廊下に出たところで、
「お昼一緒に食べよ」
可愛らしい声に背中を叩かれた。
振り返れば、
こぼれるような長い髪、そして眼鏡の奥の柔和な瞳は紛れもなく美少女のそれである。白い手には小さく可愛らしいお弁当箱。そんな小物でさえしっかり味方につけている。
こんな時、彩那は劣等感に襲われる。年頃の女子として、奏絵に勝るものは何もない。どうして神はこれほどまでに偏った配剤をするのか、そんな愚痴の一つも言いたくなる。
とは言っても、よき理解者の登場に胸を撫で下ろしたのが正直なところであった。これでようやく、仮面を脱いで一息つくことができる。
奏絵は足早に近づくと、意味ありげな笑みを浮かべた。
それが何を意味するのか瞬時に理解できた。なにしろ小学校からの仲である。互いに胸の内は透けて見えてしまう。
「ねえねえ、聞いたわよ」
奏絵は仔猫を思わせる風貌通り、どこか控え目で人に対して積極的ではない。しかし彩那にだけは別である。興味津々といった顔を遠慮なく寄せてきた。
「防犯講習で、二人の教官を投げ飛ばした生徒がいたんだって」
「へえ、そうなの」
「それって、彩那のことでしょ?」
「だったら、どうなの?」
「やっぱりそうだったんだ。そんな無茶をやるのは、彩那しか考えられないもの」
「単なる事故よ、事故」
「でも、そのせいで講習は中止になったんでしょ。クラスのみんなが騒いでいたわ」
昨日、新入生を対象に防犯講習会が開かれた。不審者対策として、簡単な護身術を身につけるのがその目的である。別のクラスの講習中、体育館の外で出番を待っていた暴漢役二人を彩那が投げ飛ばしてしまったのである。彼らは怪我を負って、講習は突如中止に追い込まれた。
「彩那がやっつけたのって、警察の人なんでしょ?」
「あら、そうだったの? ちっとも知らなかったわ」
と白々しく言ってはみたものの、あの種の講習会は、地元警察による出張授業と相場が決まっている。つまり全員が防犯課の警察官なのである。
「学校中の噂になってるよ。警官二人を三十秒で始末した女がいるって」
「実際は二十秒ぐらいよ。そうでないと反撃される恐れがあるからね」
そこは正確を期した。
「でもさ、どうして男二人に襲いかかったの? 普通、立場が逆じゃない?」
「だって、ナイフをちらつかせてたんだもの」
「だったら、なおのこと『キャー』って逃げるべきところでしょ?」
そんなお芝居ができるなら苦労はない。あいにくそういったお嬢様の素養は持ち合わせていないのだ。入学早々、それが必要になるとは思ってもみなかった。これは不幸な事故と言わざるを得ない。
「そりゃそうだけど、あの時、隣の幼稚園児たちがちょうど校庭をお散歩してたのよ。その先にナイフを振り回す人相の悪い男がいたら、何とかしようと思うでしょ」
「まったく彩那らしいわね。でもあなたのそういうところ、嫌いじゃないわよ」
「ご理解、感謝いたします」
「それで、その後どうなったの?」
彼女の探究心は留まることを知らない。
「不審者二人は保健室、私は校長室」
「それで?」
「校長に事情を説明したら、無罪放免」
「それならよかったじゃない」
「ちっともよくないわよ」
彩那は語気を強めた。
この一件は、いずれ学校中に知れ渡ることだろう。懸念すべきは、この種の噂には尾ひれがついて、勝手に一人歩きを始めることである。回りまわって、最後には殺人未遂の容疑者呼ばわりされているかもしれないのだ。そんなことになれば、倉沢彩那という名は後世に語り継がれるに決まっている。
「ああー」
思わずため息が出た。
奏絵は悩める友人の横顔をまじまじと見て、
「そう言えば、中学では柔道やっていたのよね。今回はその集大成?」
「しー。余計なこと言わない」
慌てて周りに目を遣った。幸い聞いている者はいなかった。
「誤解しないで。正式には陸上部よ。柔道はね、お父さんに無理矢理やらされてただけなんだから」
「お父さんって、警察官の?」
何気ない言葉に身体が硬直した。実は最大の問題はそこにある。この件はいずれ父親の耳にも入ることだろう。またもや理不尽に叱られる材料を与えてしまったことになる。
「ねえ、昨日の傷害事件だけど」
「勝手に事件にするな」
「お父さんの出世にも影響あるんじゃない?」
「え?」
「だって、お父さんは警視庁で働いているんでしょ?」
「そう。これっぽちも興味ないけど」
「実の娘が警官に暴行を働いたとなると、ただじゃ済まないわ。今頃、警視総監に呼び出されて、始末書書かされてるんじゃない?」
「それはそれで、いい気味だわ」
「いやいや、それが原因で減給処分にでもなったら、彩那の小遣いにも影響するのよ」
「それは絶対ダメ!」
声に力が入った。廊下を行き交う生徒が一斉に振り返った。
「まあ、今回は仕方ないわね。彩那の正義感が招いた悲劇なんだから」
「そうでしょ? 私はちっとも悪くないもの。それにさ、校長には言わなかったけどね、不審者役の一人が遊び心で、私に向かって模造刀を振りかざしてきたのも事実なのよ」
「きっと、か弱い女子高生と勘違いしたんだね。連中は一体どこに目をつけていたのかしら。この起伏のないボディを見れば、相手が女装した男子高校生だって分かるでしょうに」
奏絵は両手を伸ばして、友人の胸と背中を挟み打ちにした。
「あのねえ、今は心の悩みで手一杯なの。身体の悩みまで上乗せするな」
「ごめん、ごめん。でも陸上大会のインタビューで答えてたじゃない。優勝できたのは、空気抵抗を極限まで減らした、このボディのおかげですって」
「それは中学までの話。高校になったら、話は別よ」
「でも、彩那って見た目は女の子っぽくていい感じだと思うけどな。背はすらりと高いし、痩せてるし、しかもショートヘアが見事に似合ってる」
「本当?」
彩那は目を輝かせた。
「お人形のように何もしなければ、内に秘めた凶暴性は誰にも分からないんだから」
「そうやって、高く持ち上げてから突き落とすの止めてくれない?」
二人は肩を並べて中庭に出た。つつじが咲き乱れる広場では、噴水だけが黙々と仕事を続けていた。入学して以来、ここはお気に入りの場所である。
仲良くベンチに腰を下ろした。すぐ背後には新緑の匂いが迫っていた。おかげでさっきまでの悩みが薄れていく気がする。放課後までずっとここに居られたらと、半ば本気で考えた。
「ところで、奏絵。部活は決めたの?」
「私は文芸部よ」
「そうよね。あなたは文学少女だもんね」
友人はこっくりと頷いた。
「彩那こそ、どうするの? 確かこの前、演劇がどうとか言ってなかったっけ?」
「そう、演劇部。すでに入部届も出してあるのよ」
奏絵は目を丸くした。
「どうして演劇なの? 陸上じゃなくて?」
「私は生まれ変わるのよ。中学まではアクティブに、そして高校ではエレガントに」
そう言って友人の正面に立つと、両手でスカートの裾を持ち上げて軽くお辞儀をした。
「ふうん、でもそんなに都合よく性格が変えられるものかしら?」
奏絵の呆れた声。
「確かに変身願望もあるんだけど、実はお父さんにね」
「お父さん?」
「高校生になったら、演劇部に入るように言われているのよ」
「それはまたどういう風の吹き回し? 中学では柔道を強制していたお父さんが、高校では一転して演劇を勧めるだなんて」
奏絵は箸を持つ手を止めて考えた。身の回りに起きたミステリーは全て解決しなければ気が済まない性格なのだ。この件も彼女なりの説明をつけようと思いを巡らせているのである。
彩那にとっても、最初は不思議に感じられた。しかし頑固な父親が一度言ったことを撤回するとも思えず、そのまま従うことにした。それに演劇が自分の性格を変えてくれるのであれば、むしろ歓迎すべきことだと思い直したのだ。
「それじゃあ、私も演劇部に入ろうかしら?」
「でも、あなたは文芸部なんでしょ」
「そこは大丈夫。部の掛け持ちは可能なんだって。それに彩那と一緒にいた方が、学校生活も退屈せずに済みそうだし」
「ちょっと。それ、どういう意味?」
「冗談、冗談。実は演劇は以前から興味あったのよ。役者より脚本の方だけどね」
「確かに奏絵は文学的センスの塊だからね。何たって、携帯電話の取扱説明書で読書感想文五枚も書くんだから」
「それは小学生の頃の話でしょ」
「あの時の担任の驚いた顔、今でも忘れられないわ」
「その件はもう時効よ。それに、後でちゃんと本物も提出したんだから」
「知ってるわよ。でも、確かに奏絵と一緒なら退屈しないかも」
二人は顔を見合わせて笑った。
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