第24話 x:
その日は突然やってきた。それは他の毎日と違うところなどありはしない、凡庸な日だった。
人生が有限であることはもちろん知っていたし、終わりこそが万人に平等に与えられた唯一の福音だということも知ってはいた。でも、あの日から僕は、そのことをずっと理解できないでいる。知識と感情と認識はまったくの別物なのだ。
「じゃあ、遅くなるけど、夕飯は帰ってきて食べるからね」
彼女の最後の言葉はこんな感じだったと思う。前の日に夜更かしをした僕は、半分眠りながら、彼女のその声をベッドの中で聴いていた。だけど、それが最後だなんて思ってもみなかったから、その記憶は曖昧だ。僕もなんと返したのか覚えていない。なぜかレンズ豆とトマトのスープを作ろうと思ったことは覚えている。でも、それが最後だった。すべてはそこで断ち切られて、過去とも未来とも繋がってはいない。すべては止まったまま。そこにあるのは純然たる断絶。どこへも行けない。
その瞬間から、僕はあらゆることの意義を見失ってしまった。繰り返し上映されるスライドショーのような毎日に意味を感じられなかったし、本当に大切なことなど、この世界には何ひとつありはしないように思えた。現実感が薄く、意識は散漫となり、安いアルコールに冒されたように、常に胸がムカついた。でも、僕を取り巻く日常は変わらずに流れていき、自分だけがそこに取り残されていった。僕の毎日は、ただの惰性でしかなかった。
僕が彼女の手紙を受け取ったのは、それから暫くしてだった。
その日、彼女の友人と名乗る同年代の女性が僕を訪ねてきた。僕が少しだけ身構えながら、そろそろと応対に出ると、その女性は言葉少なに玄関先で手紙を差し出してきた。そして、僕に手紙を手渡すと、すぐに立ち去ろうと踵を返した。僕は慌ててその人を呼び止めて、もう少し話をさせてもらえないかを尋ねてみた。僕はただ、自分の知らない彼女のことをいろいろと訊きたかったのだが、僕の願いは叶わず、やんわりと断られてしまった。
思い出を言葉にしてしまうと、また悲しくなってしまうから。
それがその女性の口にした理由だった。傷付いているのは僕だけではないということなのだろう。それに、万人が慰め合いを求めているわけでもない。独りで悲しみに向かい合う。そういう権利だってあるのだと思う。僕は諦めざるを得なかった。
もう、いまとなってはその女性の印象も朧げで、次に街中で出会ったとしても、きっと気づくことはできないだろう。
そうやって僕の手元にやってきた手紙の中で、彼女は個性的な字を綴って、ジルのことを僕に託していた。あと、その手紙のおかげで、僕には彼女のアナログレコードを聴くという、アイデアの欠片が残されていることを知った。でも、それが動機になった訳ではない。僕の中で何かの意味を持った訳でもない。それで僕に気力が戻ったり、生きる理由が生まれたりした訳ではない。ただ、ひとつ言うのであれば、それは僕が自己憐憫に浸る言い訳にはなった。
手紙を読み終わっても、不思議と涙はやってこなかった。いまではない気がする。僕が本当の悲しみに暮れるのは、たぶん、もっと先のことだ。僕という水槽に、悲しみが満ちて溢れ出すには、まだ時間がある。それまでに僕はなにを残せるだろう。何をすることができるのだろう。本当の悲しみがやってくるその前に。
僕は手紙から顔をあげると、取りあえずジルのためにキャットフードを買いに行くことにした。考え事は歩きながらの方がいい。僕はエコバッグを納戸から引っ張り出すと、財布を握りしめて部屋を後にした。
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