第5話 e:
気がつくと、僕は才谷さんを目で追うようになっていた。でも、それは異性に向ける関心というよりも、もっとシンプルな好奇心からだった。才谷さんはとても努力家で、何事にも真摯に打ち込むその姿勢には、感銘すら覚えるほどだった。けれども、それはうまく噛み合ってはいなかった。最初の一歩における微妙なズレが、その後で盛大な空回りに変わる。ひとつひとつは小さなズレでも、積み重なっていくと、気付いた頃には取り返しがつかなくなっている。言ってみれば、そんな感じだった。
ある日、なかなか上がってこないビルのエレベーターにしびれを切らせた僕が、外階段を降りようと非常扉を開けると、ハンカチを握り締めてしゃくりあげている才谷さんに出くわした。
なんとも間の悪いところへ来てしまった。僕の顔には、それがはっきりと出ていたのだろう。
「す、すみません……違うんです」
慌てて目元を拭ったせいで、才谷さんのメイクは崩れてしまっていた。マスカラが無残に滲む。
「僕のオススメは、もうひとつ上がったトコロの踊り場かな。そこなら誰も来ないよ」
僕は壁に寄りかかってセブンスターのソフトパックを取り出すと、一本咥えて火をつけた。学校を卒業して以来、ずっと禁煙していたのだが、最近また喫煙が習慣化していた。
「なんでオススメなのかと言うとね、僕はよくそこでサボってるんだ。いままで見つかったことはないからさ、ちゃんと実績はあるよ」
フロアにある喫煙所は社内の社交場なので、隙あらば一人になりたい僕には向いていなかった。なので、僕は非常階段でよく一人で煙草を吸っていた。
「……たまにいないと思ったら、そんなところにいたんですね」
そう言って才谷さんが少しだけ笑みを見せてくれた。なんだか気障ったらしいセリフのようで抵抗がないわけではないのだが、女の子の泣き顔は苦手だ。見ていてなんだか辛くなる。
「そう。みんなには言わないでよ」
戯けた調子で、僕は人差し指を唇の前に立ててみせる。
「わたしも……言わないでもらえると、ありがたいです」
才谷さんは目を伏せると、ハンカチをきゅっと握る。それは才谷さんの矜持を窺わせる仕草のように僕には感じられた。細い指先が柔らかい布地にきつく喰いこむ。
だから、もうひとつ僕は自分を開いてみせた。リアルにならないように細心の注意を払う。
「大丈夫。僕に話し相手はいないから」
すると、一瞬の間があってから才谷さんが堪えきれないといった感じで口を開いた。
「いや、それはそれで大丈夫じゃないですよね。もっと周りと絡みましょうよ」
くすりと笑うと、才谷さんはいつもの調子を取り戻したようだった。いや、いつもの固くて真面目な調子よりも、もっと柔らかくて触れやすい雰囲気だった。悪くない。
そう。それでいいのだと思う。僕がめずらしく軽口を叩いた甲斐があったというものだ。
「いやぁ、ごもっともだね」
僕は紫煙をゆっくりと吐き出しながら、ビルの隙間からのぞく青白い空をぼんやりと見上げた。
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