絵画と恋
名浦 真那志
1
日頃より、己の観察眼は優れていると
それは彼女が、事物を忠実に写し取る具象画を生業としているからとも言えるし、また逆も然りとも言えた。事実、彼女のテンペラ画は平面に描かれたものとは思われぬほど生彩に富み、彼女の絵を見た人々はまるで対象物が生きているようだと称賛した。
しかし、「それ」は彼女の観察眼が優れていようといまいと関係ない程露骨で、明らかだった。
「それ」は、彼のまなざしだった。
彼ー澤藤
偶然て、そんなに毎週毎週、しかも決まって水曜日に重なるもんですかねえ。一度そう言ってしまいたくなったことがある。が、しかしそんなことを言えば彼の、まるで思春期の少年のような淡い恋心は白日の元に晒され、ともすると粉々に打ち壊されてしまうかもしれない。あえてそのような事をするほど、江島は無責任ではなかった。
入梅し、鬱々とした雨の日が続いていたが、その日は珍しく午後から雨が上がった。そして例によって、彼らは連れ立って江島の住まう平屋に姿を見せた。
「今日は早かったね」
「そうなの。閑散期で、仕事がすぐに捌けたから」
門柱の横に植わったエゴノキは、昨夜の雨で白い星型の花をだいぶ落としてしまっている。木陰に立つ泉は、さながら星空に浮かんでいるようだった。
彼女の後ろには、例によって澤藤が佇んでいる。「澤藤さんも、お早いんですね」言ってしまって、しまったと江島は思った。少し嫌味ったらしくなってしまったかもしれない。「おかげさまで」分かっているのかいないのか、曖昧な笑みを湛えて澤藤が応える。
「もし良かったら、お二人とも上がってお茶でも飲んで行きませんか」
申し出たのは、今朝から急に気温が上がって夏めいてきたからだけでなく、もう少し時間をとって彼のまなざしを検証してみたいという好奇心にも由来していた。
「え、え、いやいやいやご迷惑でしょう、せせせ生徒さんがいらっしゃるんでしょう」澤藤は急に狼狽えて両手を体の前でぶんぶんと振った。彼は緊張すると吃る癖があるようだ。
「いいえ、水曜は泉だけなんで。ねえ泉、たまにはどう?」
それを聞いた澤藤が、いたずらが見つかった犬のように泉の方を見やる。江島はオーギュストのコントを見ているような気持ちになった。
「もちろん、それと澤藤さんには是非私の描いている絵を見てほしいわ」
泉は陶器のように滑らかな頬に笑窪を刻んだ。
時に、彼女の無邪気さは躊躇いがない。これが意図していないというところに恐ろしささえ感じる。
「決まりね、二人ともどうぞ中へ」
踵を返す際、澤藤が小さく息を吐くのを耳にした。
江島と泉は高校の同窓であった。当時から絵の才能を認められた江島は東京の芸術大学へ、読書を好んでいた泉は県外の大学で教員免許をとった。高校では一度しか同じクラスになったことがなく、さして深い友達付き合いをしていなかった二人だが、奇しくも江島は職に就くことができず、久賀沼にあった亡き祖母の家を継いで絵画教室を始め、泉は母校の国語教師となった。
お互いにそのことを知らぬまま、
「私ね、昔からテンペラ画を描いてみたかったの。もし良ければ、かたせちゃんの所で教えてくれないかな」
江島の絵画教室には美大志望の学生から、定年後で暇を持て余した老人が通っていて、江島自身年齢や性別に関係なく他人と接することができていたが、何故か泉に教えるとなると少し面映ゆい、くすぐったいような気持ちがした。しかし、再会してから知った彼女の明るく、屈託のない性格に惹かれていたため、二つ返事で了承した。
実際に教える段になると、彼女はテンペラ画というよりもむしろ、パースの取り方や画面構成、いやもっと基礎的なところから教えた方が良いのではと思うことがあった。もともと美術の授業でしか絵を描いたことがなかったらしく、泉は「実はあまりデッサンの成績が良くなかったの」とイーゼルの前で頬を染めた。正直、江島はその事実に安堵した。強固に築かれているように見えた城壁に、ふと小さな扉を見つけたような気持ちがしたからである。
「じゃあ、澤藤さんは泉と同じ学年を教えているのですね」
アトリエで冷たい麦茶を飲みながら、澤藤は頷いた。と同時にコップを持つ手がぶれ、危うくこぼしそうになる。勢い余った肘が机にぶつかり、花瓶に生けたガーベラが危うく揺れた。
今までは軒先で一言二言、言葉を交わすのみで彼が泉の同僚だということしか知らなかった。どうりで「帰りが一緒」になるわけだ。
「は、はい」
澤藤はそう返事しただけで、決まり悪そうに麦茶をまたすすった。
さりげなく台ふきんを澤藤のそばに置きながら、江島は改めて彼のことを見た。平均よりもかなり背が高い彼は、アトリエのスツールの上で窮屈そうに体を折りたたんでいる。顔の造作には目立ったところが無く、むしろ今彼がかけている黒縁眼鏡こそが、彼の特徴すべてといってしまえるほどだった。仮に、眼鏡を外してしまえば、街で遭ったとしても気づかないかもしれない。
果たして「彼」の肖像画というものが描けるのだろうか、と江島は考えた。タイトルは《ある男》以外付けられないのではないか。江島は、かねてから築き上げていた己の観察眼に対する自信が、初めて揺らぐのを感じた。
「中学2年はね、修学旅行がないから体育祭が終わると期末まで特になにもイベントがなくって、その間は少し早く帰れるの」
と、少し沈黙が流れた後に泉がにこやかに言う。彼女は澤藤の緘黙さをさして気に留めていないようだった。「早く帰れる内に下描きを終わらせないと。早くテンペラに移りたいわ」「それもいいけど、もう何枚か描いてみて、そこから選ぶのもいいんじゃないかな」
「あ、あのう。絵はなにを題材にしていらっしゃるのですか」
フォルテピアノからのクレッシェンド。澤藤がおずおずと口を開いた。彼は泉に対して敬語で話しているが、彼のほうが年下なのだろうか。それとも敬語が彼のデフォルト言語なのだろうか。
「あ!じゃあ見せるから当ててみて」
と泉は立ち上がり、乾燥棚に置いてある画用紙を手にとって戻って来た。
「えっと…」
澤藤は右手で眼鏡のつるを摘み、画用紙に目を落とした。泉がこの絵画教室に訪れてから数ヶ月、初期よりは上達したはずだと江島は思っているが…。
「バケツに活けられたヒマワリですか」
「…さんかく。」
二人のやりとりを聞いていた江島は、思わず吹き出した。
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