気まぐれドラゴン(仮)
粗茶
第1話 遭難
大学のキャンパスに桜が舞い落ちていた。構内に植えられた桜の花は既に散り始め、場所によっては葉桜になっている。
アスファルトに降り積もる花びらが、突風が吹く度に儚げに宙に舞う。
多くの学生が講義を終えて家路に、またはバイトに向かうため大学を後にする。それを待ち構えるように、新入生に狙いを定め、サークル勧誘のチラシがいたる所で手渡されていた。
ノルマでも課されているのか、勧誘する側も必死に声を掛けている。多くの新入生が無視して素通りしている中、一人の新入生が綺麗な女性に捕まっていた。
「レン君か~。私はサークルの代表をしている鈴木明美。よろしくね」
「はぁ……」
歯切れの悪いレンの体を、明美が舐めるように見渡す。
「君は体つきがいいんだから、登山サークルに入るべきだよ。身長も高いし、見たところ筋肉質だし、絶対に向いてるって」
「その、サークルに入る気はなくて……」
レンは肩を落として困ったように周囲をキョロキョロ見渡す。
眉をひそめて助けを求めるも、大学に入学したばかりで友達はおらず、皆が興味なさげに通り過ぎていた。
嫌なら普通は直ぐに逃げ出しそうなものだが、残念な事にレンは断るのが大の苦手だ。
立ち去らないレンを見て、チャンスとばかりに明美が畳みかけた。
「サークルに入る気が無いって事は、他のサークルにも入らないって事だよね? なら試しにうちのサークルに入りなよ。女子が多いから、レン君ならきっとモテモテだよ?」
意外な言葉に思わず「え?」と声が出る。
登山で真っ先に思い浮かぶのは、むさ苦しい山男がデカいリュックを背負っている姿だ。
「あの、女性が多いんですか?」
「今は山ガールが多いからね。うちのサークルだと、男子と女子の比率は1対9かな。勿論だけど女子が9よ。ちょっとは興味あるでしょ?」
明美は顔を近づけ、悪戯っ子のようにニヤリと笑う。
圧倒的な女子率と小悪魔の微笑みが、レンの心を揺れ動かす。幸いレンは体力に自信があるし、彼女が欲しいとも思っている。引っ込み思案な性格が玉に瑕だが、その性格も常々変えたいと思っていた。
見方を変えればこの機を逃す手は無い。レンが落ちるのはカップラーメンを作るより早かった。
「その、体験入会でよけれ――」
「じゃあ決まりね! これに記入してくれる? 体験入会でも届け出を出すのが、うちの決まりなの」
言い終わる間もなく、手に持っていたバインダーが突き出されていた。
挟まれているのは入会届けだ。
「はいこれ」
片手にバインダー、もう片方の手にはボールペンが握られている。
レンが二つを受け取り背中を丸めて記入していると、後ろから明美が覗き込んでいた。耳元に明美の息遣いを感じてレンの顔が僅かに染まる。
「レン君の名前ってカタカナなのね」
「珍しいですよね。僕もあんまり好きじゃなくて……」
「そうなの?」
明美はレンの顔をじっと眺めて「ん?」と、小首を傾げた。
「ねぇ、レン君ってもしかしてハーフ? その髪の色って地毛だよね」
明美が見ていたのは髪の生え際だ。
レンの髪は黒と金の他にも、ブラウンが混ざっている。一見すると分かりづらいが、それらの色が不規則に生えているため、明らかに染めているのとは違っていた。
レンはバインダーの上にボールペンを置くと、空いた指で自分の前髪を摘まんで色を確認した。
「父がイタリア人で母が日本人なんです。この髪もあんまり好きじゃなんですよね」
「なんで? 格好いいじゃない」
「小さい頃はよく髪の色で苛められていたので……」
苦い思い出だ。
時に無邪気な子供の一言は他者を深く傷つける。
小学校に入学した当初、一人だけ髪の色が違うレンは、さぞ目立っていたに違いない。
何気ない一言だ。
「何でレン君は髪の色が違うの?」隣に座る子が言うと、後ろに座る子が「へんなの」と、小さな声で呟いていた。後は雪だるま式にクラス中に広がり、いつの間にかレンは仲間はずれにされていた。
今ではそれが尾を引いて、レンの性格に大きく影響を及ぼしている。引っ込み思案になったのも、他人との関わりを恐れてのことだ。
「子供の頃はちょっとしたことでからかわれたりするからね」
明美は一瞬気まずそうに顔をしかめるが、直ぐにニコリと笑みを見せる。
「でも今はモテるでしょ? レン君は顔も良いんだから悲観することはないわよ」
「だといいんですけど……」
「歯切れが悪いわね。彼女とかいないの?」
「残念ながら……」
「もしかして童貞君?」
唐突な質問にレンは真っ赤になって俯き、声が出なくなる。
態度を見れば経験が無いのは直ぐに分かることだ。
「そっか、童貞君か~。でも恥ずかしい事じゃないよ? 男女問わず、新入生の半分以上は経験が無いと思うしね」
明美はレンの顔を下から覗き込んでまじまじと眺めた。
「勿体ないな~。私に彼氏がいなかったら、絶対に食べちゃうけどな~」
「え?」
「なに驚いてるの? 客観的に見てレン君は超イケメンだよ。彼女がいないのが可笑しいのよ。今まで告白とかされたことないの?」
レンは過去を振り返るも思い当たる節は無い。
強いて言うなら女子の間である遊びは流行っていた。
「正式な告白とは違うんですけど、中学や高校の頃は、誰が俺のことを落とせるかで女子が遊んでいたようです」
「なにそれ?」
「えっとですね。女子が集まる中で告白されるんです。それで俺が動揺するのを皆で眺めて楽しんでるみたいで……」
レンは顔をしかめて、明美は目を白黒させる。
「ん~。レン君はその告白は受けたりしたの?」
「しませんよ。遊びで告白されているのに、真に受けたら馬鹿にされるに決まってるじゃないですか」
「……その遊び? はどれくらいの頻度でやってたの?」
「同じ女性から呼ばれることもあるので、たぶん週に四回くらいだと思いますけど」
明美は「はぁー、そりゃ凄いわね~」と呆れるばかりだ。
普通にモテモテだ。と言うよりも噂で少し聞いたことがある。ハーフの格好良い男子がいるが、無口で誰とも話さず、お近づきになれないと。
後輩の間では抜け駆けをしないように、公衆の面前での告白トライアルなるものが流行っていたらしい。
明美は誰に話すともなく「そうか~、レン君のことか~」と、俯き頭を抱える始末だ。ふらふらと後退する明美に、レンが心配そうに視線を向けた。
「先輩、大丈夫ですか?」
「ああ、うん、大丈夫、大丈夫。ちょっと聞きたいんだけど。この大学に入学してから女性に話しかけられたりしなかった?」
「変な勧誘は何度もありました。名前や住所を聞かれたり、後は携帯番号やメアドを教えて欲しいとしつこくて……。勧誘を断るのは苦手なので本当に困りました。もちろん最後はちゃんと断りましたよ? 個人情報の流出は本当に怖いですからね」
「……ねぇレン君。その女性は何で声を掛けて来たと思う?」
「何でと言われても……。個人情報を売るために集めているとか、もしくは宗教の勧誘だと思いますけど」
「そう……」
明美は再び頭を抱えて小声で呟く。
「天然って恐ろしいわね!」
レンは明美の行動に違和感を覚えて小首を傾げるも、取り敢えず記入が終わった入会届けを差し出した。
「あの、書き終わったんですけど……」
「ああ、はいはい。ありがとね。じゃあ早速サークル棟を案内してあげるわ。まだ行ったことはないわよね?」
レンが頷くと、明美は「付いてきて」と歩き出す。
10分ほど歩いてサークル棟に辿り着くと、一階の奥まった部屋で明美は足を止めた。
「ここが登山サークルの男子部屋ね。男どもは登山に出ているから誰も居ないけど」
「そうなんですね」
「部屋には防犯のために鍵が掛かってるから、代わりに女子の方を覗いてみる?」
「いいんですか?」
「今は登山計画も立ててないし、誰も居ないはずだから大丈夫よ」
明美は隣の部屋の前に立つと、ドアノブを回して中に誰も居ないか確かめた。
「問題ないわね。入って良いわよ」
レンが部屋に招かれると、女性特有の良い香りが漂ってくる。
部屋は綺麗に整頓され、壁際にはロッカーが整然と並んでいた。部屋に置かれた机の上には、地図や登山関係の本が所狭しと置かれている。
「男子の方もこんな感じね。ただ部屋はこっちの方が広いけど」
レンは物珍しそうに「へぇー」と部屋を見渡した。
特に何かあるわけではないが、女の園と言うだけでも興味津々だ。いつまでも部屋を眺めるレンに、明美は困ったように溜息を漏らす。
「もういいでしょ? 女子の部屋をじろじろ見る男は嫌われるわよ」
「す、すみません。つい……」
「別に怒ってないから、そんなに落ち込まないの。取り敢えず今日はここでお別れね。男どもが帰ってくるまでやることもないし、帰ってきたら後で連絡するわ」
明美はニコッと笑い「じゃあね」と手を振る。
早い話が出て行けと言うことだ。
レンが「それではまた」と言い残して出て行くと、明美はスマホを取り出し電話をかけ始めた。
「……秋山? ご要望の新入部員をゲットしたわよ。そ、これは貸しだからね。最初から無理な登山はさせないでよ」
明美はピッと通話を切ると思わず本音を吐露する。
「レン君か~。あの子は何日持つかしら……」
数日が経ち、レンは再びサークル棟に足を運んでいた。
登山サークルの女子部屋から明美の声が聞こえて、レンは扉の前で足を止める。ノックをしようとした瞬間に扉が開いて、出てきた明美がニコッと笑みを見せた。
「レン君おはよう。朝から呼び出して悪いわね」
「いえ、大丈夫ですよ。ところで後ろの女性は登山サークルの方ですか?」
明美の背後では複数の女性がレンを凝視している。
暫くすると部屋の奥に戻り、輪になってヒソヒソ相談を始めた。話し終えると何故かジャンケンを始めている。
明美はそれをジト目で眺めるだけだ。
勝った女性が「よっしゃー」と、勝利のガッツポーズを決めているのが見える。如何にも活発そうな褐色肌の女性は、ずかずか歩いてきて明美の横に並んだ。
「初めましてレン君。私は二年の古川弥生だよ。いやぁ、噂は聞いてたけどお姉さんはビックリだよ。取り敢えずお近づきの印に一発や――」
弥生は突如として言葉を失い、腹を押さえて「ぐおぉ」と唸り始める。
一瞬の出来事だが、レンは明美の肘が弥生の鳩尾に突き刺さる瞬間を目撃していた。弥生が何をしたのかは分からないが、地面に蹲る弥生が不憫でならない。
「……あの、大丈夫なんですか?」
「大丈夫よ。この子は体が丈夫だから」
「いや、でも……」
レンは未だに蹲り「うぉぉ」と苦しむ弥生を見下ろす。
どう見ても大丈夫そうに見えない。明美の肘鉄がクリティカルヒットしたのは間違いないだろう。
しかし明美は我関せずだ。
「そんなことより紹介したい人がいるから来てくれる?」
明美がレンの手を掴んで歩き出すと同時に、蹲る弥生の手が明美の足首を掴む。
執念でイケメンを置いて行けと訴えかけるが、明美は小さく「ちっ!」と舌打ちをして強引に振り払っていた。
明美の足に引き摺られて、今では弥生の体は地面にぐったり横たわっている。
哀れだ。
「あの……」
「大丈夫よ」
明美はニコリと笑うばかりでそれ以上は答えない。他人のトラブルに巻き込まれたくないため、レンも深く追求できずにいた。
明美は何事も無かったかのように男子部屋の前で立ち止まり、勢いよく扉を叩き出す。
「秋山~、新入部員を連れてきたわよ~」
「おお、来たか!」
野太い声が部屋から聞こえた。
扉から出てきたのは、日焼けをした筋肉だるまのような大男だ。レンを見るなり白い歯をニカッと見せて、満面の笑みでレンの肩をバンバン叩いた。
「君がレンだな。明美から聞いた通り良い体つきをしている。俺は三年の
太い腕がレンの前に出された。
「蓮川レンです。よろしくお願いします」
レンが秋山の手を握ると力強く握り返してくる。
「よし、早速だが次の登山計画の話をしよう。レンにも登って貰いたい山があるんだ。先ずは部屋に入ってくれ」
「じゃあ失礼します」
秋山が部屋の中に消えると、明美はレンを呼び止めた。
「レン君!」
レンは声に反応して振り返る。
「サークル棟に来るときはこっそり来なさい。この辺は肉食の獣が多いから、レン君は直ぐに食べられちゃうわよ」
「えっと、言っている意味が分からないんですが……。野犬でも出るんですか?」
「まぁ、そんなところね。とにかく注意してね」
「分かりました。野犬には注意します」
明美はレンが部屋に入るのを確認すると、弥生――野犬――の元に歩み寄り、身を屈めて顔色を窺う。
「大丈夫?」
「明美先輩は私に恨みでもあるんですか? なんで邪魔するんですか? 私はレン君と仲良くなりたいだけなのに~」
「いやいや、あんた初対面で一発って何よ? 流石に私でもガチで引いたわ。それにレン君は童貞なのよ。あんな言い方をしたらビックリするでしょ?」
弥生の瞳が輝きを増し、口元から涎が流れ落ちた。
「それは美味しそうですね」
弥生はまだ立てないのか、地面を這うように少しずつ移動を始めている。
執念は買うが、その行動は救いようが無い。
明美は弥生の手を掴むと、ずるずる引き摺って女子の部屋に連れ戻す。当然のように弥生は抵抗を見せるが、明美の圧倒的なパワーの前では為す術が無い。華奢な体の何処にこんな力があるのか不思議なくらいだ。
部屋に戻っても明美に安堵する余裕は無く、中では壮絶なバトルが繰り広げられていた。残りの部員がジャンケンを繰り返し、告白する順番を決めている真っ最中である。
朝と言うことが幸いして顔を見せている部員は少ないが、他の部員に話が広がるのは時間の問題であった。
「なるほど。こうやって告白する順番をきめるのね。告白トライアルとはよく言ったものだわ……」
明美は呆れて溜息を漏らすばかりだ。
同じ頃、レンは秋山から登山道具のレクチャーを受けていた。
男子の部屋は思ったより綺麗で整理整頓もされている。秋山はロッカーから登山道具を取り出し、中央に置かれた机の上に並べていた。
「レンは登山経験はあるのか?」
「残念ながらありません」
「そうか、じゃあ登山道具は持ってないんだよな?」
「はい、何も持っていなくて……。やっぱり買わないと駄目ですよね?」
レンの小遣いなど高が知れている。
本格的な登山道具を購入するお金はないし、親に出して貰うのも気が引けた。
「心配するな。登山道具はサークルの備品を使えばいい。登山靴や防寒着も各サイズ揃っている。身長は何センチあるんだ?」
「身長は181センチです」
「結構デカいな、俺より少し低いくらいか。だがそのサイズなら揃っているはずだ。後でロッカーから自分の体に合う防寒着と登山靴を選ぶといい」
「分かりました」
「それで次の登山計画だが、雪山登山にしようと思うんだ」
レンは「ん?」と小首を傾げる。
「あの、俺は素人なんですけど……」
「言いたいことは分かっている。素人には無理だと言いたいんだろうが、雪崩が起こらないコースを取るし、今の時期は天候が荒れることも少ない。それに俺や他の仲間もサポートするから問題はないはずだ」
「それは女性も登れるんですか?」
「明美なら余裕で登れるが、素人はやめておいた方がいいかもな。もちろん女子と山に登ることもあるが、今回は男子と女子は別々だ」
「別なんですか……」
レンとしては残念な話だ。
「がっかりするな。女子の方には登山経験のない華奢な子もいると聞いた。流石に登らせるわけには如何だろ? それにレンには登山の素晴らしさを教えてやりたいと思っている。雪山の澄んだ山頂から見る景色には、言葉にならないくらいの感動があるんだ」
レンはモテたいがために登山サークルに入ったのであって、登山の素晴らしさを知りたいわけではない。
断ろうか悩むも、言葉の端々からは純粋に登山に対する思いが伝わってくる。
秋山は体は厳ついが、瞳は優しげで如何にも人の良さそうな人間だ。無下に断り傷つけるのは躊躇われた。
「そこまで言うならお任せします。俺は素人なので必要な物を教えて下さい」
「そ、そうか! 行ってくれるのか! 任せておけ。俺がきっちりサポートするからな」
内心では断られるのを覚悟していたのだろう。秋山は嬉しそうな声を上げ、アイゼンやピッケルの使い方を丁寧に説明する。
僅かな朝の時間とは言え、秋山はできる限りのことを伝えて部室を後にした。
大学の講義を終えたレンは、登山用のデカいリュックを背負い家に持ち帰る。リュックの中に入っているのは、アイゼンやピッケル、防寒着など登山に必要な物ばかりだ。
家の玄関を開けてレンはげんなりする。素早く扉を閉めて抗議の視線で訴えかけた。
「姉さん、頼むからそんな姿で家の中をうろつくなよ。仮にも清純派のモデルなんだろ?」
レンの目の前では風呂上がりの姉が廊下を歩いていた。それだけなら問題は無いのだが、姉は下半身が下着一枚の姿で、上半身には何も身に付けていない。ビールを片手にグビグビ呷っていた。
見事なおっさんスタイルだ。
「風呂上がりなんだから別にいいじゃない。それより何なのよ、その荷物は? どっか出かけるの?」
「雪山登山に行くんだよ。前に登山サークルに入会したって言っただろ?」
「あっそ、気を付けて行きなさいね」
姉が興味なさげにリビングに入るのを見てレンは溜息しか出ない。
雪山登山に行くと言えば、普通の家族ならもっと心配するはずだ。ましてや素人が行くのだから引き留められてもいいはずだ。
レンは自分の部屋に荷物を置いて直ぐに台所に向かう。用意する物は多々あるし時間は限られている。何せ登山に向かうのは明後日の早朝だ。
天気の都合と休日を重ねると、登山に行ける日はかなり限定されている。明後日を逃したら次は何時になるか見当も付かない。
台所に入ると緑の化け物が料理をしているのを見て、レンの気分が一段下がる。
「母さん、泥パックをしながら料理をするのは止めろって言っただろ?」
「あら、お帰りなさい。もう少しでご飯が出来るから待ってなさい」
どうやら特殊なスキルでもあるのか、都合の悪い声は聞こえないようで、緑の化け物は鼻歌交じりでフライパンを振っている。
レンは全てを諦め食器棚の下をまさぐり、お目当ての物を見つけると、念のため化け物に許可を取った。
「この水筒を借りるけどいいだろ?」
「いいわよ。勝手に持って行きなさい」
化け物にとってはどうでもいいらしく、見向きもせずに許可を出す。
「それと明後日から三泊四日で雪山登山に行くから、俺の食事は作らなくていいよ」
「そうなの? お母さん助かるわ」
息子が三泊四日の雪山登山に行くと化け物は助かるらしい。知性に欠けるのだろう、心配と言う言葉を化け物は知らないようだ。
レンの気分が二段下がる。
三人で食事をする時も、相変わらず姉は上半身裸で、緑の化け物は化け物のままだ。登山の事を聞かれることもなく、食事はいつも通り粛々と終わる。
レンは自室にも戻るとベッドの上に横なった。
「二人とも感心がなさ過ぎだろ? まともな父さんは海外だし、やっぱりこの家は俺がしっかりしないと駄目だな」
レンはゴロンと横になり、そのまま深い眠りに落ちた。
翌日は必要な物を買い揃えて、いよいよ三泊四日の雪山登山の日だ。
レンが朝早く待ち合わせの駅で待っていると、遠くから大荷物を背負った秋山が近づいて来る。直ぐ後ろに同じく大荷物を背負った男性が二人見えて、秋山はレンを見つけるなり、大きく手を振り駆け寄って来た。
「待たせたか?」
「俺もいま来たところです。後ろの方は初めてお会いしますけど……」
「紹介するよ。同じ登山サークルの
「君がレン君か、話は聞いているよ。登山サークルに有望な一年が入ったってね。俺は三年の橋本拓哉。よろしく頼むよ」
レンは出された手を見て握手を交わす。無骨なガッチリした手がレンの手を握り締めた。
橋本の身長はそれ程高くないが、登山で鍛えられているのか、胸板の厚みは秋山にも匹敵している。髪を短く刈り上げて、顔は茶色く日に焼けていた。
「レン君はいい体格しているね。俺は三年の大竹隆史だ。よろしくな」
レンは同じように握手を交わす。
登山で顔が焼けるのは当たり前なのだろう。大竹はショートカットの茶髪で、やはり顔は日に焼けていた。
身長はレンより高く、体は少し痩せ型だ。
二人とも気が良さそうな先輩で、レンは二人に軽く頭を下げた。
「蓮川レンです。登山は初心者ですがよろしくお願いします」
橋本と大竹は二カッと笑うと任せておけと胸を叩く。一通り挨拶が終わると四人は電車に乗り込んだ。
目的地までは三人が楽しそうに登山談義に花を咲かせて、レンは黙って頷いていた。聞いているだけでも話は楽しく、時間が過ぎるのは早いものだ。
レンは何処の山に登るか聞かされなかったが、県や地名である程度は特定できる。電車やバスを乗り継いでやってきた場所は、北アルプスだと直ぐに分かった。
山の麓は積雪もあり空気は冷え込んでいる。入口でこれなら登ってからは、もっと厳しい環境なのは容易に想像がついた。
レンはしっかり防寒着を着込んで登山に備える。
事前に登山の注意事項は教えられているし、少しでも高山病の兆候が現れたら教えるように言われていた。
秋山が後ろを振り返り、レンに満面の笑みを見せる。
「予め登山日程は長く取っている。全体的にペースを落として登るから、初心者でも余裕を持って登れるはずだ。それでも辛いようなら直ぐに教えてくれ。休憩を挟みながら無理なく登って行くからな」
「分かりました」
「よし、さぁ出発だ」
秋山が先頭を歩き、その後ろにノッポの大竹が続く、レンは三番手を歩いて、最後尾はどっしりした橋本だ。
空は快晴で空はどこまでも澄んでいた。
レンは不慣れな登山靴で山道を登るが、思ったより疲労は感じられず、初日は予定より早く目的の山小屋まで辿り着いていた。
山小屋の滞在は思ったより快適で、食事は美味しく眠りにつくのも早かった。
翌朝も快晴だ。
周囲を見渡せば絶景が広がり、自ずとレンの足取りは軽くなる。今では秋山が伝えたいことが、レンにも少し分かる気がした。
確かに山の絶景には、言葉にしがたい感動がある。それは自分の力で山を登った者にしか味わえない達成感なのかもしれない。
二日目も順調に行くと思われた。
午前中は晴天が続き天気が荒れる気配は無い。天気予報でも今日は一日中快晴になっているし、降水確率も0パーセントだ。
山頂までもう少しと言うところで、先頭を歩く秋山は足を止めた。
訝しげに空を眺めて湧き出る雲に顔をしかめる。雲は移動してくるのでは無く、明らかに空から湧いて一面に広がっている。
「なんだ?」
初めて見る光景に、大竹と橋本も顔を強ばらせる。
山の上で雲が出来ることはあるが、渦を描いて湧いて出る雲は異常を感じさせるには十分すぎた。
秋山は直ぐに決断する。
「山小屋に戻るぞ。あの雲の動きは異常だ。雲が広がるのが早すぎる」
大竹と橋本も同意とばかりに頷き返す。
突然の事でレンは事態を飲み込めないが、山小屋に戻ると言われて思わず山頂を見つめた。
もう目と鼻の先だ。
恐らく20分も歩けば着くかもしれない。ここまでの努力が水の泡になると思うと足が止まった。
「レン! 山小屋に戻るんだ。ここは恐らく嵐になる」
秋山の声が飛び、レンは我に返って踵を返した。
隊列を入れ替えて、再び秋山を先頭に来た道を戻り始めた。そうしてる間も天気は急変している。
気温が急激に下がり、しんしんと雪が降り始めて風が吹き出す。次第に雪は吹雪となり四人を襲っていた。
視界は白一色に閉ざされ、凍えるような冷気が四人の体温を奪う。秋山は余りの寒さに、腕時計に備わっている温度計を見た。
デジタル時計のライトを灯して見えたのは、マイナス40と言う有り得ない数値だ。
四人が着ているのはプロ使用の防寒着だが、強風による体感温度を考えれば外に長く居るのは危険すぎた。
秋山は後ろを振り返り声を張り上げる。
「テントを張れるポイントまで頑張れ!」
後ろに人の姿は微かに見えるが、突風で声が掻き消されて後ろの声が全く聞き取れない。
秋山は苦虫を噛み潰したように顔を歪めて歩き出す。
先頭が動かなければいつまで経っても下山は出来ない。後ろを信じて歩くことしか出来なかった。
刺すような冷気で剥き出しの顔に痛みが走る。四人は風から顔を守るように、俯きながら歩いていた。
視界は殆ど無く方向も読み取れない。
頼りになるのは先頭を歩く秋山だけだ。
レンは必死で前に食らいつくが、不意にアイゼンを引っかけて大きくバランスを崩した。
咄嗟にピッケルで体を支えようとするも、気が付いたときには横からの突風で、体は宙に流されていた。
一瞬の出来事だ。
レンの後ろを歩いていた橋本でさえ、レンが滑落したことに気が付かない。俯きながら歩いているため、橋本は微かに見える大竹の足を、レンだと思い歩いていた。
レンが居ないことに気が付いたのは、三人がテントを張れる休憩ポイントに辿り着いてからのことだ。
レンは浮遊感を覚えて声を上げるが、全ては風の中に消えていた。
虚しく伸ばした手は空を切り、体は重力に従い真下に落下する。
ドスッと全身に鈍い衝撃が走り、そのまま体は転がり落ちた。それが何秒なのか何分なのかは分からないが、幸いにもレンの体は緩やかな斜面で止まっていた。
不幸中の幸いである。
柔らかい雪が緩衝材となりレンの体は守られていた。
一先ず自分が生きていることに感謝すると、体の動きを確かめた。腕や足を伸ばして問題ないと見るや、周囲を見渡して現状を確認する。
山により風が遮られているのか、風は弱く視界は開けていた。
次に滑落した斜面に視線を向けるが、山の頂は遙か上だ。上の方は風が吹き荒れているだろうし、斜面を登るのはどう考えても自殺行為に見えた。
レンはリュックに入れているスマホを取り出すも、派手に割れている画面を見て酷く落胆する。
何度も試すが思った通り電源は入らない。
頼みの綱がこの有様ではもはや絶望的だ。
「………………」
レンは言葉も無く立ち尽くす。
遭難したときは動かず救助を待つのが正しいと言われているが、凍えるような寒さが留まること許さなかった。
暖を取る物があれば別だが、レンの負担を減らすため、テントやコンロの類いは全て秋山たちが持っている。
八方塞がりだ。
レンは自分の体温が徐々に奪われていくのを感じ、リュックを背負い直して歩き出した。
空には雲がかかり太陽は見えず、方向が分かるような物は何も持っていなかった。仮に方向が分かる道具を持っていたとしても、現在地が分からず地図もないため意味はないと思われた。
レンは山の斜面に沿って歩くが、時間が経つにつれて徐々に周囲は暗くなる。
本格的に夜の帳が落ち始めていた。10分歩いたのか10時間歩いたのか、時間の間隔は当に薄れている。
レンは朦朧とする意識の中で、何かに縋るように斜面に沿って必死に歩く。
気が付くと地面には雪の感触がなくなり、前方に強い光を捉えていた。その光が、なぜ雪が無いのかを照らし出してくれる。
「ここは洞窟か……」
ゴツゴツした天井と壁が洞窟だと教えていた。
しかも洞窟の規模は桁違いだ。薄ら見える天井や壁までは、優に100メートルを越えている。
既に手足は
精も根も尽きかけた頃、レンは洞窟の奥にたどり着き、リュックを下ろして重さから解放されると、地面に仰向けに倒れ込んだ。
閉じかけた意識の中で、レンは幼い頃に憧れていた生物を目の当たりして、自然と笑みが零れている。
巨大な体躯には黄金の鱗が綺麗に並び、背中からは巨大な翼がそそり立つように生えていた。手足の先端からは獲物を仕留めるための鋭い鍵爪が伸びて、巨大な口からは鋭い牙が覗いている。頭部からは立派な角が2本生えていて、黄金の瞳は鋭い眼光でレンを睨んでいた。
体長が200メートルはあろうかという巨大な生物は、伝説や神話で登場する
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます