シンギュラリティはじめました ケース1「耳の中からはじめました」

星井岩太郎

第1話「耳かきという理不尽」

 いったい一日あたり何人の人間が、耳の中を赤く腫らしながら耳鼻科を訪れ、結果「耳かきのし過ぎですね」と告げられていることか。本来は耳カスを減らすための耳かきが、逆に増やすことに寄与している。そしてそれをみなわかっている。坂井拓夢さかいたくむももちろんそうだった。今や、耳かきはしない方がいいとされているのは誰もが知っている常識だった。


 ソファで横になり、痛む耳に点耳薬をさしながら、これもまた快感だ、痛みがなくなればさらにレベルアップした耳カスに出会えるだろうと考えている自分に、心底嫌気がさす。何年こうして、自分の身体(耳)をムダに傷つけてきたことだろう。

 坂井拓夢の開発は、いつもこうやって嫌気から始まっていた。そして世界を変えていった。


 最初に嫌気がさしたのは、満員電車だった。自分自身ではどうにもならない状況の中、詰め込まれれば詰め込まれるだけ不快指数の高い人間が増えていく。拓夢はこんな満員電車をなくすことに決めた。


 既存の車両を改造したのではなく、まったく新しい車両を作った。人が不快さを感じそうなレベルまで人数が乗車すると、車両全体の色がほんのりと赤に変わっていく。まだピンク色のうちに、その車両は乗車を拒否するようになる。真っ赤になったら電車は動かない。


 拓夢はこの車両を、乗客の体温を感知、冷房の効き具合を明示するための技術だと偽って開発した。満員電車を解消するなどという夢を語っても、鉄道会社は無視しただろう。

 テスト走行の時点では体温の感知システムを実際に作動し、成功させ、その車両は東京の23区をぐるぐると周り始めた。

 車両が乗車率の測定を開始しても、それは自己成長するAIが原因とされた。

 AIがあまりに賢くなり過ぎ、冷房による不快感を軽減するために満員電車を撤廃しにかかったとみなされた。これがシンギュラリティかと言われもしたが、車両は満員電車をなくしただけで、さらなる成長はなかった。


 次に嫌気がさしたのは、横断歩道でも止まらない車に対してだった。

教習所で誰もが、横断歩道は歩行者優先だと習ったはずだ。それなのに、少なくとも拓夢の住む地域とその周辺においては、横断歩道で止まる車は、老人ホーム、幼稚園の送迎バス、パトカーだけ。

 拓夢はこれもどうにか解決した。

 横断歩道で車を止めたかっただけだが、結果世界中の車を自動運転カーにするきっかけとなった。


 こんな2つの大仕事を終え、ノーベル賞の受賞にまで至った拓夢はもう68歳。

 耳かきマシンの発明に乗り出したのは、半ば冗談だった。もう大がかりな仕事をするつもりはなく、細々と暮らすつもりだった。ただ一生をムダな耳かきに費やしたくないと考えただけだ。


 拓夢は、開発にあたってまず、耳かきマシンが行うべき健全な耳かきを以下のように定義した。


・できるだけたくさん耳カスをとること

・耳かきをされる人物が気持ち良いと感じること

・短期的にも長期的にも、人の身体を傷つけないこと


 そして超小型の耳かきマシンを作った。拓夢は、先端がくいっと曲がった一般的な耳かきの形状にこだわった。補聴器のように耳に固定すると、自動で動くアームが現れるが、先端はこれまでの耳かきとさほど変わらぬ形状だった。


 アームがすくった耳かすは、即時本体に吸引される。そして吸引した耳かすは、いくら大きくともホコリ一粒のレベルまで解体し、空中に放出される。


 拓夢はこの放出された耳かすが他の人体に影響を与えないか、不快感を与えないかにも気を配った。またそもそも、耳かきをどのレベルまでにとどめ、どのくらいのタイミングで行えば悪影響とならないか、判断が必要だった。


 それには、これまで培われてきたAIの技術が活かされた。

 皮膚の状態を常時モニタリングし、少しでも危険な兆候が見られたらすぐにマシンはピンク色に変わる。電車と違って、真っ赤になるまでは待たない。この時点で一旦耳かきは休止となる……、はずだった。


 拓夢は10人の被験者に耳かきマシンを渡した。

 そのうちの一人が、「マシンがピンク色になっているのに、耳かきがまだ続いている」と言い出したのだ。実験開始から1か月半後のことだった。彼、村田孝輔はこうも付け加える。「ものすごく気持ちが良かったから、直さないでほしい」。


 拓夢が調べてみたところ、耳が傷つけられていたのに耳かきが続いたのではなく、耳が傷つけられていなかったのにマシンがピンク色になっていたことがわかった。

 それが単なるシステムエラーによるものなのかAIの自己学習による結果なのか、拓夢にもはっきりとはわからなかった。

 ピンク色にするというのはただの処理であり、人の身体を傷つけないというルールは絶対だった。処理方法を柔軟に変えることは、ルールのためなら仕方がないという設定もある以上、エラーとは判断できない。


 結果、処理を変えた理由はひとえに、村田孝輔が「その方が気持ちよく感じられたから」に他ならないだろうと拓夢は推測した。

 村田はこれ以前にも一度ピンク色になった経験があると報告していた。そのときは本当に耳が傷ついていた。そして、耳かきが休止されたことにひどく苛立っていた。

 そして再開後の耳かきによる快感は、それ以前の数倍はあったという。


 その快感の経緯を、耳かきマシンは学習していたのだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る