色水と揚羽
王生らてぃ
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水色の背中が、ぼくを見ていた。うだる昼下がりだった。昼食っていう気分でもなかった。クラスメートたちの、にこやかに笑う顔を見ているだけで、なんだか無性にいらいらした――誰にだって、そういう気分になるときがある、ぼくはたまたまそれが今日だっただけだ、誰も何も悪くない。
校舎は、巨大な「コ」の字、あるいは「U」の字をしていて、取り囲まれるように大きな庭がある。そこだけ、まるで別世界で、『タイム・マシン』で見た未来世界のように植物にあふれている。そこにその背中があった。かんかんの太陽が、ぼくにそれを見せた。汗で、ワイシャツの下の、血の流れている肌が、うっすらと透けていた。
ぼくはしばらく立ち止まって、うんともすんとも言わない、その背中を見ていた。赤い煉瓦で組まれた、小さな花壇の前にしゃがみこんで、なにかをじっと見ていた。けれど、なんだか、近寄りがたい雰囲気を感じて、ぼくは少し離れたところから眺めていた。何か、声をかけたほうが良かったかもしれなかった。
ねえ。何をしているの?
声が出なかった。ぼくは足に力を入れて、そこに立っているだけで精いっぱいだったのだ。結局ぼくはそのまま逃げるようにして、校舎の中に入っていった。そして、トイレに行ったあと、ペットボトルの水をいっぱい飲んだ。
結局、あの子は振り返ってくれなかった。
ふるい田舎の学校だから、クーラーなんていう、気の利いたものは据え付けていない。ぼくが小学生のころ、まだ子どもだったころ――もっとこの小さな町は涼しくて、風が気持ちいい所だった。秋は遠くの山から、なにかの燃えるような匂いが、風に乗って、からすたちが黒い羽を広げて、空を埋め尽くしていた。冬は雪が積もって、こんこんと、白い空気が町じゅうを包む。海風は凍りそうなほど緑色で、雲は薄黒い。
ところが最近、春にようやく桜が咲くようになってしまった。
六月には、蜻蛉が飛ぶようになったのだ。
夏は暑い。汗が、額に滲む。空気がじっとりと湿っていて、まるで見えない壁で自分の周りを包み込まれているみたい――こんなに不快な季節は、ほかにない。
たった十年くらいで、こんなに生活が変わってしまったのだ。
次の日もぼくは中庭に行った。昨日が暑かったせいか、今日は涼しくて、風も穏やかだった。あの場所に、また、あの背中があった。昨日と同じようにその場にしゃがみこんで、昨日と同じような背中でぼくを見ていた。まるで昨日からずっとその場にいたんじゃないか、そう思わせてしまうくらい――でも、ぼくは気付いてしまった。ワイシャツの下、汗ですける肌の色は、昨日と違っていた。
あの背中が、ぼくをじっと見つめてくるから、それだからいけないのだ。ぼくは見つめ返してあげただけだ。
いつの間にか、その子は立ち上がった――ふわっと、風がぼくと彼女の間にある世界を巻き上げた。そう、その背中は女の子だったのだ。次の瞬間、そこに立っていたのは、さっきまでの背中とは違う女の子だった。髪が黒くて、瞳が茶色で、肌が白くて――スカートを穿いていた。ぼくと目が合った。その女の子は、不思議そうな目で、ぼくのほうに視線を投げた。その表情は、まるで、珍しい昆虫でも見つけた時のようで……
「こんにちは」
にっこり微笑んで、でも瞳はほっそり、包丁の穂先みたいな輝きがあった。ぼくを警戒しているのだろうか。また、風が吹き込んだ。中庭の植物や、花や、蟠っていた悪い空気みたいなものが、ざわざわと吹き抜けた。女の子の髪が揺れた。太陽の光にきらきら反射して、まるで虹のよう。
女の子は、右手のほっそりした人差し指を、二歳の男の子がやるように口にくわえた。そしてだらしなく宙にかざすと、次の瞬間、その指先に黒い翅の蝶が、引き寄せられるように止まった。
どこから飛んできたのだろう――まるで宙から突然あらわれたようだった。
ぼくはいつの間にか教室に戻っていて、自分の席についていて、古文の教科書を音読していた。立っているのはぼくだけで、教室じゅう見回したって、あの女の子の姿はなかった。
次の日は雨だった。窓から中庭を見下ろしても、そこには深い緑が浮かんでいるだけで、誰の姿もなかった。
じめっとする雨だった。身体じゅうが、むずがゆくなるようでぼくは憂鬱な気分を抱えたまま、一日じっと過ごしていた。退屈で、お腹の上の辺りが、どーんと重たくなるような気持だった。ぼくはなんだかいたたまれなくなって、教室を飛び出した。
ぼくの足は、校舎の隅っこにある図書室に向かっていた。図書室の入り口は一階にある。そこから三階建ての校舎を、三階まで貫いている、とても大きな図書室だった。いつも利用者は少ないか、ほとんどいない。受付のカウンターに座った図書委員の女子生徒が、欠伸をしながら、申し訳程度に本を読んでいた。
昆虫図鑑の背表紙が、ぼくの目に入った。何気なく開いてみる、チョウのページ。昨日、あの女の子が指先に呼び寄せた、あの黒い蝶のことを、ぼくは思い出した。
烏揚羽。
そのチョウの写真が、ぼくの目に止まった。真っ黒な翅と、アスファルトに流れる油みたいな雨の色。濡れた烏の翅のように、不思議な光。あの蝶を見たのは、ほんの一瞬だったような、それともじっと、もっと、長い時間をかけて見ていたような。生息地域、日本全域。四月から九月ごろ見られる……
すると、ページの隙間から、のそのそと、六本の細い脚を動かして、烏揚羽が現れた。それは、図鑑を持つぼくの親指に少しだけ鱗粉を付けて、どこかへ飛び去って行く。ぼくは慌てて図鑑を本棚に戻すと、その蝶を追いかけた。
図書室の階段を、ゆっくりとのぼっていく。ぼくもゆっくりと追いかけた。実にゆっくりと飛んでいくその蝶の翅は、蛍光灯の光をきらきら照り返して、とてもきれいだった。静かな図書室、誰もいない図書室、そこにはぼくの階段をのぼる足音と、烏揚羽の羽ばたく音、鱗粉のきらきら光る音が聞こえていた。
最上階の、いちばん隅っこの本棚の横の開いた窓から、そいつは飛んで行ってしまった。雨はそろそろ止みそうで、町の向こう側から真っ赤な太陽の光が差し込んできていた。分厚い雲に覆われていて、まだ、その姿は見えてこないけれど……
ぼくの口からため息が漏れた。窓の下を見下ろしても、そこには何もなかった。ただ、ずいぶん遠い所に地面が見えるだけ。烏揚羽も、あの女の子だって、そこにはいなかった。
教室に戻ると、もう誰もいなかった。ぼくの机の上には、広げたままのノートと、だらしなく口が開いたままの鞄が置いてあった。クラスメートたちはみんな、とっくに帰ってしまったようだ。だらだら机の上を片付けているだけで、シャツの下に汗がにじんでくる――ふと、古文のノートの切れ端に、見なれないシャープペンシルの字で、
あの場所にいます。
と、書いてあった。
「この子が、お世話になったみたいだから」
鞄もノートも机にばら撒いて、中庭に戻ったとき、あの女の子がいた。夕陽がかんかんに照って、白い校舎を真っ赤に染めあげていた。濡れた地面から、陽炎が立ちのぼっている。植物に囲まれたこの中庭は、まるでサウナのように蒸し暑かったけれど、その女の子の周りだけまるで別世界――きりっとした冷たい木陰が、空間を支配していた。
「そしたら、あなたが助けてくれたっていうから」
女の子の指には、あの黒い烏揚羽が止まっていた。目線より、少しだけ高いところに腕を掲げ、翅をゆっくりと、動かしている。英雄の肖像画に共に映り込む猛禽のような、気高い色彩がそこにはあった。
女の子がぼくを見た。
「ありがとう。お礼が言いたかったの」
それは、ぼくが初めて見る人間の顔だった。ほっそりした瞳は、まるで鍛えられた日本刀のように美しかった。女の子はぼくを一瞥したあと、烏揚羽の乗った指先を口元にそっと引き寄せて、その黒い翅にそっとくちづけをした。そいつは、嬉しくてたまらない、というふうに翅をばたばた動かした。中庭に、びゅっと風が吹いた。ぼくが気付いた時には、どこかへ消えてしまっていた。
女の子はまた、しゃがみこんで、花壇をじっと眺めていた。
ぼくは一歩、女の子に歩み寄った。また一歩。
また一歩。
あの、水色の背中だ。ぼくをじっと見ていた。夕焼け色に染められても、まだそこに輝く水色の背中――気がついたら、それはもう、ちょっと手を伸ばせば触れられそうなほど、近くにあった。
ここは何なの?
ぼくには見えていた。煉瓦が円形に積み上げられた、小さな花壇。色とりどりの花が、そこには咲いていた。赤い花。青い花。黄色い花。紫の花。そして、緑の葉っぱと、茶色くふかふかの土……そして、女の子の水色の背中。夕陽は赤くても、紫とか、青とか、緑とか……いろいろな色でふちどりされた、風に揺れる黒髪。
教室から見下ろしても、中庭は緑と、茶色と、灰色しかなかった。この、ぼくの目の前にいる女の子の周りだけが、別世界なのだ。
「ここは――何なのっていうのも、変な話ね。私がいちばん落ち着くところよ。この世のどこよりも。ここは静かな声が聞こえる場所」
それは、暗にぼくの存在が邪魔で、うるさいものという意味なのだろうか――と、思ったときに、女の子が首を回して振り返った。ぼくはちょっぴりうつむいていたから、しゃがんでいたその子と、ばっちり、目が合った。
目を逸らしたくても、逸らせなかった。
「あなたは、どうしてここに来たの?」
「どうして、って、ほどじゃないよ」初めてまともに声を出して、彼女と会話をした。「うん、そう、理由なんてないよ。ただ、ここが一番落ち着きそうだったから。なんとなくだよ」「ここには、よく、そういう人が来る」
女の子はそれきりなにも言わなかった。白い膝が光っているのが、ぼくからは見えた。花壇の方をじっと見つめて、そんなに何を見ているのだろう、面白いものもないのに――そこにはただ、咲いて、風に揺れる花があるだけだ。
「面白くないでしょ。それがいいの」
咄嗟にぼくは、右手で口を押えた。もしかして、口に出してしまっていたのだろうか。けれど女の子は、怒った様子もなく、ただ笑った。
「ここはとっても静かなの。ここでは考えていることが、勝手に分かってしまう――声に出さなくても、表情を見なくても、あなたが私のことを見なくたっていいの」
くすくす、と肩を少しだけ震わせて笑うと、風が悪戯にぼくの頬を撫ぜた。
「この世界は、面白すぎるもの。これくらいがちょうどいいのよ。静かで、何もなくて、自分の力では何一つ動かすことができない――それくらいがちょうどいいと私は思うもの」
「君はだれ?」
「私? 別に。女の子よ」
「君のことを、女の子と呼びたくないんだ」
「あら、どうして? 女の子でいいわ。それとも、女優1とか」
振り返らずに答えたその水色の背中に、ぼくの右手が触れた。ぴくっと、まるで氷で触られたように彼女の背中が跳ねた。そのままぼくは、女の子の脇腹に両腕を滑らせ、そっと背中に身体を押し付けた。細くて、すぐに壊れそうなその身体を、そっと抱き寄せた。壊さないように、壊れないように。
風が、ぬるく吹き付けた。花壇のなかの花が、揺れていた。巻き上がる髪の毛からは、烏揚羽の鱗粉のように、きらきらした音の匂いがした。
女の子は抵抗しようとしなかった。やがてぼくが腕を離し、立ち上がる。その女の子は、ぼくのほうを見た。仕方ないなあ、またやっちゃったのね?
小さい子をなだめる、慣れない姉のような顔だった。
「
女の子は小さく呟いた。「私の名前。あなたの名前は?」
ぼくはうつむいて答えた。すると、雨音はゆっくりと、緩慢な動作で立ち上がった。
「そう。とっても綺麗な名前ね」
すぐ目の前に、雨音の顔が見えた。ぼくの頬に、彼女の指が絡みついて、唇が無理やり重ねられた。冷たい、植物の葉っぱを加えているような匂いと、唇にほんの少しだけついた、鱗粉の香り。ほんの一瞬のことだった。雨音はすぐに指をほどくと、また、いつものように花壇のそばにしゃがみこんで、それきりなにも言わなかった。
ぼくはただ、その場に立って、雨音の水色の背中をじっと、眺めていた。もう一度触れたいと、そう思った。どこかで、雫の落ちるような音が遠く、空に響いた。
雨音の姿は消えていた。ぼくは、どれだけここに立っていたのだろうか。見上げると、真っ赤に燃えていたはずの夕陽はすっかり消えて、空には紫色に塗りたくられた、黄昏の終わりがあった。
一番星が、ぼくを見下ろしていた。急に泣きたいような、喚きたいような、そういう気分になってぼくは教室に戻った。ノートの端の落書きは、きれいに消し去られて、夢のようにどこかへ飛んで行ってしまっていた。
次の日も、その次の日も、しとしと雨は降り続けた。バケツをひっくり返したような、という、雨の強さを例える言葉がある。だとしたら、これは、漏斗を伝って少しずつ落ちてくるような雨だ。
もっと強く降ってほしかった。一日も早く、晴れの日が来てほしい。脳がずきずき痛む。お腹の上の辺りが、ぎりぎり、内側から締め付けられるように不快な感触で、押し返してくる。鞄の中から薬を取り出して、ペットボトルの水で、無理やり流し込んだ。
ぼくはそっと中庭を見下ろした。雨音の姿はなかった。結露した窓ガラスを、手のひらでぐっと拭い取ると、右手にべちゃべちゃした、灰色の雫がしみこんだ。ぼくが自分の席に戻って、机の中をまさぐっていると、さらさらした、上等な布みたいな手触りがあった。
それは、そっと、ぼくの濡れていないほうの左の指先にからみついた。そっと引き出しの中から手を引っこ抜くと、黒い蝶の形をした絹が人差し指にとまっていた。あの烏揚羽だ。ひと目見ただけで、分かった。ぼくは別の烏揚羽を、見たことなんてないけれど、それでもすぐに雨音の面影が脳裏をよぎった。
そいつはぼくの人差し指の上で、よろよろと、湿った翅を動かすだけで、どこかに飛んで行ったりするようなことはなかった。ぼくの人差し指の上を、小さな足でちこちこ歩き回るのは、とても可愛らしく、そして、弱々しかった。
雨音の、白くてほっそりしたうなじの感触が、ぼくの脳裏に宿った。
チャイムが鳴ると、ほとんど同時に先生が教室に入ってきた。そいつはびっくりして、兎みたいに机の中に隠れてしまった。臆病な奴なのだろうか。ぼくは机に座って、じっと、退屈な授業を我慢しながら聞いていた。シャープペンシルを握る手から、さっきの灰色の水がしみこんで、ノートを濡らした。
いつも2Hのシャープペンシルで、ノートを取る。だから文字は薄いし、たまにノートを食い破ってしまう。柔らかい芯で文字を書くと、すぐに消え去ってしまいそうで、それに、なんだか楽をしているような気がするのだ。生きていくことに。
ぼくは、こんなに苦しい思いをしているのに。
雨音はどこに消えたのだろうか。しとしと、しとしと、窓の外の音だけが、ぼくの鬱屈を紛らせてくれた。
放課後。クラスメートは、ぼくに目もくれず、自分の帰る場所に歩いていく。いつものことだ。ぼくのことは誰も気味悪がって近付いて来ないような気がする。机の中から、こそこそと、あの烏揚羽がはい出してきた。机の隅で、はたはたと湿った翅を乾かしている。ぼくは邪魔をしないように、そっとそっと、ノートや教科書を鞄にしまい込んだ。
みんな、ぼくの机の上の烏揚羽を、まるで油虫でも見るような顔で見る。こんなに綺麗なのに――生きものだと思ってみるからいけないんだ。
翅の色を。脚の形を。触覚の動きを。
もっと、そういうところを見ればいいのに。なんだって生きているのは、当たり前のことなのに。
ぼくが椅子から立ち上がると、そいつがひらひら舞い上がって、ぼくの周りを飛び回る。ぼくの顔や、指や、髪の毛に、黒い鱗粉が飛び散った。指先を窓にかざすと、曇り空から差し込む太陽の光に、きらきらと、複雑な色彩が浮かんだ。
そいつはふわふわと、どこかに飛んでいく。ぼくは自然と付き合って、どっちが先行しているか分からないくらいの気持ちで、廊下を歩いて行った。すれ違う、顔も名前も知らない生徒や、いつも退屈そうに授業をする先生が、ぼくのことを奇異の視線で睨みつけた。
きみが悪い。
そう言いたげだった。ぼくの思い込みだ。
ぼくは玄関で靴を履きかえて、外に出た。しとしと雨が降っていた。ぼくの傘を広げると、そいつは傘の中に入り込んで、いちばん雨に濡れない場所でふわふわ飛んでいた。それに疲れると、傘の骨の一本に止まって、偉そうに休んでいた。
お前はどこまで一緒に来るの?
翅をひとつ動かすと、そのまま眠ったようにそこに落ち着いてしまった。家までついてくるつもりだろうか。ぼくは、雨の油の浮かんだアスファルトを、ローファーを履いたまま歩き続けた。
玄関を開いたとき、ようやく傘を閉じようとすると、そいつはそっと傘の骨から舞い降りて、ぼくの髪の毛の辺りにくっついた。鍵がかかっていなかった。
ただいま。
そう挨拶をすると、奥からセーラー服を着たままの妹が出てきた。まだ、帰ってきたばかりのようだ。
「おかえりなさい」
また、怯えるような目をする。けれど、妹は他の誰よりも、そう、ぼくたちを産んだお母さんよりも、ぼくたちを育てたお父さんよりも、ぼくのことを分かっていた。烏揚羽が妹のほうに、ひらひら飛んでいくと、蛍を捕まえるように両手をお椀の形にして、
「かわいい!」
妹はぼくと違って、ずいぶん優しい子だった。ぼくに似なくてよかった。今年、中学校に上がったばかりなのだ。もっと真っ直ぐに育ってほしいと思う。
妹と会話をせずに、ぼくは二階にある自分の部屋に向かった。妹も、ぼくのそういう、気難しいところも、妹はちゃんとわかっているのだ。
部屋に帰って制服を脱いで、動きやすい部屋着に着替える。ワイシャツのポケットから、小さなメモが落ちた。A7の、小さなメモ帳の切れ端だった。
何も書いていない。
ぼくはたまらなく嫌な気持ちになって、ベッドに沈み込んだ。いったい、何を期待しているのだろう。この切れ端は、ぼくがいつも持ち歩いているメモ帳から、たまたま抜け落ちたものだ。
部屋の、ちょっぴりあいた隙間から、ひらひらとあいつが入ってきた。遅れて、まだ制服を着たままの妹も……あんまり追いかけ回すと疲れちゃうよ、とぼくが言うと、妹はしょんぼりと絨毯の上に胡坐をかいた。
烏揚羽は、怯えるようにぼくの肩先のあたりに飛び込んできた。人差し指を空にかざすと、そこに脚をついて、落ち着いたというばかりに翅を大きく広げた。きれいな光は、蛍光灯の下だと余計に寒々しく見えた、
「どうして私には懐いてくれないんだろう。うらやましいなあ、ちょうだい!」
ぼくが指先を伸ばした。けれど、烏揚羽は飛んで行こうとしなかった。
あんまり追いかけ回しちゃ、可哀想じゃないか。
「かわいそうって?」
揚羽だって生きているんだよ。
お腹だってすくし、休みたくなる時もあるんだ。ぼくがそういうと、ようやく妹は納得して、
「私もおなかすいた」
ぼくは立ち上がって妹の頭をなでて、一階のキッチンに向かった。妹も、あとからバタバタついてくる。
けど、烏揚羽はついて来なかった。
枕元で、きらきらいう音に、目がちかちかした。ぼくが目を開けると、隣で烏揚羽がひらひらとまどろんでいた。結局、一日じゅううちにいた。
今日は土曜日で、学校がない。けれどぼくの足は、自然と学校に向いていた。流石に制服を着ていくような気分じゃなくて、ぼくの持っている別の服を着て、スニーカーを履いて外に出た。昨日までの、じとじと雨が嘘のような快晴だった。濡れたアスファルトから、じりじりと影が揺らめいている。
ぼくは中庭に向かった。そこにはやっぱり、雨音の姿があった。あの時のように、制服姿で、水色の背中でぼくを見ていた。突然、右目の端を、黒い影がよぎった。烏揚羽が、どこに潜んでいたのか、ぼくの内側から、雨音の背中に吸い込まれていった。
「ああ――やっぱり、あなたの所にいたのね。ありがとう、すっかりはぐれたものだと思っていたわ。どこかに帰ったのだと」
息をするより簡単に雨音は指を翳して、烏揚羽を呼び込んだ。ぼくはようやく、そいつを元の居場所に送り届けることができたのだ。
雨音がさっと微笑んだ。
「悪い子にしていなかった?」
首を横に振ると、そう、と、なんてことなさそうに呟いた。そして、さっきと同じようにその場にしゃがみこんで、花壇をじっと眺めていた。
ぼくはそこに立っていた。何も出来ようとしなかった。話しかけたり、手を伸ばしたりしない。けれど、雨音の背中は、なぜか少し寂しそうに見えた。あの水色が、ちょっとだけ陰りを帯びているような気がしたのだ。
そんな気がしただけ。きっとそれは、ぼくの思い込みだ。雨音はそんなことを考えてはいないはずだった。
「ねえ――あなたはどうしてここに来たの?」雨音はぼくの方を振り返らずに、「今日は学校、お休みよ。わざわざ来ることなかったのに。もちろん、この子を連れてきてくれたことは、とても感謝しているけれど」
そんなの――
理由なんてなかった。昨日と同じように、ぼくは烏揚羽を追いかけていたらここに来たのか、ここに来たぼくに烏揚羽がついて来たのか、分からない。
ぼくの世界は、君に出会ってから、ずっと乱されっぱなしだ。寝ても覚めても、君のことを考えている。授業中でも、休み時間でも、ぼくは窓の外から見える中庭に、君の姿を求めてしまうのだ。
ぼくは、おかしくなってしまった。
自分がおかしいということを、また、自覚させられる。目の前の水色の背中は、ぼくをざわつかせる鏡だ。何も映りはしないけど、そこにはぼくがいる。
雨音は立ち上がった。そして振り返ってぼくを見た。ほっそりした瞳が、ぎらぎらした太陽の光を、何百色にも反射していた。肩のあたりを、ひらひらと、烏揚羽が舞っている。そして、ぼくに向かってかるく右手を伸ばした。ほっそりした指だった。
おいで、と。
そういったような気がした。ぼくは一歩ずつ、蜜に吸い寄せられる虫のように、雨音のほうに歩み寄る。ぼくの意志は、そこにはない。歩いているのは、ぼくでない、ぼくだ。
差し伸べられた右手に、ぼくの右手が重なる。小さくて、指が細くて、見るたびに嫌になるぼくの手を、雨音はしっとりと握りしめた。重なった手の上に、烏揚羽がそっと止まった。
かすかな力で、ぼくは雨音に引き寄せられる。足元から重力が消えたような気がした。彼女のきれいな顔が、ぼくのすぐ目の前にあった。ちょうど十五センチくらい――心臓がどきどきする。コーヒーを一気飲みした後みたいな、あんな、危険などきどきじゃない。
触りたい。抱きしめたい。そういう、どきどきした気持ちだ。
雨音は何も言わなかった。表情を少しも変えたりしなかった。その長い、濡れた睫毛に――虹を切り取ったみたいな前髪に、吸い込まれそうになる。ぼくはまた、雨音とキスをした。どこかで甲高く鳴く小鳥の声が聞こえた。空の雲が、せわしなく駆け抜けていく。
とても長い時間だった。幸せではなかった。時間が経つたび、どんどんぼくは悔しくなって、絶望する。そっと雨音が唇を離した。きらきらした光が僕の鼻腔をくすぐった――それは彼女の瞳だった。睫毛、瞼、目尻、唇、耳の形、髪の一本一本、すべてぼくの胸の内を、ざわざわと落ち着かせない。こんな時に限って、中庭には風が吹き込んでこなかった。
彼女はその、細い氷細工みたいな人差し指で、自分の唇をそっと拭った。そして、指先でつまんだ綿毛にするように、自分の爪の先にふうっ、と、息を吹きかけると、たちまちその吐息に色がついた――これは、ぼくの見間違いでも、比喩表現でもない。
ほんとうに色がついたのだ。
色水を、霧吹きで吹きかけたように、太陽光に乱反射する気体――それはくるくる渦を巻いて、中庭じゅうに広がった。ぼくは思わずうろたえた。雨音が目の前にいるのに、はじめて、彼女から目を離した。
妖精が飛び回っているみたいだ。
くすくす、という笑い声が首の後ろをくすぐって、思わず振り返った。そこには背の低い木が立っているだけで、誰もいなかった。今度は、きちんと耳を打つ笑い声がする――雨音が笑っていた。目を細めて、肩を揺らして、笑っていた。
「驚いた――――?」
彼女は、人差し指を立てたまま、空間をくるくるとかきまぜた。ホイップクリームでも混ぜるみたいに……小さな凩みたいな渦が巻き起こって、やがて形を結んでいく。小さなころに映画で見て、怖くて泣いていたようなことが、目の前で起こっている。
薄く攪拌されていた色が、ぎゅっと、圧縮されて、それは――蝶になった。あの、烏揚羽になった。雨音の肩に乗っていた烏揚羽が、驚いたように飛んだ。新しいそいつと、恐る恐るダンスをするように飛んで、追いかけて、追いかけられて、飛んで。やがて、ふたりは仲睦まじそうに、空高く、どこかへ飛んで行ってしまった。
「ずっと、寂しそうだったの。あの子」
雨音がぼくに寄り添いながら言った。太陽の眩しさに、きゅっと目を細めて、
「私も図書室で見つけたの。どこかから入り込んできたみたいで――でも、私にはあんまり、懐いてくれなかったみたい。あなたについていく方が、楽しそうだった。……変なことを言ってる、頭のおかしい女の子だって、そう思うでしょ」
ぼくは首を横に振った。ぼくだって同じだ。君より、ずっと、おかしい子だ。そう思っている。雨音はもう一歩、ぼくに身を寄せた。彼女はぼくより、少しだけ背が低かった。
「でも、あなたと一緒にいる方が、もっと楽しそうだった。だから――仕返し」
仕返し?
雨音は、もう空を見ていない。ぼくを見ていた。ちょうど十五センチ――より、ちょっと近いくらい。
「あの子を、あなたから取り上げたの。同じ仲間で、一緒に飛んで行ってもらうの。だから、仕返し」
初めて見る、女の子らしい笑顔だった。
いたずらっ子みたいな――ぼくの妹も時どきするような笑顔だ。
ぼくは、なんとも思わなかった。かわいいとも、綺麗だとも、思わなかった。ただ、雨音が隣にいることが、なんとなく、嬉しいような、落ち着かないような、そういう気がしたのだ。
ぼくも人差し指で、中庭にわずかに残っている甘い香りを、くるくるかき混ぜてみた。雨音のものより、ずっと小さくて、色が偏っている渦ができた。それは、やがて小さな蝶になった――
飛び去って行ったあいつより、ずっと小さくて、色も少し濁っていて、弱々しい羽ばたきで、空中をよろめいている。雨音は苦笑いしながら、でも、とても面白そうに、そっと手を翳した。生まれたばかりのそいつは、当たり前のように雨音の手のひらに止まった。
雨音はいとおしそうに、うっとりした目で、そいつを見ていた。ぼくは、そうやって時間を過ごす雨音を見ていた。
また、触れたい。そういうことを考えていた。雨音の頬に触りたい。手を握りたい。肩を寄せ合って、ただ、時間を過ごしたい。
溜息が聞こえた。雨音の溜息が、彼女の手に止まった蝶にかかった。翅の周りに、また、あの色のついた渦が現れた。その黒い蝶はたちまち元気になって、鱗粉をオーロラのように輝かせながら、振り撒きながら、元気に飛び始めた。
ぼくと雨音は一緒に人差し指で、中庭じゅうの魔法の色水をかき混ぜて、いろいろな蝶を見た。元気に飛びまわって、翅をきらめかせて、そうやって一日じゅう、雨音と一緒にいた。
けれど、いつの間にか、雨音の姿は消えていた。いっぱい、いっぱいに蝶が舞い踊るその中に、雨音の姿はなかった。あの甘い香りの中に、彼女の匂いがした。ぼくは中庭から出て、そのまま真っ直ぐ家に帰った。ぼくの左手の甲には、また、新しい烏揚羽がくっついて、ひらひらと翅を揺らしていた。
色水と揚羽 王生らてぃ @lathi_ikurumi
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