第16話 再び三人で
数日前――。
「舞、重いって……」
寝苦しさに大地は思わずそう呟いていた。
「あと、狭いから……」
「ぬふふ……」
聞き慣れた奇妙な笑い声に、夢うつつの大地は懐かしさを感じてしまう。
互恵ハウスで茜と舞と暮らしていた時、こんなふうに舞に密着されて無駄に早起きしてしまっていたものだ。少し困っていたのだが、今となっては心地よい気分にすらなってしまう。
「舞は甘えん坊だな」
口癖のように言っていた言葉が、無意識のうちにこぼれる。
その瞬間――
「え――ッ!」
大地はガバッと起き上がろうとするが、体が拘束されて動けない。
「ま、舞!?」
眼を開けると
まんまるの、形のいいおでこが大地にすりすりしてくる。
「おはよ、大地兄ぃ!」
その隣で肩を揺らして笑っているのは茜。
「とっとと起きなっ、大地! 今日は忙しいわよ」
「茜姉ぇ?」
いつの間にか自分の部屋に入っていた二人の身内に大地は混乱してしまう。
今日、大地は非番だった。しかし朝から訓練に行こうと思っていたのだ。
「トレーニングは休むようにね」
大地の予定を見抜いているように茜は言いつけた。
「これはウチからの命令よ」
「ええ?」
大地に有無を言わせない好戦的で強烈な目力。
「適切な休暇も訓練のうちだからね!」
そう言ってから、いかにも姉御という高笑いで凄む。
* * * * * * * *
大地が見ている目の前で粛々と工事が進められていった。
まず茜の部屋との壁が外され、バス・トイレといったユニットも撤去される。単身世帯用の狭いキッチンユニットも取り払われて、茜の部屋だった場所に広めのキッチンが設置されていく。仕上げに大地の部屋のドアも外されて、そこはただの壁になってしまった。
その間、僅か一時間にも満たない。
彼らが住む低所得者層向け団地は、高度経済成長期の住宅不足を解消するために建設されたツインコリダーという形態の団地をベースに改良を施されたものである。
年金や生活保護といった社会福祉が無駄の多い現金支払いから無駄の少ない“現物”支払いへと変更されていく過程で、家庭支出において非常に比重が高い家賃に対しても対処がなされていた。平たく言えば、支給額を減らす代わりに団地に住まわせるという施策である。かなりの世帯数が公営の団地に移住させられることになったのだが、民業圧迫との批判はさほど起こらなかった。そもそもが経済弱者が対象になるため、家賃回収のリスクが高い層を政府が受け入れてくれた、という解釈がなされたからだ。
生活保護受給者を狙った貧困ビジネスの担い手が、“民”から“官”に移っただけとの指摘も一部からはあったが、大手メディアがそれを批判することはなかった。
住む側としても一定のメリットはあった。
家賃が年金や生活保護費からの“天引き”であるため、支給総額そのものは減るものの、民間レベルと比べれば割安で部屋を借りることができる。加えて介助用のロボットが定期的に周回してくるので、一人暮らしの老人も比較的安心して暮らすことができる。
またこの団地はそれまでの建築物に比べると耐用年数が格段に長く設定されていた。通常は四~五十年も経過すれば老朽化が目立つコンクリート住宅だが、耐久性を高めた素材をふんだんに使用し、なおかつ各パーツをできるだけユニット化してリプレイス可能な造りにしてある。各部屋の間仕切りも追加したり削除したりが可能で、各世帯人数の変化にも対応できるようになっているのだ。痛んだ壁面や床材などは担当の業者を呼べばあっという間に修理交換されるようなシステムができあがっていた。もちろん、そんな業者も天下りを受け入れている既得権益層であることは言うまでもない。
ちなみにこの団地を建設する原資は国債、つまり借金である。
莫大な額を必要とする一大公共工事であるのだが、借金返済の目処はない。また、最初から返すつもりもなかった。永久公債化としてその金利だけを払い続けるという前提で、毎年国債が発行されている。団地建設はまだまだ続く勢いで、かつての北区、足立区、板橋区を統合した第七行政区のかなりの部分が団地化される計画になっている。最終的には全国の経済弱者をこの地域に集めることで、官製貧困ビジネスが完成されるのだ。
「ほんと、あっという間だねぇ」
大地の陰に隠れて工事を覗き見ていた舞が、作業の終わった室内を見渡していた。
もはやそこが単身用の部屋であったという痕跡はなく、二~三人で住まうには適度な広さを持つ住空間に変容していた。
「味も素っ気もないけど、ま、便利って言えば便利ね?」
両手を腰に当てて茜が呟いた。
「茜姉ぇ、これって?」
状況がまったく飲み込めないまま、大地は訊ねずにはいられない。
「なに? もしかしてまだ分かってないの?」
小馬鹿にしたように笑いながら、茜が大地の右腕を掴むと、反対側に舞がしがみついてくる。
「大地兄ぃ、まだ寝ぼけてんのかなぁ?」ぬふふと舞が笑う。
「ウチらね、」茜は眼を細めた。「また一緒に暮らすんだよ」
普段の強気な表情から一転して、茜が優しげに笑ってみせた。
「えっ?」予想外の展開に、大地は驚きを隠せない。「ほんと?」
しがみついたままの舞が、これ以上ないくらいニッコリと微笑みながら見上げてくる。
そんな舞の頭に、茜が掌を置いた。
「この子がどうしても大地と一緒じゃないとイヤだってきかなくってね。それで社長に頼んでみたのよ」
やたら指が長くて、奇妙な恰好をしている胡散臭い社長を大地は頭に思い浮かべる。
「貴族の特権を使ってね。そう考えるとなんだか複雑なんだけど、ま、いいでしょ?」
舞がキャッキャッと笑い声を立てながら何回も頷いた。
「またみんな一緒だね、大地兄ぃ」
「ああ、みんな一緒だな」大地はしみじみと呟いてから、透明な笑みを浮かべる。
「社長にはちゃんとお礼を言わなきゃね」
茜の言葉に頷きながらも、大地は空中の一点を見つめていた。
儚く、透明な、そして誰も傷つけない優しげな笑みを浮かべたまま。
そんな大地を、茜は真剣な瞳で見つめてしまう。
「どうしたの、茜姉ぇ?」
舞の無邪気な問いに、茜は無理して笑いながら応じた。
「なんでもないわ」そして強引に話題を切り替える。「これから買い物に行かないとね。舞の必要なものもいろいろあるし」
「うん」舞はにこやかに微笑んだ。「舞、今日はお料理作ってあげるからね」
その言葉に、茜は肩を竦めてみせる。「そんなこと言って、どうせ最後は大地任せなんでしょ?」
「そ、そんなこと、ないんだからぁ!」顔を真っ赤にして抗議する舞。
「いいよ」大地はふんわりと笑った。「久し振りにオレが料理するから」
はしゃぐ舞を優しげに見つめる大地の、透明な笑み。
その横で茜の頬に陰が差す。
『みんな』という大地の言葉には、もう一人の存在が含まれていることを茜は知っている。
あの日以来……。茜は思わずにはいられない。
あの日以来、大地の心の中にはいないはずの翼が存在し続けている。
同時に大地は心の底から笑うことをしなくなっていたのだ。
初めての衝撃は、両親の喪失。
それでも大地は立ち直ろうとしていたのだ。でもそれは叶わなかった。
ようやく心を許しかけた翼が、ある日引き取られていってしまったのだから。
何も言わず、突然に。
大地を置き去りにして消えてしまったのだ――自分だけの幸せを得るために。
大地の心のありようは、翼によるところが大きかった。
自分が仮にその立場にあったとして、果たして互恵ハウスに残るという選択ができたのか、それは今でも分からない。
理性では分かっている。分かってはいるのだ。
それが翼本人のせいではないと知っていても、茜は許せない。
翼という少女の存在を茜はどうしても許すことができないのだ。
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