第11話 接敵

 ターゲットの住まう官舎。その最上階となる三十二階。

 正方形に近い回廊から下を覗き込むと、ロビー階までが巨大な吹き抜けになっており、高所恐怖症の人間なら足が竦んでしまいそうな光景だ。

 もっとも、巨大なガラス窓が内側全面を囲んでいるために、転落の危険性はまったくない。

 向かう先は南東の角部屋だ。

 一行が北側の非常階段ドアから静かに回廊を進んでいくと、

「いる……」

 十二もの錐体細胞による効果で、大地は分厚いドアの向こうに潜む存在の電磁波を感知する。

「一人……だけど、敵が、いる」

 その一言に、先導していた郷が立ち止まって視線を向けた。

「フッ、一対一なら楽勝」

“ノブルス”こと青山が、蛮勇に突き動かされて前を行く。

 銃を横撃ちするように右手を水平に伸ばし、ドアの蝶番に照準を合わせた。

「――ッ!」

 その瞬間、爆音と同時に、先行した青山がドアごと吹き飛ばされていた。

「“ノブルス”ッ!」慌てて三人が後を追う。

 青山を吹き飛ばしたその主へと視線を向けると、大地の予告した通り、確かに敵が一体。

「な――ッ!」

 ドアの前に立っていたのは、見るからに成熟しきっていない少女の体躯。

 ほっそりとした身体に、腰の長さまで伸びる艶やかなポニーテール。

 体のラインがはっきりと現われる純白のボディスーツに身を包んでいるのは、戦闘ログから“純白の鬼神=ホワイト・メア”と呼ばれる公安のエージェントだ。

 郷の眼が見開かれる。

「アルファさんをブッ殺したのは、キッサマかああああああああああ――ッ!!」

 空を切り裂く絶叫を上げ、その瞬間に打ちかかる。

 敵を建物ごと破壊すべく、郷は全リミッターを解除。外骨格パワードスーツの持てる全力を投入した、規格外の一撃を放った。

「――破っ!」

 しかし少女は焦りを見せず、冷静に攻撃魔法を展開。

 前に突き出した左の甲に右の掌を重ねる。その先で真円が描かれ、そこから高濃度の原始物質が噴出する。

「がはッ!」

 郷のパワードスーツは呆気なく跳ね返された。

 通路の壁面をズタズタに引き裂きながら、巨体が紙切れのように吹き飛ばされていったのだ。

 轟音が床をグラつかせ、次いで大量の粉塵が廊下に舞い落ちる。

 圧倒的な能力差に茜は息を呑んだ。

 だが、茜が呆然としていたのはその強さばかりではない。

「“カチューシャ型”……!?」

 脳波を通じてデバイスと情報のやり取りをおこなうパーツを、前頭葉部分にあてる“フォアヘッド型”。通称“カチューシャ型”。理論上は存在するはずだが、これまで適応者が一人もいなかった、幻のデバイスである。

 それを公安が手にしている。

 ならば、確かにエースチームが一戦で撃退されたのも頷けるというものだ。

 前頭葉、つまり論理的思考に直結している分、魔法の威力も速度も“リアヘッド型”を凌駕する武器が、敵の手中にあるのだ。


「無駄な抵抗はおやめなさい」

 生真面目そうな声が、僅かに震えながらも警告を発する。

「あなた方に逃げ道はありません」

 離れた場所で控えていた公安の部隊が、戦闘を確認すると同時に通路内への突入を開始。その数は軽く五十を超えていた。

 大地は彼らの気配を、一瞬だが早く察する。

「茜姉ぇ、敵がいっぱい来る!」

「なんですって!?」

 驚きを見せながらも、茜は次の瞬間には冷静に魔法の発動を開始。敵のデバイスを誤作動させるべく電磁波を放つ体勢を取り、呪文を口にする。

「――惑」

「言うことを聞いていただけないのなら、実力行使に出ます」

 少女は冷静にそう宣告すると、指を真っ直ぐに揃え、重ねた掌を真正面に突き出す。

 そのすぐ前で展開されていた真円の特異点は既に “幻影”に焦点を合わせていた。

「――破っ!」即時展開される“ホワイト・メア”の魔法は、茜のそれを上回る発動速度。

「危ないッ!」本能的に危機を察した大地が茜にタックルするような形でぶつかっていく。

「ぐッ――」

 大地は壁面に自らの体を叩きつけるが、素早く起き上がって敵に、そして茜に視線を走らせる。

 茜の左肩のパッドが弾け飛んでいた。

 もし大地が間に割って入らなければ、その攻撃は茜の心臓を射貫いていたはずだ。

「キ、キッサマアアアアア――ッ!」

 大地の中で普段押し留められていた感情の堤防が、轟音を立てるかのごとく決壊。

 全身の血液を沸騰させ、激情に拳を振るわせる。


 許せない許せない許せない許せない許せない許せない……


 ドス黒く歪んでいく顔。

 バイザー越しでもはっきりと分かるくらいの、それは激昂だった。

「大地……?」

 長く一緒に暮らしていた茜ですら一度も見たことのなかった大地の激しい感情の表出。

 それはケンカ上等のアマゾネスですらすくみ上がるほどの迫力と、殺意に満ちあふれたものだった。

 怒りの情念を暴発させた大地は、燃えたぎる殺意を“ホワイト・メア”へ向けていった。

「茜姉ぇを傷つけるヤツは、ゼッタイ許さねえ……許さねええええええええ――ッ!!」

 普段の大人しい大地からは考えられない、強烈にすぎる激情。

「そは闇を照らす一条の光。そは抑圧を切り裂く真空の雄叫び。そは楔を断ち斬る魂の波形。いま突き抜けろ――」

 茜を庇うように前に立ち、意識の深淵から這い出る言葉を紡ぎ出す。次いで叫ぶ。

「――斬ッ!」

 ファインマン・ダイアグラムの描く世界線のごとき軌道を描きながら、特異点がその魔力を撃ち放つ。

「きゃああああっ!」

 予想外の事象に少女は思わず悲鳴を上げていた。

 大地の一撃は着弾点を予測しきれていたはずだった。

 だが、その位置が微妙にズレてしまったのだ。

 しかも、魔力の放出時間が明らかに通常よりも長い。

 ボディスーツの補正作用により、突き出していた左手が自動的に追尾。描かれていた真円が拡大して防御用に原始物質を放出し、シールドとなっていた。

 それでも衝撃のすべては吸収できず、少女の体が反転して背後のドアに打ちつけられる。

「くっ――!」

 攻撃を受けた箇所に眼を向けると、ボディスーツの右肩部分が切り裂かれていた。

 もし通常の装備であったなら、避けきれなかったに違いない。

 たった一撃で皮膚はおろか筋肉まで断ち切られていたはず。

 想定外の攻撃とその威力。少女の頬が粟立つ。

 まさに、女科学者が言っていた通りの、命のやり取り。

 だが、ここで退くという選択肢は、彼女になかった。

「社会に害を為すテロリストに、あたしは負けるわけにはいきませんっ!!」

「ふっざけんなああああ――ッ!」

 大地は再び咆吼。もう一度、あの深淵から這い出る呪文を絞り出す。

 その言葉が脳内に明確なイメージを与え、無限大とも思える自らの並行世界同位体が一斉に演算を実行――膨大に過ぎる情報圧が四次元時空における負荷を増大させ、ブレーン宇宙同士の接触をもたらしていく。


 大地が繋げることができるのは、宇宙定数が極端に大きいポケット・ユニバース。誕生と同時に原子はおろか素粒子さえも引き裂くビッグ・リップへと向かっていく、短命な宇宙だ。そのポケット・ユニバースから洩れ出るエネルギーが真空波となり、少女に襲いかかっていく。

「うぉおおおおおお、――斬ッ!!」

 大切な身内、茜に仇なす存在は全力をもって排除する。

 大地は取り憑かれたかのように魔法を連発していった。

 茜を守る、ただそれだけのために。

 たとえ自分と同じくらいの年齢の少女であっても、殺すことを大地は厭わない。

「――斬ッ!!  ――斬ッ!!  ――斬ッ!!  ――斬ッ!!  ――斬ッ!!」

 まともに喰らってしまえば、確実に生命を断ち切る真空の衝撃波。

 それが信じがたいペースで襲いかかっていく。

 少女は“フォアヘッド型”デバイスの計算能力とボディスーツの補正作用というリソースをすべて防御に回し、耐え凌ぐしかなかった。

 圧倒的な威力。そして驚異的なペースの連撃。

 左腕が、右腿が、右脇腹が、大地の斬撃によって無残にも削られていく。

 ボディスーツの防御力で重傷は免れてはいるものの、同じ箇所を攻撃されれば、それが致命的な損傷に直結するのは明らかだ。

「つ、強い――っ!」

 少女は眼を瞠る。

 ここまでの強さは、彼女がこれまでこなしてきた何百、何千もの戦闘シミュレーションにおいてさえ予測されることはなかった。先日斃したエースチームとは異質の強さと言える。未知の脅威は少女を無残にも追い詰めていくかに思われた。だが、

「――戟っ!」

 それでも懸命に食らいついていく。

 集中力を途切れさせない。

 こんな場所で負けてなどいられない。

「(……あたしには目的があるのだから――)」

 生真面目な表情のまま、少女は唇を噛む。

 真円の半径を逆に拡げ、防御力を狭い範囲に集中させながら、量子ブーストによる高速演算で斬撃の照射先を適確に予測。完全に反撃を諦めて、守りに徹していった。


 呆気なく吹き飛ばされた郷はようやく量子デバイスの再起動を開始していた。

 公安の少女が放つ原始物質をもろに喰らってしまったため、衝撃で量子デバイスが活動停止=デコヒーレンスを起こしていたのだ。

 幸い機器に致命的な損害はなく、再起動にも時間はかからなかった。

 繊細なコントロールで立ち上がると、郷は繰り広げられている戦いに眼を向ける。

 そこでは驚異的なパワーと速度でもって、“世界線”が“ホワイト・メア”を圧倒していた。

 郷の視線が公安の少女の表情を捉える。

 自分たちとおなじようにバイザーで両眼を覆ってはいるが、その頬や唇から感情を読み取ることはできた。

「チッ」舌打ちをすると走り出す。「“幻影ッ”、コード三〇〇Bだ」

 えっ?と驚く茜の目の前で郷が壁面を叩き割る。腹の底に響く野太い轟音と、足元を揺らす低周波の振動。郷はブチ壊したコンクリート壁の中から、最も大きい破片を選ぶと、外骨格パワードスーツのアームで、その欠片を掴み上げた。

「“幻影”、準備はいいか?」

「う、うん」茜は呆気に取られながらも、左手首に巻いた装置に手をかけていった。


「――斬ッ!!  ――斬ッ!!  ――斬ッ!!  ――斬ッ!!  ――斬ッ!!」

 息をもつかせぬ勢いで大地の攻撃が続く。

 実際、大地は呼吸さえ忘れていた。

 怒りに駆られた大地には、周囲の光景がまったく眼に入っていなかった。


「(……許せない許せない許せない許せない許せない――ッ!!)」


 それほどまでに、茜に仇成す存在を許すことができなかったのだ。

 大切な身内。数少ない身内。ずっと一緒だった、かけがえのない存在。

 身を賭してでも守らなければならない大切な人。

 そんな茜に害をなす者は、絶対に許すことができない。

 たとえそれがかすり傷であったとしても、死を以て償うべき大罪だ。

 憤怒に突き動かされた大地が欲するのはただ一つ――この公安の少女を斃すことのみ。


 だが攻撃に集中しすぎてしまったせいで、彼には少女の表情を読み取ることはなかった。

 一方的に防御に回っているようでいて、冷静に斬撃を躱し続ける少女には、いつしか余裕の表情が見えていた。やがてそれは笑みにすら変わっていく。

 威力もペースもハンパではないが、あまりにも攻撃が単純にすぎると知られてしまったのだ。

 しかも、これだけの魔法攻撃がいつまでも継続できるはずがないことも。

 ここまで集中力を保ってきたのはそれだけで規格外ではあるが、しかし少女のデバイスははっきりとペースの低下を指摘していたのだ。それもあと数秒程度で急ブレーキがかかるかのようにペースが激減することも予測している。

 守りに徹していながら、敵が見せるほんの僅かな隙を衝けばそれだけでいい。

 少女はいつでも真円の特異点を拡げて反撃に転じる準備ができていた。


「――斬ッ!! ――ざ……!?」

 突然の活動停止デコヒーレンス。大地の集中力が瞬間的に切れてしまっていた。

 その刹那、これまで体験したことのない疲労が一気に襲いかかってくる。

 恐怖を感じる間さえもなく大地は意識を失い、前のめりに倒れかかる。

“ホワイト・メア”と呼ばれる公安の少女は冷静に掌を前に突き出して、その照準を倒れていく大地の後頭部へと向けていった。


 チェックメイト――


 勝利を確信したその刹那、大音響が響き渡り、少女のデバイスは警告を発する。

 視覚情報に入り込んできたのは、凄まじい勢いで襲いかかってくるコンクリートの塊だった。

「きゃああっ!」ボディスーツの補正作用を借りてサイドステップを踏む。

 慌てて攻撃の主を捜そうとするが、

「えっ?」

 外骨格パワードスーツを纏った男が爆発的な勢いで突っ込んできたのだ。

 凄まじい振動を引き連れて、廊下の床材を軋ませながら鉄の塊が迫りくる。

 片腕には最初に吹き飛ばした男を抱えながら。

 少女は動揺しながらも左の掌を構え直した。そして真円の特異点を作り出していく。

 と、その直後。

 パワードスーツの男は倒れている“世界線”を別の腕で抱えると、前屈みになったまま上方へと跳躍したのだった。背中にかけてあるシールドの防御力を利用して、天井を吹き飛ばす。勢いをそのままに男は屋上へと飛び上がっていった。

 あまりにもムチャクチャな破壊力に公安の少女は頭の中が真っ白になってしまう。

 が、すぐに我に返る。

「くっ、逃げるというの?」

 慌てて追走しようとしたその瞬間、少女のデバイスがデコヒーレンス反応を検知した。

 それはつまり、何者かが自分の量子デバイスを停止させたということを意味する。

「どういうこと――っ!?」

 戦闘中にはあり得ない事態。

 驚いて視線を向けると、そこに立っているのは“幻影”と呼ばれる暗殺者。

 彼女は左腕を前に突き出し、手の甲のあたりから口を開いた装置を自分に向けている。

“幻影”の量子デバイス反応が完全に消えた瞬間、回転スイッチに手がかかる。

「――破っ!」

 短い呪文を放つものの、“純白の鬼神ホワイト・メア”の魔法が発動することはなかった。

「デコヒーレンス――!?」

 今度は公安の少女自身の量子デバイスが強制停止。

 視覚情報は一瞬にして失われ、その瞬間にバイザーはただの目隠しと化して視界を遮る。彼女は慌ててバイザーを跳ね上げた。

「ま、まさか」

 完全に活動を停止してしまった量子デバイス。こうなると少女の戦闘能力はまったくのゼロである。だが、それは暗殺者側も同じだった。

 こうなると頼りになるのは公安の通常部隊。

 だが、彼らの到着を待たずして、暗殺者たちは屋上へと逃げ去っていく。

 慌てて“幻影”に駆け寄ろうとするが、補正効果を失った全身は鉛のように重い。

 視界の先ではロープで引っ張り上げられていく“幻影”の姿。

「お待ちなさい――っ!」

 初春の冷たい夜風が吹き込んでくる空隙に向かって少女が叫ぶ。

 視線の先にあるのは、星の少ない暗い夜空のみ。

 意味などないと知りつつも、少女は声を限りに叫ばずにはいられなかった。


 屋上に逃れた郷はパワードスーツの背中に茜を乗せると、そのまま全力疾走を始めていた。

“コード三〇〇B”に続いて別のコードを発令。同時に隣の建物に向かって跳躍をおこなう。

 空中に浮かんでいるその刹那、ボックスカーが派手な爆発を起こす。

 仕込まれていたプラスチック爆弾が二度、三度と爆破音を轟かせ、衝撃が周囲を激しく揺れ動かす。

 爆音が轟くまさにそのタイミングを利するように、郷は隣の建物の屋上へ音を立てて着地。

「しっかり掴まってろよッ!」

 そして勢いをそのままに、更に隣のビルへと飛び移っていったのだった。


* * * * * * * *


 いくつもの建物に飛び移っていき、郷たちはセーフハウスに逃れていた。

 そこは住人のいない官舎の一室。夜景の美しい三十四階の部屋だ。

 まさかテロリストが官舎内に入り込んでいるとはつゆ知らず、下界ではパトカーが右往左往しているさまが見て取れる。

「こ、ここは?」

 気を失っていた大地がようやく目を醒ます。

 灯りも点けず、カーテンもかかっていない部屋は、街灯りにほんのりと照らされていた。

 既に量子デバイスは外され、茜が膝枕をして看ていてくれたのだ。

「あ、茜姉ぇ?」

 お馴染みの柔らかい感触に包まれて、大地は茜の無事を知る。

「よかった……茜姉ぇが無事で、ホントよかった……」

 茜の腰に手を回して、ギュッと抱きつく。幼子が母親に甘えるように。

 茜は慈しむように微笑んだ。

「どっちが心配したと思ってんのよ?」言いながら大地の赤い髪を手ですく。

「う、うん……ごめん」

 無理に起き上がろうとした大地を茜は押し留めた。

「まだ寝てなさい」

 

 茜が無事であったことに安心すると同時に、大地の脳内で勝手に再生されていく闘いの記憶。

 パワーと速度で敵を圧倒しながらも、致命打を一つも与えることのないまま、気がついたらこの場所にいたのだ。

「ド素人が――」

 郷の厳しい声が耳朶を打った。

「力に頼って単調な攻撃を繰り返してるからそうなるんだ」

 遠い記憶の中、大地ははっきりと思い出していく。急激に集中力を失い、倒れてしまった瞬間のことを。

 もしあのままであったなら、アルファがそうされたように、また郷が言うように、自分の頭はデバイスごと吹き飛ばされていたというのか?

 なら――!?

 あの場から逃れられたとして、それが可能になったのは?

 大地は体を起こして郷へと視線を移す。

 外骨格パワードスーツを脱装していた郷は、半身になって窓下を見つめていた。

「もっと考えて戦え、この初心者が! 相手の弱点を探って裏をかけってんだ!」

 変わらない厳しい口調。しかしそこに憎しみの感情はない。

 部屋の隅には伸びたままの青山の姿。

 大地は奇妙な感覚に包まれてしまう。郷は自分同様に青山も嫌っているはずだった。

 さっきの戦いでその青山はたった一撃で斃されてしまっていた。

 気を失った自分と青山の二人をあの場所から救い出すことができる存在はただ一人。

「まさか官舎の空き部屋をセーフハウスに使うとは恐れ入るが」

 郷は地上に視線を固定したまま低い声で呟いた。

「完全に大丈夫ってわけじゃあない。……油断すんじゃねえぞ」

「は……はい」

 茜から離れてゆっくりと立ち上がる。大地はよろめきながらも窓際に近づき、外の景色に眼を向けた。


 悔しいのか?

 そう訊こうとした郷だが、思わず口を閉ざしてしまう。

 唇を噛む大地の横顔から表出する、激しすぎる悔恨の情。

 普段は大人しく弱々しいだけの少年が、その時ばかりは悔しさを隠しきれていなかった。

 美しい夜景が眼前に広がるそのさなか、大地の意識はあの戦いに戻っているのだろう。

 一本調子で、まるでカタチになっていなかったが、それでもアレは紛れもない殺し合いだったと郷は思い出す。

 今この瞬案、大地の脳裡に蘇っているのは、純白のボディスーツを纏う公安の少女に違いない。

「あの女、ゼッタイ許さない。……今度は殺してやる」

 押し殺した声を洩らす大地を、郷は感情を消した顔で見つめていた。

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