第2話 暗殺者たち

 二十世紀より長く続いていた日本国の財政赤字。その慢性的な問題への対策としていくつもの地方自治体が合併を余儀なくされたが、それは東京都も同様だった。二十三区は七つの行政区と一つの特別区に再編され、それに伴い区議会議員の数は大幅に削減された。もっとも、区役所に勤務する地方公務員の数は、あれこれと理由をつけながらほとんど変更がないまま2050年に至っているのだが。

 都内の中心部、旧千代田区、中央区、港区は第一行政区とされ、通称ミッド・サークルと呼ばれている。“サークル”と称される理由は、その中心部が別の、特別な行政区になっているからだ。

 ミッド・サークルのドーナツの穴に該当するのは、皇居を中心としてその外周を囲む区画だ。国政の拠点たる永田町、官庁街の霞ヶ関、最高裁判所を擁する隼町、また一流企業の本社が軒を連ねる丸の内、大手町。それ以外に日比谷、有楽町、一ツ橋、九段、番町、麹町といった一等地が構成しているのは千代田特別区ディストリクト

 特別区に指定されたため整備・開発が最優先で振り分けられている、都内でも別格の場所となっている。


 そんな千代田特別区の一画。皇居の半蔵門にほど近い麹町台地の縁に建ち、霞ヶ関を一望の下に収める、半円形状をした特徴的なその建物は官舎というよりはむしろホテルに近い外観をしている。実際、一階の入口部分には高級ホテルのロビーを思わせるコンシェルジェも常駐していて、勘違いして入ってこようとする人間もたまに出てくるくらいだ。

 この建物の特徴の一つとして、それが何であるのか分かりにくいという点がある。

 注意深く探さなければ判別できないほど控えめな看板には「半蔵門住宅」と記されている。それ以外にこれが官舎であると識別できる材料はない。知らない人間には分からないようにする、というのが官舎の基本だ。

 本物の大理石をふんだんに使用したファサードと、四階の高さにまで届く贅沢な吹き抜けのロビー。官庁街も近く各部屋も都心部にしてはあり得ないほど広い間取りになっている。

 一流どころの企業に勤めていても、取締役レベルにでもならなければ家賃を払えない、超の上に超がつく高級マンションといった集合住宅である。

 だが官舎であるが故に住人にかかる家賃はゼロ。

 かつての公務員住宅は少額ながら家賃を徴収していたのだが、国会混乱時のドサクサに紛れて提出された法案が通って、官舎の費用はすべて国が負担することとなった。つまり、税金によって全額が賄われているのだ。おまけに水道、電気といった費用さえ、国が七割も出してくれる。庶民からすれば至れり尽くせりといったところだが、彼らは三割の光熱費負担でさえ不当だと主張する。


 官舎の入口には警備員が二人。

 特殊なIDによってのみ開けることのできるオートロックドアの向こうにも更に警備員が二名。防犯カメラに死角はなく、非常時には警備会社と所轄の警官が競うようにして現場に直行してくる。そんな官舎の地下駐車場に、そのボックスカーは堂々と入っていった。

 一見すると地味なミニバンだが、その機構は大幅な改造がなされていた。自動運転機能はおろか、ナビゲーションまで削除され、最低限かつシンプルな電子機器のみが搭載を許されている。改造というよりは、むしろ改悪と言っていいほどの機能削減である。そして数少ない電子機器には、過剰ともいえる電磁波防止のシールド加工がなされていた。

 何台ものカメラの目の前を、クルマは悠々と走り抜けていく。

 来賓用のスペースに停まると、静かにドアが開かれた。

 降りてきたのは豊島茜とよしまあかねを含めて三人の若者。

 いずれも密閉型ヘッドフォンのような形状をした量子デバイスを装備し、両眼は鏡面加工の施されたアイシールドに覆われている。彼らはかつて知った場所であるかのように迷いなく非常階段へと進み、ドアノブをねじ切るように破壊してから構内へと入っていった。


 ほどなくして官舎に男が帰ってきた。

 その男、白金潤吾は警察省のキャリア官僚である。同省高級官僚の第一子であるというだけの理由で、さしたる努力もせずに国立第一大学に血縁枠で入学し、落第すれすれの成績で辛うじて卒業した。親の影響力で警察省キャリアとなり、現在に到っている。

 生まれた時に成功を約束されていた貴族であるが故に、彼は努力ということをしなかった。成功や高い地位は与えられて当然のものであり、そのために頑張るのは持たざる者の無駄な足掻きとしか思えないのだ。

 だが貴族とはいえ、それはやはり官僚システムに従わなければならない。

 いくら血筋がよくとも勤務内容に優れたものがなければ出世は叶わない。

 彼は省益の維持拡大にも貢献せず、天下り先の創出もおこなってこなかった。

 おまけに度々不祥事を起こし、もみ消しのために多大な迷惑を及ぼしている。

 結果、キャリア職であれば誰でもなれるランク7の警視監が彼の限界となっていた。

 それも、同期の中では最後の順番となるお情け人事だ。

 しかし白金潤吾にはプライドだけはあった。

 学友が他の省庁で出世街道を進んでいる中、自分一人が取り残されている。

 これには我慢ができなかった。

 だからといって真面目に仕事をして挽回するかというと既に手遅れ。あと数年で警察省を追われ、関連団体に天下るのが既定路線だ。それでも超のつく高給は保障されているのだが、課長待遇で天下るのと、次官待遇で天下るのではステータスがまるで違ってしまう。

 夫の凋落を悟ったのだろう妻は、最近やたら冷淡になっている。

 すべて自らの不徳のいたすところではあるのだが、そんな当然の帰結を受け入れられるほど白金は大人ではない。

 そして欲求不満の捌け口は交通法規を完全に無視した暴走という形で噴出していた。

 自動運転をオフにして、違法改造によってスピードのリミッターを解除。

 どれだけ違反をしても配下の者たちがもみ消してくれるという貴族としての特権に守られて、破滅的な暴走を続けている。

 その晩も危うく罪のない一般人を轢きそうになっていたのだ。

「轢き殺しちまった方がよかったかな?」

 そう嘯きながらも、欲求不満の渦に責め苛まれる。

「邪魔だ、どきやがれッ!!」

 官舎を守る警備員に八つ当たりをし、相手が抵抗できないのをいいことに思い切り足で蹴飛ばす。

 この男が酔った勢いで警備員に暴行を加えるのは毎度のことだった。

 だからといって被害届を出したところで、取り合ってくれる警官など一人もいない。

 それ以前に、通報などしようものならせっかくの警備員という仕事を失いかねない。

 何かと不条理はあるものの特別区で働けるというのは、他よりもずっとマシなのだ。

 下民である警備員にできるのは己のタイミングの悪さを呪い、嵐が過ぎ去るのを待つことだけ。

 圧倒的なまでの権力差が生み出す不条理を、ただ受け入れるしかないのだ。


 白金はブツブツと文句を言いながらエレベーターを降り、居室へと向かう。

 家に戻れば待っているのは奥方の小言とやたら反抗的な息子が二人。

 舌打ちをして廊下を歩いていると、いつの間にか目の前に一人の男が立っていた。

 奇妙な出で立ちをした男だった。

 レンジャー部隊が身につけるボディアーマーと迷彩服のような衣服。だがその生地は喪服を思わせる純粋な漆黒。そして両目を鏡面加工のされたバイザーで覆っている。

 ブリッジの太いヘッドフォン型の装置を付けているが、ブリッジ部分は頭頂部ではなく後頭部にかかっている。白金の眼にそれは、十年ほど前に流行ったエンターテインメント提供型の旧式ヘッドセットに映っていた。

「白金潤吾だな」

 男が、鼻にかかった甲高い声で官僚の名を確認する。

「なんだ、オマエ?」

 官僚はいきなり呼び捨てにされて、脊髄反射的に怒りを露わにした。

 誰が相手かは知らないが、キャリア官僚である高貴な自分を呼び捨てにするとは、不遜にもほどがあるというものだ。

「無謀な運転を繰り返し、被害に遭った人間に罪を被せてきたその罪状、許しがたし」

「なに言ってんだ、オマエ? 俺様を誰だと思ってるんだ?」

 白金にとって当然の行為が非難されている。まったくあり得ない状況だった。

「つまり――」

 するともう一人の男が背後から近づいてきた。今度はさらに奇妙な格好をしていた。

「キサマには代償を支払ってもらう、ということだ」

 バイザー付きのデバイスと黒いミリタリースーツは同じだが、その男の全身は外骨格パワードスーツに包まれていた。各関節部分に大げさな油圧式駆動装置を搭載し、肩や胸、膝そして肘に防御用のパッドが装備されている。背中には巨大な盾を背負っていた。見るからに屈強そうな装備を滑らかに動かしながら、男は静かに迫ってきた。

「“ノブルス”」

 パワードスーツの男がそう呟くと、最初の男が応じる。

 ギャングが拳銃を横撃ちするように右手を水平に伸ばすと、突き立てた親指の爪と右眼とで標準を合わせる。

「高貴ならざる支配者には死をもってその代償とならしめる――誅ッ!」

“ノブルス”と呼ばれた男が呪文を放つ。少し震えた声だった。

 直後、官僚の腹部から一筋の血が洩れ出ていた。即死とはいかなかったが、拳銃で撃たれたのと同等のダメージが襲いかかってきたのだ。

 突然訪れた衝撃とそれに続く未体験の激痛。

「(……ノース・リベリオン!?)」

 その暗殺者集団の名が脳裡に浮かび、白金は瞬間的にパニックに陥ってしまう。

「な、な、な、な……ッ!!」

 ガクリと両膝を地面につき、前のめりに倒れそうになるのを何とか堪える。

 慌てて情報端末を取り出し、何度も床に落としながらも震える手で緊急連絡を試みる。

 が、

「な、なんだよ、――なんなんだよッ!?」

 登録済みだった麹町警察署への直通番号を鳴らすものの、端末は無反応。

 狼狽しながら周囲を見回す。視界に飛び込んできたのは非常通報装置。

 白金は苦悶の息を吐きながらも転がり込むように装置へと向かう。

 腹部からダラダラと漏れ出る鮮血で床のカーペットを赤く汚しながら、やっとの思いで通報ボタンに手を伸ばした。

 ボタン手前についていたアクリルのカバーは呆気なく開き、赤いボタンを押し込むとカチリという確かな反応が返ってくる。

「――ッ!!」

 装置はまったく無反応。ベルが鳴るどころか、ランプ一つも点灯しない。

 無気味な男たちがまったく動こうとしない理由を白金はここで悟る。

 電話が繋がらないことも、非常装置が起動しないことも彼らは知っていたのだ。

 男たちが得体の知れない足音を響かせて一歩、また一歩と、しかしゆっくり迫ってきた。

“ノブルス”と呼ばれる最初の男が口端を醜く歪めながら奇妙な笑い声を上げていた。

 それに対してパワードスーツの男は、まるで呼吸すらしていないのかと思えるほどの無表情。

 だが、その全身からは濃密に過ぎる殺気が拡散されていて、静かに白金を圧倒する。

 受け入れがたい恐怖を前に、官僚は周囲を見まわす。誰かが来てくれれば……。

 静まりかえった廊下内で、必死に大声を上げる。

「だ、誰か、たす、たすけて――――ッ!!」

 裏返った声で助けを求めるも、官舎内は無反応。

 だが、それでも叫び続ける。誰かがきっと助けてくれるはずだと信じて。

 激痛に気を失いそうになりながらも、助けを求めて声を張る。

 普段はいがみあっていても、やはり同じ官僚同士。危機にあって助け合うのが官僚の美学。

 すると白金の思いが通じたのか、そこで音が聞こえてきた。

 隣人が不審を察して出てこようとしているのだ。

 苦悶に喘ぎながらも、白金は安堵の息を吐き出す。「た、たすけて……くれぇ」

『どうした? なにがあった!?』

 ドアノブを回す音は聞こえるのだが、そこで引っかかったような鈍い音に阻まれる。

『なんだ、ドア開がかないぞ?』

 不穏な空気を感じて出てこようとした隣人の声と金属のぶつかり合う鈍い音が、廊下に低く響く。

 電子ロックが解除されないのだ。

『なんだ、いったいなにが――!? 』

 官舎のドアに覗き穴はなかった。彼らは玄関脇に備え付けられたカメラ越しに廊下の様子を見ることができる。普段ならば、だが。

 モニターが映し出しているのは静止した時間。

 白金潤吾がこのフロアに現われる前の時間で停められたままなのだ。

 他にも異変を察した人間は何人かいるかもしれない。

 だが、彼らにできるとなど何もなかった。

 システムは通電や水道といったインフラ等、一部を除いてすべてが時間の経過を認識していなかった。押されたはずのボタンはそう判断されずに緊急通報をおこなわず、情報端末も登録された番号を入力されたと処理されない。電子ロックドアも解錠されたという信号を受け付けない。すべて、時間が止まっているからだ。

 官舎の情報システムが完全に強制停止されている中、住人たちにできることと言えば、ただこの状況が終わるのをじっとして待つことだけだった。

 自身が絶望的な状況にあることをようやく悟った白金潤吾は、そこで“ノブルス”と呼ばれた男に顔を向ける。口端を歪めて奇妙な笑い声を立てる男の、バイザーで隠された向こうでどんな眼をしているのか――?

 警察省キャリア官僚の両眼が見開かれる。

“ノブルス”が再び右手を水平に伸ばし、突き立てた親指の爪と右眼で照準を合わせる。

「――誅ッ!」


* * * * * * * *


「これでやっと学校にさよならできるよ」

 ほっと一安心という弛緩した表情で、赤羽大地あかばだいちはそう呟いた。

 中学校の教室にいる時の無表情とも、茜に見せる透明な笑顔とも異なる、素の表情。

 十代半ばの少年らしい、生き生きとした話し方だ。

「……別に、高校なんて行きたくなかったし。……それに、茜姉ぇがオレを誘ってくれた。オレ、それがすごく嬉しくて……」

 深緑色の瞳を輝かせながら、大地はひとしきり頷くと、両手の指を組んで上を向く。

「危険なのは知ってるさ。でも、オレ、茜姉ぇを守りたい。役に立ちたいんだ。……うん、正直、大儀とか社会正義とか革命とか、あんまり関係ないっていうか、ホントはどうでもいいんだ。でも、茜姉ぇの敵はオレの敵。茜姉ぇのためならオレ、命懸けてもいい。……いや、命を懸けたいんだ」

 強い決意を滲ませながらも、大地はしっかりとした口調で宣言する。


 そこは五階ごとに吹き抜けを塞いだ、団地内の共有スペース。

 細長い長方形状の回廊が下から見渡せる場所だ。

 昼間は時間をもてあます老人たちの暇つぶしの場だが、深夜のこの時間、あたりはシンと静まりかえっている。春先の夜中、冷気が全身を包んでいても、大地は気にせず熱く語る。

「大丈夫、オレは大丈夫だから……」

 そう言ってから、一転して心配そうな表情になる。

「なあ、今、寂しくないか? ……心配事はないか?」そこで頭を振る。「いや、オマエが幸せなら、オレはそれでいいんだ。……いいんだ。でも、もしそうじゃないなら、……寂しくしているんなら」

 大地は慈しむような瞳で前を見つめる。

「オレはいつだって、一緒にいてあげるから」

 そして照れたように俯く。

「よせよ。そんなの……当然じゃないか。オレたち身内なんだぜ」

 そんな大地の視界の端に、少女の姿が映り込んできた。

 遠目でも分かるほど、形のいいおでこの持ち主が、遠慮がちな足取りで近づいてくるのだ。

「舞が迎えにきた。……心配させちゃったかな」

 言いながら、名残惜しそうに振り向く。

「じゃ、またな」

 大地は、そう言い残して、自分を探していた少女の許へと駆け寄っていった。


* * * * * * * *


「――誅ッ!」

“ノブルス”と呼ばれた男の放つ魔弾が、螺旋軌道を描きながら白金の額を撃ち抜いていた。

 それは恒星の元となる物質が渦を描きながら収束していく瞬間のエネルギー放出。

 熱核融合を起こす直前の重水素とヘリウム3の高圧弾が、横撃ちに構えた親指の先から放たれる――螺旋軌道を描いて敵に襲いかかる不可視の魔弾だ。

 眉間の間を狙ったのだが少し着弾点がずれてしまった。

 それでも今度は大脳に致命的な損傷を与えることに成功し、白金潤吾は一瞬にして絶命。

 特権的な地位を悪用して罪のない人間に責任をなすりつけてきた警察官僚の、それが支払うべき代償であった。

 パワードスーツの男は死体の写真を何枚か撮った後で、犯行声明文を床に置く。

 そして“ノブルス”の首根っこを掴んだ。

「行くぞ。とっとと動け」

「ひっ、ひっ、ひひひひっ」

 腰を抜かした“ノブルス”が奇妙な笑い声を響かせる中、今度は豊島茜が先導していく。

 浅黒い肌にカールのかかったショートの黒髪。アマゾネスを彷彿とさせる少女にとって、ここからが本番と言えた。

 彼女の任務は侵入以外にも逃走経路の確保と公安が出てきた際の迎撃、そして排除。

 難易度からすれば、丸腰の官僚を殺害するよりもずっと高度な役割だ。

 重要なのは侵入と逃走。それも足のつかない形にしなければならない。

 警備システムの時間を停め、すべてをなかったことにしてしまい、自分たちの痕跡を一片も残さない。万が一それがうまくいかなかった場合には、強烈な電磁波でシステムを内部から徹底的に破壊しての強行突破という代替手段も用意しているのだ。


 ボックスカーが堂々と駐車場から出ていく間も、茜の意識はフルに稼働していた。

 あと十分もすれば復旧したシステムは時間の流れを取り戻し、白金の情報端末は警察に繋がる。防犯ブザーは鳴り響き、隣人のドアは何事もなかったかのように電子ロックを解除する。

 そして住民たちは発見するのだ。廊下に転がっている警察官僚の死体と、犯行声明を。

 赤信号で停止していると、すぐ脇で黒い電動バイクが止まった。

 運転手役の男がバイク乗りにチップを渡すと、バイクは急旋回して別のルートを辿っていく。

 行き先はニア・イーストのネットカフェ。未使用の端末に侵入し、殺害現場のフォトと罪状を公開する。あとは茜たちが無事拠点に戻ればミッションは終了だ。

「ひゃ、ひゃはははは」“ノブルス”が壊れたような笑いを続けていた。「やった。やってやった。我が輩でもやれるのだ。ひゃはははは」

「おい、いい加減にしやがれ、“ノブルス”」

“ノブルス”は注意など聞きもしない。彼は殺人を犯した自分に酔っているのだった。初めての殺害であるならばやむを得ないことかもしれない。が、それでもパワードスーツの男は黙ってなどいられなかった。

「人の死を笑いものにしやがって。たくっ、これだから……」


 暗い車内で茜は沈黙を保つ。彼女は知っていた。

 ネット上で公開される情報はすぐに削除され、大量の書き込みによってデマ扱いされると。

 事件が報道されることはなく、官舎の住人たちは秘密を守り通す。

 一般人のほとんどは、この殺害を知ることはない。

 公には彼ら暗殺者集団 “ノース・リベリオン” は存在しないことになっているのだ。

 だが、自らの命が直接狙われるかもしれないという具体的な恐怖は、官僚貴族にとって言いようのない圧力となっている。

 そして体制に不都合な情報を完全に隠し通すことなどできるはずもなく、少しずつではあるが着実に支持者は増えていた。

 下民以外にも、“ノブルス”のような貴族の第二子、第三子に志願者が出てくるのは意外な感じはするが、それでも使える兵力であることに変わりはない。

 茜は処理レベルを維持したまま、窓外をぼんやりと眺めていた。

 逃走車は茜の発する情報シールドによって監視の眼をくぐり抜ける。

 茜の放つ干渉波は、時間を停める以外にも電子機器に想定外の誤作動を発生させることができた。電磁波の乱れは思わぬ映像や音声に変換され、まるで作り物を見ているような錯覚を監視者に与えるのだ。そのため茜は“幻影”と呼ばれている。それはまた彼女のコードネームでもあった。


 定期的に現われては消える街灯を眺めながら、茜ははっきりとした結論を出せないでいた。

 しばしばアマゾネスと形容される、日焼けした精悍な美形が、憂いを帯びていく。

 大地をこの醜い争いに加えていいものか――

 どこまでも優しく一途なあの少年を暗殺者組織に迎えて、許されるものなのか――

 自分で誘っておきながら戸惑い続けるという矛盾。

 だが、官僚貴族が下民を、そしてこの国を蝕んでいく状況を座視することなどできはしない。

 茜は唇を噛む。

 正義を――それでも正義を為さなければならないのだ。


 明日、大地は中学校を卒業する。

 暗殺者になるのだ。

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