第5話
いっそ全てを放棄して消えてしまおうかと考えたこともある。しかしその度に彼を引き止めたのはヴィクトリアの民と、ロゼの存在だった。
——彼らのために生きよう。
そう思うことでハニエルは生きてこられた。それと同時に自分を支え、必要としてくれる存在の尊さを知ったのだ。
「可哀想だなんて心外だな。僕は今、幸せだよ」
彼は声を大にして言う。守るべきものがある自分は幸せだと。
そして、気付いた。
「師匠、夢の青年はヴィクトリアの民ではないかも知れません」
「どういう意味?」
「この国の民は王の力を信頼しています」
ヴィクトリアの国民は王を愛している。そして、強大な魔王の力を持った王が治めているおかげで他国に攻め入れられないと信じていた。
ハニエルはさらに続ける。
「そんな国民が僕を魔王から解放しようだなんて考えるものでしょうか?」
「それもそうねぇ……。ということは、つまり他国の人間が魔王の心配をしているって言いたいわけ?」
「そういうことになります」
それは、にわかには信じ難いものだった。
他国の人間で新ヴィクトリア王国の国家体制を知る者は極めて少ない。酔狂な学者か貪欲な統治者でもない限り、この閉ざされた北の王国に興味を示す者はなかった。
ヴィクトリア国王の名前を言ったところでわからない顔をする人間が大半だろう。彼らは魔王が統治しているという、漠然としたことしかわかっていないのだから。
「グランツのようにヴィクトリアから他国へ渡った者もいます。青年はそのような人物から話を聞いていたのかも知れません」
「仮設の一つとして頭に留めておきましょう。明日グランツが帰ってくるのでしょう? 他国の様子を聞くいい機会だわ」
名案だとミラージュが手を叩けば、ぱちんと乾いた音が部屋中に響き渡る。その反響する音を聞きながら、ハニエルはミラージュに聞いた。
「お師匠様も明日いらしてはいかがですか? 僕よりもグランツと付き合いが長いのですし、きっと喜ぶと思いますよ?」
ハニエルの提案にミラージュは一瞬だけ目を丸くすると、困った顔ではにかんで言う。
「残念だけど明日は予定が入っているの。しばらくは会えないと思うわ」
「そうですか……」
かちりと針が動く音が鳴る。二本の時計の針は夕刻を指していた。
ふと、ハニエルが手元の紅茶に視線を落とせば、湯気はなくすっかり冷めてしまっている。気が付けば長い時間が経っていた。
耳を澄ますが雨音は聞こえてこない。どうやら雨は止んだようだ。
ミラージュが席を立つ。
「見送りは大丈夫よ。あなたは部屋に戻りなさい」
螺旋階段を下り、塔から出たところでミラージュがハニエルに告げる。
「あなたは聡明よハニエル。だから時には自分の〝勘〟を信じて思い切った行動をしなさい。……アタシみたいにね?」
雨上がりの夕空は焼けるように赤く、夕日の光は目に刺さるような痛さだった。
逆光に目を細めながらハニエルはミラージュを見る。
強烈な西日が、彼女の綺麗な銀髪を赤く染めていた。
「ハニエル」
去り際にミラージュが厳かな声でハニエルを呼ぶ。
「あなたに渡したいものがあるの。受け取って」
そう言って懐からなにかを取り出すとそれをハニエルに握らせる。肌触りの良い布の感触に、ハニエルが握っていた拳を解けば、そこには葡萄酒色の眼帯が握られていた。
「あの、これは?」
「きっと役に立つわ。快気祝いだと思って受け取っておきなさい」
木漏れ日のように優しい笑顔を浮かべて、ミラージュは踵を返す。
「——あなたが止まっても、時は過ぎていくものよ。後悔しない選択をしなさいハニエル」
それだけ告げると、彼女は西日の中へと消えていった。
ハニエルは橙色の光の中へ溶けていく彼女の背を見送りながら、いただいた言葉を反芻する。その右手には、綺麗な眼帯が握り締められていた。
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