第3話
結界に弾かれたなにかを目で追うと、そこには身の丈に不釣り合いなほど巨大な牙を剥いた猿がいた。
猿は木に登りこちらをじっと見つめている。その双眼は紫で、感情の読み取れない死んだ目が纏わり付くようにこちらを見ていた。
〝ァ゛ア゛ー! ァ゛ア゛ー!〟
老婆のしゃがれた悲鳴が聞こえる。それは目の前の猿から発せられた鳴き声だった。
ロゼは確信する。目の前の猿は魔獣だと。
紫の目、人間を惑わす不快な鳴き声……。間違いなく、それらは魔獣の特徴と合致している。しかしそれ以上に、人間としての本能が〝これ〟とは相容れないと警告を促していた。
一際大きく魔獣が鳴く。老婆の断末魔だった。
「まだ来ます!」
「一体ではなかったのか!」
鳴き声に応じるように、木々の奥から同じ猿がやってくる。そしてぐるりと取り囲むように、結界の周囲には四体の魔獣が牙を剥き出しにしながらこちらの様子を窺っていた。
「ロゼ様、奴らは牙に何か仕掛けがあります。恐らく魔術の類です」
猿の牙に注目すると、そこは魔力を帯びており、紫に淡く輝いていた。
「魔術師はそのまま結界を維持! 弓兵は魔獣を狙いなさい。その他は待機です。相手が猿の形である以上機動力では敵いません。弓矢で弱らせてから討伐なさい」
ロゼの指示に従い弓兵が矢を射る。しかし放たれた矢は魔獣に当たることなく無情にも地面に突き刺さった。
魔獣が結界に飛び掛かる。牙が結界に触れると魔力を帯びていた牙が一層強く紫に輝き、そこから雷が発生した。
ばちんとけたたましい音が鳴り響く。
「雷の魔術か……!」
後に続くように他の魔獣も結界に飛び掛かる。
「ロゼ様! このままでは結界が持ちません!」
雷の力を得た魔獣の牙は強力で、このままでは結界が破られるのも時間の問題だった。魔術師たちが苦悶の表情を浮かべている。
ロゼが進み出た。
「弓兵は結界に飛び掛かった時を狙いなさい! 雷で目が眩みますがあなたたちは己の腕を信じなさい!」
ロゼが兵を鼓舞すると、二体の魔獣が再び襲い掛かってくる。
目が眩み、目標が定まらない中、兵士は弓を射った。
〝ァ゛ア゛ー!〟
二体の魔獣は腹と、右目にそれぞれ矢が刺さり地面にのたうち回る。
残された二体が激昂し、結界に牙を突き立てる。
兵士が弓を射るのと結界が破られたのはほぼ同時だった。
「仕留めろ!」
剣を構えた兵士が地面に転がっていた魔獣を貫く。頭を砕かれ腹を裂かれた魔獣は、耳にこびり付く絶叫を挙げると息絶えた。
一体、また一体と魔獣が倒されていく。
「うわあああああああーっ!」
悲痛な声が辺りに響き渡った。兵士の悲鳴だ。
うずくまる彼の脚はぱっくりと肉が裂け、おびただしい量の血が流れ出している。残雪がみるみるうちに赤くなっていった。
彼の目の前には先程対峙していた猿の魔獣がいた。魔獣の腕には矢が刺さっているものの、致命傷には至らなかったらしい。
魔獣はひと鳴きすると牙に雷を纏い、動けない兵士に狙いを定める。
「やらせるものか!」
動いたのはロゼだった。
彼女の機動力は恐らく魔獣に及ばないだろう。ましてや彼女には魔力もない。
(一体だけなら、なんとか……!)
彼女は真っ直ぐに双剣を構えると、射殺さんばかりの目で魔獣を見据えた。
目が合った。すると魔獣がロゼに飛び掛かる。
彼女はそれを、真正面から受け止めた。
「ぐぅ……っ!」
見掛けによらず重く力強い魔獣の攻撃を双剣で防ぐ。寝不足が祟ったのか思うように力が入らない。
牙に触れた双剣が紫色に光を放ったのはその時だった。
「私に魔術は効かないわよ!」
双剣が輝くと雷を帯びていた牙から魔力が消えていく。突如消えた魔力に驚いたの
か、魔獣に隙が生じた。
その好機を逃すほど彼女は甘くはない。
素早く体勢を整え双剣の一つを首に、残る一つを腹に突き刺した。「ガガッ」と短く鳴いて、魔獣は黒い飛沫を吹き出す。吹き出した飛沫はやがて紫色の粒子になり、自然に溶け込むようにして消えていく。
ロゼは足元を見た。するとそこには芽吹いたばかりの小さな花が咲いており、傍には猿と思しき頭蓋骨が落ちている。
彼女はその頭蓋骨からそっと目を逸らした。
「負傷兵を安全な場所に移動させて。まだ魔獣がいる可能性があるわ」
魔獣を倒すとロゼはすぐに次の指示を出した。緊張を解いていないのだろう、彼女の手には双剣が握られたままである。
彼女は王宮にいた魔獣と、先ほど倒した魔獣が違うものだと考えていた。
根拠は足。猿の魔獣と比べ、王宮の魔獣は一回り以上大きな足跡だった。
「一旦王宮に戻ります」
まだ魔獣が潜んでいる可能性がある以上、この場に長居するのは得策とは言い難い。少数部隊のうえ、疲弊しているとなれば到底魔獣に敵うはずもない。目的の魔獣ではなかったにしろ、魔獣を倒したのは大きな成果だっただろう。一度ハニエルのところに戻り、再度捜索する必要があった。
後ろ髪を引かれるが今回は仕方がない。そう思いながらその場を離れようとしたところで、ロゼは奇妙な気配を感じた。
違和感を覚え、咄嗟に気配のする方を見る。
——視線の先に、光る双眼を見つけた。
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