第13話 〈伏瀬 光輝〉

 帰宅してすぐに違和感に気がついた。まだ家には入っていないが、リビングに電気がついていないのだ。


 昼寝をすることはあっても、こんな時間まで起きて来ないのはさすがにおかしいと思った。


 出かけているのかとも考えた。が、玄関に入ってすぐに違うとわかった。靴がある。


 リビングにもいない。キッチンに入ってみるも、夕食も用意してなかった。代わりにあったのがお粥が入った鍋と、風邪薬だった。ちゃんと食べ、ちゃんと飲んだあとがある。それでも恵は起きていない。


 恵が体調を崩していることはわかった。いてもたってもいられなくなり、早歩きで、けれど足音は殺して廊下を進んだ。


 母の部屋の前に立ち、ゆっくりとドアを開けた。


「恵さん?」


 そう言いながら部屋を覗き込むと、額にタオルを乗せた恵が寝ていた。胸が大きく上下している。近付いて顔を覗き込んだ。眉間にシワを寄せ、呼吸も荒い。タオルに触れた。もうすでにぬるくなってしまっていた。


 いつからかはわからないが体調を崩していたのだ。朝は普通だってように見えた。けれどもしかしたら無理をしていたのかもしれない。


「ああ、くそっ……!」


 なぜ気付かなかったのか。いや、どうやって気付くべきだったのか。いや違う、今はそれどころではない。


 ベッドの横に置いてあった洗面器を持って部屋を出た。キッチンに戻り、洗面器の水を取り替える。氷も入れて、極力冷気を保てるようにした。それと同時に鍋に火を掛けた。お粥が温まるにはまだ少しかかると、洗面器を持って母の部屋へ向かった。


 タオルを取っても恵は起きなかった。額に手を当てると、その熱さに驚いた。感覚的には平熱よりもずっと高いように感じた。


 冷たいタオルを置くと、少しだけ顔が弛緩したように見えた。


 恵の目蓋が薄っすらと開いた。


「こう、き?」

「起こしちゃったかな」

「ううん、大丈夫。今、何時?」

「八時過ぎかな」

「もうそんなに? おかしいな、ちょっと寝るだけのはずだったのに。じゃあ、ご飯の用意しなきゃ……」

「なに言ってるの、こんな調子でご飯の用意なんかできないでしょ」


 起き上がった恵は、そのままベッドを出ようとした。肩を掴んでそれを制止したが、思った以上に恵の力は弱々しかった。


「キッチンのお粥、自分で作ったの?」


 恵は少し考えたあとで口を開く


「うん、朝から調子悪かったから」

「ごめんね、全然気付かなかった……」

「私が隠してたんだよ。気にすんな」

「わかった、そうするね。じゃあお粥食べて薬飲もうか」


 今までの光輝であれば、気にするなと言われてもずっと引きずっていただろう。恵と一緒に住み始めてから、彼女には気を使わなくてもいいのだと学んだ。


「なになに、食べさせてくれるの?」

「ちょっ、さすがにそれは……」

「私具合悪いんだよね。ほら、男なら覚悟を決めて」


 恵が口を開けた。


 どうしたらいい、どうするのが正解だろう。そうやって考えている間に「早く」と催促されてしまう。


 一つ大きく息を吐き、スプーンでお粥をすくった。「ふーふー」と息をかけて熱を冷ましてから恵の口に運んだ。


 彼女は迷いなく口を閉じた。まだ熱いかもしれない、自分でも少し冷ましておこう、そんな考えは微塵も見られなかった。


「昼よりは食欲あるかも」

「はい、もう一口」


 そうやって二度、三度とスプーンを運んだ。時折佃煮や漬物を乗せたが、恵は文句を言わずに食べ続けていた。


 茶碗の中身が全てなくなったあとで薬を飲ませた。


「ありがと」と言ってから、恵はもう一度横になった。キツく絞ったタオルを額に乗せると「ごめんね」と言った。


「別に謝らなくても良いよ。誰にだってあることだよ」

「私はほら、日中は特になにもしてないから。掃除とかご飯の用意とか洗濯とか、そういうところじゃないと生活を支えられないし」

「いいんだよ、そういうことは考えなくても。恵さんはボクの不幸体質を取り除いてくれてるんでしょ? それだけで十分だよ」


 茶碗とコップをお盆に乗せて立ち上がった。


「ここにスポーツドリンク置いとくからね」


 ベッドサイドテーブルにペットボトルを置いた。それともう一つ、起きてから食べられるようにと吸引式のゼリーを添えた。


「寝る前にまた見に来るから」


 そう言ってから部屋から出た。


 恵が一日中寝ていたということは、最近になってやらなくなった家事が溜まっているということだ。まずは洗濯だと腕まくりをした。


 洗濯をし、夕食を作った。時間もあまりなかったため、ほうれん草とベーコンのバター醤油パスタを一人で食べた。


 テレビから流れてくるバラエティ番組を見て、一人でクスクスと笑いながら食事をする。これが今まで普通のことだった。バラエティ番組は好きだし、決して静かなわけじゃない。むしろうるさいくらいだ。それなのに、なぜか妙に胸がざわつく。


 本当にこれが「当たり前」だったのか。一人で食べる夕食は、こんなにも虚しかっただろうか。


 目の前に誰かがいてくれるだけで、目の前に誰もいないだけで、食事とはこんなにも差があるのだろうかと、パスタを口に運びながら考えてしまった。


 彼女と暮らし始めてから日は浅い。ではなぜ、こんなにも考えてしまうんだろう。答えはもう、光輝の中で出ていた。


 きっと求めていたのだ。自分の目の前からたくさんの人が消えて、自分のせいだから仕方がないと納得した。納得した振りをしてきた。でも本当は誰かと一緒にいて、遊んで、笑いあって。そういう生活がしたかった。そういう学生生活を送って、卒業して、年を取っても笑い合えるような仲間が欲しかった。


 気がつけば、涙を流していた。


「ボクだって、普通に生きたかったよ……」


 今不幸体質が治っても、過ぎ去ってしまった時間までは帰ってこない。同じ学び舎で勉強をした友人はいない。友人と楽しく過ごした思い出もない。


 だから、恵と一緒にいる時間が楽しかった。自分の不幸体質を気にすることなく接して、話をして、笑い合える人がいる。それが嬉しくて仕方がなかった。できるのならばずっとこうしていたい。その気持ちが、一人きりの食卓を否定していた。


 恵を女として見ているわけではない。端的に言ってしまえばなんでもよかった。友人でも家族でも恋人でも、自分の近くにいてくれるのならばなんでもよかった。数年前に、彼は家族すらも失っているのだ。


 誰も自分を愛してはくれない。そう思い続けていた光輝にとって、恵は一筋の光だった。暗い暗い部屋の中で、ドアを開けて差し込む光のような、そんな存在だった。


 寝る前に顔を見に行こう。タオルを変えて、頬を撫でてみよう。そんなことを考えながら、パスタを一気に胃に押し込んだ。

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