ー番外ー

インク沼

 近頃『万年筆グルイ指南』が好評を得ていることで調子に乗った作者の番外編である。ご覧いただいている皆様にはただ感謝するばかりだ。


 さて、万年筆とインクは切っても切り離せない相棒である。そんなもの、黒いインクを詰めて使っていればいいだろうという声が聞こえてくるようであるが、これを読み終える頃に読者諸氏のインクへの見方が少しでも変わっていれば作者はしたり顔のことだろう。

 読者諸氏の「好きなもの」は何であろうか。色々あるだろう、食べ物でも飲み物でも文具でも良い。思い浮かべて頂けただろうか、必要ならいくらでも待つので思い浮かべてみてほしい。ディテイルに色や形、どこに行けば手に入るだろうか。すると各々「拘り」が見えてくるはずだ。言い換えるならば「どこの」という枕詞まくらことば。ジョトォのモンブランケーキ、タルボ農園のダージリンティ、セーラー社の万年筆。という具合である。

 万年筆のインクも同様だ。一言に黒や紫といってもたくさんの種類がある。紫を例に紹介しよう。セーラー社ジェントルインクの時雨しぐれ、エルバン社トラディショナルインクのヴィオレパンセ、ペリカン社エーデルシュタインのアメジスト、モンブラン社インクボトルのラベンダーパープル。ちょっと思いつくだけでこれだけあるし、もちろんまだまだある。各社オリジナルの配合があるために、同じ「紫」と一言で片づけてしまうのをためらう程に違う色鮮やかさがそれぞれに存在する。子供じみているが、エーデルシュタインのアメジストなど名前から美しいと思う。実際に手にするとアメジストという宝石からくる命名も納得がいく。

 常用する色の系統が決まると、細かい色の違いが楽しくなってしまう。黒だって彩度が違うから各社を比較すると面白い。こういった好みの追及を万年筆の世界では「インク沼」などと形容したりする。好みの色合いにインクをブレンドしてくれるサービスまで存在するから、この沼は底なしである。凝ったインク瓶などは香水の瓶がごとく意匠を施してあり、まさに万年筆がまとうパフュームに他ならない。何かを書く、勉強であるとか仕事であるとか、これらは多くの人にとって事務的な行為であるといえるだろう。そういう行為に香水のようなラキジュリーを付与してしまうのは手段と目的の倒錯とうさくであると思う人もいるかもしれない。

 しかし、どんなことも楽しさは重要である。楽しくないことはやりがいを欠くから、そのほうがよっぽど不健全だろう。私自身、インク沼にどっぷりはまり、紫という紫のインクを蒐集しゅうしゅうしていた頃を思い出すとつい苦笑してしまうが、それも一つ趣深いことである。そういう経験が誰しもあるのではないだろうか。どんなに消極的に付き合っても、書くという行為は死ぬまで続くだろう。それを楽しくする道具を、人生に一度本気で選定した経験は間違いなく役に立つことだろう。

 一つ、国内で人気の高いインクとちょっと感動した経験を記してこの番外の結びとしたい。パイロット社色彩雫いろしずくの月夜というインク、これは愛用者が多く真に美しいインクである。だが手にした当時は「月夜」という物に自分が持っていたイメージとかけ離れていて当惑した。ダークブルーに濃い緑を足したような深みのある色なのだが情景としての「月夜」と深緑が結びつかない。

 そんな所感をすっかり忘れた頃、なんとなく寝付けなかった夜のことだ。図らずも満月の深夜、散歩に出た私は一歩でその場に立ち尽くすことになる。かつて手元で美しいと思ったのインクと同じ色が空一面に広がっていたのだ。どうやら大気や光の加減で深緑の様相を呈るするタイミングがあるらしい。この感動はちょっと味わえぬものであった。絵画の世界にでも飛び込んだような錯覚、作り手の意匠に共感できる喜び、自室に戻った私が月夜を手に取って感動を記したことは言うまでもない。名は体を表すとはこういうことかとしみじみ感じ入ったものである。


 いかがであっただろうか。インクが持つ美しさの一端でも感じてもらえれば幸いである。本編もあと少しで完結する。皆さんには今しばらくお付き合い頂きたい。

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