そのよりしろへやどるたま
cocotama
第1話 はじまりの夜
はじまりの夜
ことあらば そこに
美しい夜であった。
蒼く暗い空には白く光る月が冴え冴えとうかんでいる。
上弦の月である。
小高い山の中腹にある、古びた神社。
境内は、こぢんまりとした
月の光が長く垂れた桜の花を
枝をうっすらと覆う桜の花は、夜の青さの中にぼんやりと滲み、微かに紫がかった薄桃色の大樹は、幻想的なほどに月夜に映えていた。
しかし、その美しい夜にそぐわぬ人らしからぬ影が、そこにあった。
呻き声がする。
人のものとも、獣のものともつかぬ、まるで地の底から湧き出てくるような声。
声だけで、それは邪悪を感じさせた。聞くものに死の恐怖を感じさせる、禍々しい声であった。
声の主は、桜の枝の下、まるで月明かりから逃れるように、そこにいた。
形だけ見れば人である。胴体に頭と対の手足。眼鏡をかけている。髪型や服装から察するに、若い女のようである。しかしその姿態は、およそ常人がとるであろう体勢を逸していた。
体躯はべたりと地面に這いつくばり、両の手足は関節からあり得ない角度で突き出しながら胴を支えていた。さながら地べたを這いずる地蜘蛛の様である。
体の各部が引きつる様にびくびくと個別に動き、動き全体に統一感がない。まるで巨大な下等生物を人の形の袋に押し込めたようであった。
その異形のものは、あたかも体の各部の動作を確認するかのごとくひとしきり蠢いた後、とうとう言葉を発した。
「つつ、ついに、出て来たぞ。は、遙かな闇の底より、この地へ。」
強いどもりは、吃音と言うよりは、まるでまだ声の出し方に慣れていないというふうであった。
そして、それはぎこちなく立ち上がり、さらにまたぎこちなく、嗤い始めた。
「は、はは、ははははは――」
其処へ、
「そぐわぬ――」
別の声がきこえた。
「げにそぐわぬ。この美しき月の
先の声とは対象的に、涼しげで、それでいて凜とした女の声だった。
突然聞こえたその声に、異形のものは激しく動揺した。桜の枝の下から素早く這い出し、視線を左右に巡らして声のありかを探した。
境内の入り口、鳥居の下に、その声の主の影はあった。
月の光は丁度大きな鳥居の笠木に遮られ、姿ははっきりと見えない。かろうじて巫女の装束がみてとれる。
異形のものが荒々しく誰何した。
「だ、誰ぞ」
その問いに答えるように、その巫女はゆっくりと足を踏み出した。その影は、前に進むにつれて、足許から次第に月明かりに照らし出され、その姿を見せていった。
鮮やかな緋袴、丁寧な刺繍で飾られた千早、水引でまとめられた艶めく髪、風変わりな
「なな、名乗らぬか」異形のものがさらに問うた。
「吾は、高天原に御座しまさう大君が
巫女は答えた。
その返答をきいた異形のものは、強い敵意と警戒の混ざった表情を見せつつ、あたかも大型の肉食獣が獲物を目の前にした時のように、低く腰を落とした。明らかに臨戦態勢である。
「おおお、お前が、だ、誰であろうと、見られたからには、ここ、殺す」
ひどく攻撃的な言葉であったが、巫女は全く恐れる様子を見せない。そして、正面の異形の者を見つめながら、すいと左手で耳を覆うような仕草を見せた。
よく見れば左耳から頬にかけて、その装束に甚だ似つかわしくない機械的なものが装備されている。片耳のイヤフォンとマイクが一体になったインカムである。巫女は左手でインカムをおさえながら、何者かと通信を始めた。
「
巫女はマイクに話しかけたが、通信状態が悪いのか、一瞬眉をひそめ、指先で一、二度イヤフォンをつついた。そしてその下のボリュームらしきつまみを指でなぞるように回すと、そこから小さな雑音と共に音声が漏れ聞こえた。
「
イヤホンから僅かに漏れるその声は、かくしゃくとした老人のようである。巫女のことを
「ええ、何とかね」
「そちらはどうなっておる? ターゲットは補足したか?」
「ええ、これより討ち止めるわ。『依り代』はもう使えるの?」
「暫し待て。まだそちらとデータがリンクされておらぬ」
異形のものには通信相手の声までは聞こえようがないが、巫女の声は聞こえたはずである。自分のことを話しているというのは察せられたであろう。
巫女が通信を終えるのを待たず、異形のものは動いた。
まるで突然強力なバネが跳ねたように、真っ直ぐその巫女に向かい、獣のような咆吼をあげ飛び出した。
「ごおうっ」
速い。常人の動きではない。そしてその動きには、迷いのない明確な殺意が感じられた。
その、まるで猛禽が被食者を引き裂く為の
およそあり得ない高さだった。
凶器の様な爪が引き裂いたのは、巫女の動きに取り残された薄衣の千早のみであった。
目標を見失った異形のものは巫女の姿を追って空を見上げた。
一瞬、月明かりを背にし弧を描く端正な影が中空に浮かび上がった。
それは、戦いのさなかにありながら、息をのむほど美しい姿であった。
巫女は敵を大きく飛び越え、境内中程の石畳に腰を低く落とし着地した。丁度異形のものと向かい合う形になった。
千早を失い、その下の風変わりな小袖と緋袴があらわになった。異形の物からは死角になっている巫女の腰の部分、丁度尻の上のところに、これまたその装束に似つかわしくない物が光った。一挺の短筒、そして一匕の紐付き
異形のものは背中に隠れたその武器に気付く様子もなく、振り向きざまに躊躇無く突進した。訓練された動きではない。獣が本能で動くような荒々しく直線的な動きである。
並の人間にかわせる速さではなかった。しかし巫女の動きはさらに素早く、そして洗練されていた。
巫女は美しく装飾を施された鞘から小刀を逆手に抜き放ち、身を
「ひぎぃっ」
短い叫喚と鋭い風切り音が辺りに響いたかと思うと、何かが宙を舞った。
切り飛ばされた小指と薬指であった。
異形のものは、血が滴る右手をおさえ、一度間合いをとった。
巫女はすぐさま小刀を喉元で構えた。
月の光にかがよう血塗られた白刃。優に一尺はあろうその刀身には「
その小刀を構える巫女の目は鋭く相手を睨め付け、そして口元には嗜虐的な微笑を浮かべている。まるで眼前に構えられた刃の様に、凄艶な笑みであった。
異形のものはまるでその視線に縫い付けられたかのように、その場に動けずにいる。
巫女が口を開いた。
「さても口惜しかろうことでしょう。ようやく闇の底より這い出てきたかと思えば、そのまま屠られるのだから」
「ささ、させぬ」
異形の者はそう言うと背を起こし、しとどに滴る血にもかまわず両手を前にひろげた。
そしてまるでそこにいる何かをつかみ出すような仕草を始めた。
その両の手、目には見えぬが、巫女はその手の中に何らかの力が
ぐろぐろとした、おぞましい力であった。
すると、異形のものの手の動きに導かれたかのように、いくつかの黒い影のような物が、地面から染み出すようにわき上がってきた。
それはまるで人と昆虫を掛け合わせた様な姿の、見るからに禍々しい邪悪な影である。そしてそれらは実体のないぼやけた影のような物から、次第にはっきりとした形を持つ物へと姿を変え始めた。
だがその恐ろしい光景を見ても、巫女はまるで
「なんと、
そのとき、巫女のインカムに再び通信が入った。
「猨よ、繋がったぞ。『依り代』をつかえ」
「ご苦労様。でも、あれを使うまでの敵ではないわ。私一人でなんとでもできそうよ」
「たわけっ、実戦データがいるのじゃっ」
巫女は少し鼻白んだ表情を見せると、構えていた小刀を一度振るって鞘に収めた。そして不敵に微笑みながら敵に話しかけた。
「喜びなさい。お前を屠るに秘蔵の大御神器を使ってあげましょう。滅多に見られる物ではなくてよ」
そう言いながら、巫女は懐に手を入れ何かを取り出した。
それは、手のひらほどの大きさの、人の形に切り取られた和紙の様だった。
顔から胴の部分にかけて何か記号のような物が書かれている。どうやら一般には伝わっていない神代文字のようである。
その紙片を手にしたとき、巫女の態度が改まった。その様子から紙片が只の紙切れではないことが察せられた。
「
巫女がつぶやいた。
「
巫女の顔から不敵な笑みが消えていた。空気が、ぎりりと張り詰めた。
「故に、依り代になる物さえあれば、神降ろしはさほどなし難きことにあらず」
異形のものは巫女の語り口にただならぬ気配を感じた。あの紙片には何か尋常ならざる物があることを悟った。
「さりとて、憑依した
月明かりのしじまの中、巫女の浪々とした声だけが辺りに響く。
異形の者の寄せた影達はほぼ体が固まり、すぐにも自分の意思で動き出しそうだった。
「それ故、人も我らも、常に求めていた。宿る
異形のものはまた腰を低く落とし、攻撃の態勢をとった。額には冷たい汗が流れていたが、それを拭う余裕も無いようである。
「そして、その願いは遂に人にこの依り代を作らしめた」
大気がたわむほどの緊張の中、巫女は空いている手で
「これぞ、宿れし霊の在るべき姿に自在に取り成す依り代、『御霊の依り代』なり」
巫女はその勾玉を紙片に添えると、口を寄せて何かを呟いた――
その刹那、そこからまばゆい翡翠色の光が、激しい放電現象のように一気に放たれた。
それは、さながら強靱な生命そのものが具現化された様な光であった。
強く、美しく、
そしてそれは光芒を残しながら一気に巫女の手にした紙片の中へ吸い込まれていく。
すべての光が吸い込まれたとき、紙片が爆発するかのように大きな光を発した。
とたん、熱風のような圧力が異形のものをおそった。
「うぬうっ」
ほんの一瞬、異形のものは目をくらませ、敵の姿を見失った。しかしすぐさま目をこらし、巫女の姿を確認する。
巫女は変わらずそこにいた。しかし、もう一人の、今までそこにいなかった影が現れていた。
男の人影である。
男は、心持ち足を開き、真っ直ぐ立っていた。
両の頬からはだけた胸の
戦いの構えはとってはいない。だがその双眸は真っ直ぐ異形のものを捉え、そしてその視線だけで己の敵をその場に釘付けにしていた。只者ではない。
「ここ、この男、何者――」
その男の、全身から滲み出るようにただよう、尋常ならざる気。あたかも真っ赤に燃える
それはまさに、純粋な闘志そのものであった。
「
男の影が、低くはっきりとそう言った。
「参る――」
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