蛇神譚(じゃしんたん)

芦原瑞祥

第1話 託宣

「何故、この国はまつろわぬのでしょうか」


 神殿前の砂利にひざまずき、倭迹迹日百襲姫やまとととひももそひめは神に祈り続けた。上弦に満たない月が、その頬の隆起や深い瞳を青白く照らす。二十歳になったばかりとはいえ、凛とした姿には、巫女頭にふさわしい気高さがある。


 昨年は梅雨が長引いた上に冷夏となり、稲の収穫量は例年の半分ほどだった。少ない米を徴収された上に、疫病えやみがはやって死者が相次ぎ、民の不満はつのっていった。

 今年は逆に、田植えの時期が来ても雨が降らず、疫病えやみはさらに猛威をふるった。田畑を捨てて逃げる者や、大王おおきみ家に逆らう者が出始めている。


 国が治まらないのは、神が為政者に対してお怒りだからだ。


 古来より言い伝えられており、民もそう信じている。このままでは、神が大王おおきみを認めていないから不吉なことが起こるのだ、とされてしまう。

大王おおきみ御間城入彦みまきいりひこが、夢の中でお告げを賜るため、神殿で就寝しております。どうか疫病えやみを鎮め、民が平和に暮らせる術をお教えくださいませ」

 小石が額に食い込むのもいとわず、姫は平伏した。大王おおきみがいるはずの神殿からは、まだ何の気配も伝わってこない。


 巫女頭である百襲姫ももそひめは、神託を伝えたり、魂を体から遊離させる「鳥飛び」を用いたりして、大王おおきみの政治を補佐している。

 一昔前、日巫女ひみこの時代には、霊力を持つ巫女こそが国の頂点に立ち、男性近親者がその託宣を民に伝えていた。しかし今では、祭祀をつかさどる巫女は形骸化し、男王が政治力で「まつりごと」を行っている。


 その特殊能力からヤマト(大和の国の)トトヒ(鳥飛び)と称えられた百襲姫ももそひめも、年上の甥である大王おおきみの影に隠れる形となった。

 だが、政治力のみで国を治めるにも限界がきた。日照りや疫病えやみの原因を、人々は「征服された神の祟り」と噂した。


 大王おおきみの一族は、もとは西の地で勢力を誇っていたが、東征して他氏族を話し合いや武力でまとめ、大和国をつくった。この磯城瑞垣宮しきのみずがきのみやは、最大勢力だった三輪族の元執政地であり、神殿が建つ三輪山は「蛇神様がとぐろを巻いた姿」とされ、彼らが奉じる神そのものと信じられている。それを、「大王おおきみ一族の祖神おやがみ天照大神あまてらすおおみかみである太陽が昇る山」として遥拝場に変えてしまうことで、大王おおきみは権力を誇示したのだ。


──三輪族の神が、お怒りなのかもしれない。


 月夜に浮かび上がる三輪山の影が、わずかに動いたように感じた。とぐろを巻いた巨大な蛇に、闇の中からじっと見られている気がする。畏れをねじ伏せるように、姫は再び額づいた。


 百襲姫ももそひめとて、手をこまぬいていたわけではない。大王おおきみが「まつりごと」につながる祭祀権を他氏族から取り上げた後、それらの神々を丁寧に祀った。崇敬を失った神は「祟り神」になってしまうからだ。


 国が呪われると、異常気象や病が起こる。昔は、国が乱れると、巫女は祭祀に失敗した責を負って殺されたという。女王日巫女ひみこの死因も、昼日中に太陽が隠れてしまう異常現象が起こったため、群衆の手にかけられたのだ、という噂がある。

 姫は身震いした。初夏の過ごしやすい気候だというのに、背中に冷たいものが走る。


 何としても、大王おおきみに神のお告げを聴いてもらわなければ。

 姫は、額を何度も砂利にすりつけ、神に祈り続けた。


 ふと、甘い香りが鼻をくすぐった。頭の芯がとろけるようなにおいだ。どこから漂ってくるのかと、いぶかるうちに、意識がゆるみ始めた。そのまま、夜の闇に溶けだしてしまいそうだ。


 気がつくと、百襲姫ももそひめは砂利に突っ伏した格好になっていた。こんなときに、うとうとしてしまうとは。

 姫は慌てて身を起こした。急に動いたからか、頭がふらつく。水の中で動くような重だるさが、体にまとわりついている。


 強烈な気配を感じ取り、姫は高床の神殿を見上げた。肌に触れる空気が、急激に冷えたように感じる。そこにいるものを目にして、姫は息をのんだ。


 白蛇が、鎌首をもたげてこちらを見ている。目を赤く光らせ、舌をちろちろとのぞかせながら。


──倭迹迹日百襲姫やまとととひももそひめ


 頭の中に、直接声が響く。もしや三輪山の神かと思い、平伏しようとするが、体がうまく動かない。蛇は頭を床におろし、なめらかにうねりながら、神殿の扉へと向かった。


──いましも来るがいい。


 蛇は木の扉をすり抜け、見えなくなった。百襲姫ももそひめも後を追おうとしたが、どうしても手足が言うことをきかない。

 麻痺した体を諦め、姫は鳥飛びを試みた。腹の中の光る玉が、首を通って頭上へ抜けていく様子を想像する。意識を集中させると、ふっ、とすべてが軽くなり、魂だけが飛び出した。姫の意識は鳥のように舞いあがり、神殿へと向かった。


 木の扉をすり抜けると、四方を白布の衝立で囲われた神床かむどこが見えた。姫はとばりの中に入り、寝床に横たわる大王おおきみの枕元におりた。まだ三十歳に満たない若い王は、夢を見ているのか、瞼がかすかに動いている。

 ここにも、先ほどと同じく香草を燃やしたような甘いにおいが漂っている。頭がくらくらする、不思議な香りだ。


──御間城入彦みまきいりひこ


 今度は、頭の中にではなく、正面の衝立の向こうから声がした。

 白い布の向こうに灯がともり、人影が映し出される。目を覚ました大王おおきみは、尋常でない気配に起き上がろうとしたが、体が動かないらしく、見開いた眼だけをそちらへ向けている。百襲姫ももそひめも、魂だけで体はないはずなのに、身がすくんで動けない。


──吾は、この山に大物主神おおものぬしのかみ


 やはりそうか。姫は布の向こうの気配を詳しく感じ取ろうと、神経を研ぎ澄ませた。隣で、大王おおきみが唾を飲む音が聞こえる。


──国が治まらないのは、吾が意によるものだ。いましらは、吾の体である三輪山に、他の神を祀った。即刻、別の場所へ遷せ。

 人影がゆらめいたかと思うと、白い布に手がかかり、一人の男が入ってきた。

 薄明かりを背にしているので顔は見えないが、みずらに結った髪に白い衣という出で立ちだ。姿勢や身のこなしに、風格が感じられる。


──吾を敬い祀れば、国は自然と平らぐ。疫病えやみも鎮まり、五穀は豊作となるだろう。

 大王おおきみがかすかに息を吐き、肩の力を抜いたのがわかった。


──ただし、条件がある。

 再び固唾をのんだ大王おおきみの足元に立ち、貴人がこちらを指さした。

──祭主は、吾が子孫、大田田根子おおたたねことせよ。


 口を動かすことのできない大王おおきみが、瞬きでうなずく。貴人はそれを見届けると踵を返した。衝立の向こうへ去ろうとしたが、ふと立ち止まり、ゆっくりとこちらを振り返った。


 布の向こうから漏れる光に、その顔が照らされる。涼やかな切れ長の目をした、まだ若い男性だ。彼は、実体のないはずの姫に向かって、かすかにほほえんで言った。


──また会おう。倭迹迹日百襲姫やまとととひももそひめ

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