好きの正体

じゅうく

第1話 好きの正体

 早朝のランニングは、特に趣味も特技も持たない僕にとって唯一の日課だった。その日の体調や気分に合わせて自由に走る。他人と競わず、比べず、勝敗で一喜一憂することもない。ただひたすら自分の思うままに走るだけ。とても気持ちがよかった。

 コースとしている堤防を下り道路に面した歩道まで出てところで一旦休憩しようかと足を止めた。すると、前方の車道から何か小さい物体が近づいてくるのが見えた。一瞬猫かと思ったがそれは子犬だった。

「ペロちゃーん、待ってー! すみませーん! その子つかまえてくださーい!」

 どうやら飼い犬がリードをはなれてしまったらしい。

 僕は車道に出て『ペロ』をひょいと掬いあげた。車が来なかったのは幸いだった。女性は走るのが苦手なのか、ものすごい息を切らしながらやってきた。年は僕よりいくらか上のように見える。顔にあどけなさはあるが長いストレートの黒髪で年上感が上品に出ている。

「おい、ペロ助。ちゃんとご主人様の言うこと聞かないとだめじゃないか」

 僕は自分の鼻とペロの鼻とくっつけて言いきかせると、口元をひと舐めされた。

「犬、平気なんですか?」

「あ、あぁ、はい。昔うちも犬飼ってたので」

「そうなんだ! でも不思議。この子、他の人にはすごく吠えるんですよ?」

 以前番犬代わりと飼っていたウチの犬も僕だけには吠えなかった気がする。人にはよく吠えられるけど、と思ったが口にはしなかった。僕はそっとペロをお姉さんの足元へ下ろした。

 お姉さんに促され近くのベンチで腰を下ろすと、お姉さんはポットのお茶を注いでくれた。毎朝犬の散歩でよく近くを通っていること、僕をたまに見かけていたことなどを話してくれた。時計を見て僕が立ち上がると、「あ、あの」とお姉さんが僕を引き留めてきた。

「あの……その……また朝、時間もらえませんか?」

 僕の訝んだ反応に、お姉さんは慌てて手を振って訂正した。

「別に、変な意味じゃなくて! きみ毎朝走ってるでしょ? 休憩のときに少し時間もらえないかなと思って……」

「は、はぁ……」

「私ね、いま色々あって話せる人がいなくて……。生きてると、こう、あるわけなんですよ、ね? 話し聞いてくれるだけでいいですから……ね?」

 首を傾げたお姉さんは丸い大きな瞳で僕を見上げていた。僕の鼓動が速いのはきっと走ってたせいだろう。僕の息遣いすら伝わってしまいそうで唇を強く結び、ごまかすように視線を外に投げ出す。これほど間近で女性と接したことがなかった僕に直視なんてできるわけがない。

 そもそも同級生の女子ですら会話もままらない僕に果たしてその役が務まるのだろうか。恋愛相談なんてされたら即死である。

「話し……聞くくらいなら、いいですよ。えぇと、あの……」

「真津子(まつこ)、ちゃんと本名ですよ? 原(はら)真津子(まつこ)。デラックスとか付けたら怒りますよ?」

 と真津子さんは愉快そうに笑った。

「僕は、広海(ひろみ)。青井(あおい)広海です」

「青くて広い海かぁ。ロマンを感じますねぇ。ヒロミくん」

「カタカナにしちゃうと芸能人になっちゃうので、やめてください……」

「お互い毒舌芸ってことで! っというわけだからよろしくお願いしますね」

 真津子さんは、ペロを抱き寄せ「よかったねぇ。おまえもよかったって思うかぁよしよし」とひとり喜んでいた。


 その日を境に、僕の日課がひとつ増えた。気づけば、雨の日以外はほぼ毎日真津子さんと会うようになっていた。日を追うごとに夜明けが早まっていく。肌を刺すような朝の冷たさも薄れていく。

「あーきたきた。こっち、こっちー」

 いつものように、真津子さんは河川敷に植えてある桜木の下で待っていた。ペロも僕の姿を見るなりすごい勢いで短いシッポをブンブン振っていた。

「相変わらず早いね」

「広海くんが遅いんだよ。もっと速く走れないの?」

「むちゃ言わないでよ。僕は陸上選手じゃないよ? ただの日課なんだから」

「わかってる、わかってる。何回も聞いたよ」

 二人並んでベンチに掛けると、ルーチンの如(ごと)く真津子さんはミニバッグから水筒を取り出し、カップに琥珀色(こはくいろ)の液体を注いだ。

「今日はほうじ茶。熱いから気をつけてね」

 僕は「ありがとう」とカップを受け取り、そっと口を付ける。真津子さんは毎回飲み物を持参し、僕の到着を待っていた。朝の公園で今日もお喋りの始まりである。

「ところで、広海くん。彼女いるの?」

「ぶっ! ……いたらこんなに暇じゃないよ」

「はははっ、そうだよね。質問が悪かったよ。じゃ好きな子は?」

「いない」

「うそっ、いるでしょふつう! 年頃の男の子だもん。あり得ないでしょ」

「恋愛経験値の低い男子に真津子さんがそういう話題を振ること自体あり得ないと思うな」

「たしかに! 言えてる! 言えてる!」

 腹を抱えて笑う真津子さんに、僕は溜息をつきながらジト目で視線を送る。

「僕、てっきり一回だけ話し聞いて終わりだと思ってたのに」

「え、なに、不満なわけ? こんなきれいなお姉さんとお話しできて広海くんも嬉しいでしょ?」

「それ自分で言う?」

「言っちゃう。だって、私といても全然広海くん楽しそうじゃないし」

「え……そ、そんなことは……」

「そんなことは?」

「そ、そりゃ、まぁ……」

 言い淀む僕を追及するように隣りで真津子さんは意地悪な笑みを口元に湛(たた)えていた。

「ヘタレ男子」

 ……はい? キョトンとする僕を置き去りに真津子さんはベンチを離れ、近くの桜木へと歩み寄っていく。僕もつられて立ち上がった。

 桜の蕾はだいぶ膨らみ始めている。春を感じる瞬間だ。

 真津子さんも桜木を見上げている。来週にでも開花が始まるであろう蕾を彼女は愛おしそうに眺めていた。彼女はとても不思議な人だった。よく笑い、よく喋る。僕をからかい、マイペースに僕を振り回す。

 彼女について分かったこともある。現在二十歳で大学生であるということ。諸事情があるらしく現在は休学して家事手伝いしてること。謎の部分はかなり多い。

「広海くん、髪伸びたんじゃない?」

 真津子さんはいつの間にか僕の横で、僕の前髪へ手を伸ばそうとしていた。僕は咄嗟(とっさ)にそれを避けた。

「あ、照れてる!」

「照れてないし」

 気づくと、敬語も取れて自然に会話ができるほどになっていた。これは自分にとって大きな成長、いや進化だ。すると、真津子さんが「ねぇ」と僕の袖を握ってきた。

「もし今日命が終わってしまったら、広海くんは心残りとかある?」

「うーん、どうだろ。考えたことなかったけど。真津子さんは?」

「私だったらきっと……男の人を本気で好きになってみたかったな」

 人生の最後にかぁ。恋も悪くないかもと言おうとしたが、恋を語れる領域の人種ではないことを思い出し僕は肩を落とした。

「ねぇ、広海くん……『好き』ってなにかなぁ」

 恋を知らない僕に分かるわけがなかった。真津子さんはきっとたくさん恋愛経験も豊富なんだろう。周囲の男子が放っておくがない。決して埋まらない溝のようなものを感じ僕は口を噤(つぐ)んでしまった。

 それから真津子さんは姿を現さなくなった。

 

 桜が散ったころ、僕の日課がまたひとつ増えた。

 学年が上がると授業の内容も格段に難しくなる。授業で疲れきった頭と体をほぐす名目で夕方にもランニングを取り入れた。そんなものはただの口実で僕の足は自然と河川敷の公園へと向いてしまう。夕方はウォーキングや犬の散歩をする人たちと多くすれ違う。真津子さんらしき人影を無意識のうちに探してしまっていた。

 あの時もっと親身になって話を聞いてあげるべきだったのか。気の利いたことでも言うべきだったのか。いいや、僕にそんなことできるわけない。相手は自分よりも経験豊富な年上女性だ。高校生が背伸びしたくらいで簡単に見透かされてしまうし、経験がない分言葉に重みが足りない。

 朱色の陽が西の空に吸い込まれるように光を収束していく。桜木近くのベンチでぼんやりと考えていた僕は、そろそろ帰ろうかと腰を上げ辺りを見回した。そのときだった。川べりに立つ女性の後ろ姿に見覚えがあった。僕は考えるより早く足が動き、その名を叫んだ。

「真津子さん!」

 びくりと肩を震わせた真津子さんがゆっくり振り返った。その顔を見た途端、駆けよる足の勢いを失った。

 真津子さんはしばらく見ない間に痩せ細っていた。頬がこけ、血色も悪い。俺の驚いた表情に真津子さんは眉尻を下げ少し困ったような笑みを返してきた。

「……ひさしぶり。元気してた?」

 快活だった声とはかけ離れたもので、精一杯しぼり出している様子だった。

 異様な違和感が胸の中でうごめく。真津子さんは顔を隠すようにタートルネックを引き上げた。僕はその仕草に焦燥感を駆りたてられていく。

「……もしかして、ずっと顔見せなかったから、怒ってる?」

 俺はぶんぶんと首を横に振った。喉まで言葉が出てきているのに、あとひと押しができない。

「ごめんなさい……私から話聞いてほしいなんてお願いしてたのに……」

 謝らないでほしい。教えてほしい、何があったのか。知りたい……どうしてそんな痛々しい姿をしているのか。

 すると空白を埋めるように真津子さんがポツリと告げた。

「私……あと少ししか生きれないみたいなの」

 その言葉が孕(はら)む衝撃さに僕は何が起こったのか理解できないほど頭が虚無に包まれた。

「生まれつき心臓が悪くてね。学校なんてほとんど行ったことがなかったの……お医者さんに二十歳まで生きられるか分からないって言われてたから……」

 やつれた顔が無理に笑みを作り、それがかえって僕の胸を締め付け始める。

「最後に会った次の日家で倒れちゃって……心臓がもう限界みたい」

「そんな冗談……笑えないよ」

 吐き出すように言った僕は顔を伏せ、あげることができなかった。

 何て声をかけたらいい? どうしたらいい? 僕は…………どう思ってる?

「黙っててごめんなさい……」

 真津子さんの様相はまさに重度の病人そのものだ。……冗談を言ってないことは分かる。けど受け入れることなんてできないよ。せっかく仲良くなれたのに。初めて気軽に話せるようになった人だよ? こんな素敵な人がもう死ぬって? おかしいだろそんなの……。 

「広海くん……泣いているの?」

「……え?」

 おもむろに目に手を当てると、涙でぐっしょりと濡れていた。

 途端、僕の胸に真津子さんが飛び込んできた。

「なに泣いてるのよ、ヘタレ男子」

「真津子さんだって……」

 背に真津子さんの腕の体温を感じながら、堰き止めていた思いが決壊し言葉が溢れて止まらなかった。怖かった――目の前の河川が三途の川のように見えてしまい、真津子さんを今すぐにでも向こう岸へと引き込んでしまいそうな気がして。僕たちの過ごした時間がなかったことにされそうで。この出会いを否定されたような気がして、そして、唯一心を開けた相手を失ってしまうのが――怖かった。


 一年後――今年も桜木が春を喜んでいるように咲き誇っていた。

「どう? 体の調子は?」

「絶好調! ……と言いたいところだけど、まだゆっくりしか歩けない」

 がっくり肩を落とした真津子さんだったが、少し歩いて休み、少し歩いて休みを繰り返していた。それもそのはず。真津子さんは長期入院を余儀なくされていた。余命一年と宣告されていたのだが、こうして今年も春を迎えることができたのだ。

「奇跡だったよ、ほんと。これも全部広海くんのおかげかな」

「そんな大げさな……」

 奇跡は起きた。日に日に弱る真津子さんを見守っていた僕は彼女の死を覚悟していた。だが奇跡は起きた。あと数か月もつかどうかの状態の時にドナーが現れたのだ。

「広海くんこそ、学校のほうはどうなの? 彼女でもできた?」

「はぁ……できてたら、こんな風に真津子さんと歩いたりしてませんよ」

「あぁ! なんかデジャヴぅー! なんかこの感じ懐かしい! 帰ってきたって感じー」

「って、聞いてる……?」

 真津子さんはゆっくりとくるくる回りながら、晴れわたる空を腕いっぱいに広げて仰いでいた。

 そんなに動いて倒れたらどうするんだよ……ほんと大人なんだか、子供なんだか分からない人だ。

「私ね……移植の話がくる前に、本当はもう死んでもいいかなって思ってたの」

 唐突に話を始めた真津子さんに僕はぎょっとして、慌てて彼女を振り向いた。

「あはははっ、そんな驚かなくていいよ。死にたかったとかそういう気持ちじゃなくてね、ほら、私さ心残りがあるって話したじゃない? 覚えてる?」

「うーん。たしか……彼氏がほしかった、だっけ?」

「ぶっぶー! 惜しいけどぜんっぜん違いますー。適当に聞き流してたんでしょ、もう!」

 口を尖らせた真津子さんは、握りこぶしを二つ作って側頭部に当てた。まったくもって謎である。

 僕はスルーし先へ行こうとすると、ふと腕を掴まれた。僕の視線は、細い指から色の白い腕を伝い、真津子さんの瞳へ吸い込まれた。

「私、正直もうだめだーって思ったのね。このまま死んじゃうんだーって。……でも、それでもいいって思ったの……だって、真剣に人を好きなれたから。本気で人に恋できたから」

 真津子さんの好きな相手がどうこうより、真津子さんの心情がどういった変化を起こしたかが僕にとって重要だった。人生の最後かもしれないという場面で、悔いを残してほしくなかったから。

 そよ風が桜の花弁を散らしていき、僕たちの頭上から淡桃色の雨が舞い落ちてくる。

 平凡男子には出来すぎたシチュエーションだ。僕にそんな甲斐性があるとは到底思えないけど。

「でもね、広海くん……人ってつくづく欲深い生き物だなってことが分かったよ」

「欲深い?」

 自嘲気味に言う真津子さんの手が僕の腕から離れた。

「そう。もう死んでもいいって覚悟してたのに……もっと生きていたいなって、思っちゃったよ……私の覚悟なんてそんなもんだった。だけど、願わずにはいられなかった……助けてくださいって、広海くんともっとお話ししたいって……」

「僕と……?」

「せっかく仲良くなれたのになんかもったないじゃない? 朝の公園だけじゃなくて、もっと、こう、カフェとか、映画とか遊園地とかさ。デートの王道ってやつ」

 真津子さんは楽しそうに笑い、僕もつられて笑みがこぼれる。真津子さんの笑顔を見て僕は思った。彼女のポジティブな欲が奇跡をもたらせてくれたのかもしれないと。

「ところで、広海くんにとっての『好き』って何だか分かったの?」

『好き』の正体か、去年そんなことも話したっけな。答えは簡単だった。自分の気持ちに素直になればすぐ分かるはずだった。恋愛が分からない僕はそれが恋と気付かずにいた。

 でも今は、はっきり言おうと思う。

 僕にとって『好き』の正体を――

 僕の大切な女性(ひと)の名を――

 僕たちの間に風が舞い込む。長い黒髪を揺らしながら真津子さんは、満面の笑みを咲かせていた。

 宙の花びらが風にさらわれて、桜木を抜けだし青々とした空へと消えていく。

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好きの正体 じゅうく @ju-ku219

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