ショートショート

多田七究

始まりのトンネル

 呪いのトンネル。

 中には一人しかいない。懐中電灯の明かりが左右に揺れている。

 頭からも伸びる光。

 ヘルメットに照明がついていた。振り返って、何かを確認。ふたたび、前を向いて歩き始める。

 作業着姿の男は、やる気のない顔をしていた。

 いわく付きのトンネル。昔、早く工事を終わらせようと無茶をした。何人もが犠牲になったという。

 今では、使われていない。再利用する話も決まっていない。

 それを気にしている様子のない男。前に歩き続ける。


「ちゃんと、報告しろって言っただろ」

「すみません。やることがあるので、頼みます」

 職場。ワイ氏は書類を作っていた。報告のなかった、新たな情報が追加される。

 背の高い同僚を横目で見る。忙しそうには見えない。

 ワイ氏が、追加で資料を作成する。

 同僚の働きぶりは、いつもどおりだった。


「しかしですね」

「しかしも何もない。明日、行ってこい」

「はい」

 ワイ氏は了承した。

 椅子に座っている上司を横目で見る。口に力が入って、不機嫌そうな顔。

 ワイ氏が手帳を開き、予定を書き込む。

 上司の態度は、いつもどおりだった。


「また、テレビか」

「なによ。面白いから仕方ないでしょ」

 自宅に戻ってきた中年男性は、ため息を吐いて冷蔵庫を開けた。

 横目で見るのは、前よりふくよかになった妻。TV放送を観続けている。お菓子を食べながら。

 服も着替えずに、野菜炒めを作るワイ氏。

 今日の夕食も、いつもどおりだった。


「もう少しだけ、待ってください」

「ギャンブルって怖いなあ? 兄ちゃん」

「必ず返しますから」

「笑っているうちに、返せるといいな」

 ワイ氏には時間がなかった。

 辺りが暗くなってきた街。その片隅で立ち尽くす、作業着姿の男。

 離れていくスーツ姿の男を、呆然と眺める。

 灰色のビル群が、黒く染まっていく。灯りに照らされる人々。

 ワイ氏の周りには、陰が広がる。


 このトンネルは、鉱石を運ぶためのものだった。

 線路があり、列車が走っていた。点いていたのは、オレンジ色の照明。

 鉱石が取れなくなり、すぐに使われなくなる。

 今では線路もない。

 照明は残っているものの、灯っていない。道路として使われていないからだ。

 ヘルメットから伸びる光が、落ちているゴミを照らした。

「肝試しなんて、やるなよ」

 関係者以外は立ち入り禁止になっているはずの、トンネル。ワイ氏は、放置して先に進んだ。

 道半ば。

 懐中電灯の光が、姿を捉える。

 照らされていても微動だにしない。目が合った。

「立ち入り禁止だぞ」

 それを聞いても、少女は何も言わなかった。十代半ばに見える。荷物を持っていない。

「ゴミを捨てに来たわけじゃ、なさそうだな」

 呟いたワイ氏は、少女の足元に何かを見つけた。

 札束だった。

 白いバッグの中に、お金が入っていた。バッグの口は開いていて、中身が丸見え。

 ワイ氏の目が釘付けになる。

 視線を上に向けると、少女の姿はなかった。


「さっきの子が置いたのか?」

 白いバッグを持ち上げる、ワイ氏。

 ぎっしりと詰まった札束は、かなりの重さがある。

 借金を返してもお釣りがくるほどだ。


 ワイ氏は、思い出していた。

 仕事のできない同僚。無茶ばかり言う上司。出会った頃とは別人のような妻。

「どこかで選択を間違えたのか」

 ワイ氏は、少女を探しに出口へと向かわなかった。振り返る。

 入り口を目指した。

 そして、落とし物を届けなかった。

 作業着姿で頭にヘルメットをかぶったまま、列車に乗る。

 向かった先は自宅。

 手に握られている、白いバッグ。

 ワイ氏は、選択した。


 玄関のカギを取り出す前に、扉が開く。

「おかえりなさい」

「連絡してないのに、なんで分かったんだ?」

「愛する夫のことだからよ」

 太陽のような笑顔を見せる妻。まさに、ワイ氏と出会った頃のような表情だった。

「荷物を置きに来ただけだ。すぐ出かける」

「いってらっしゃい」

 白いバッグを部屋に置いたワイ氏が、社員寮を後にする。

 会社へ着くまでのあいだ、表情は曇ったまま。晴れることはない。


 すでにデータは入力してあった。

「あれ。遅かったですね。やっておきましたよ」

 さらりと言った、背の高い同僚。自分の仕事に戻っている。余裕の表情だった。

 ワイ氏は、自分の席に座る。

「忘れてた」

 頭をかこうとして、ヘルメットをかぶったままだった。

 ヘルメットを脱ぐ。

 不安そうな表情を隠さない。上司の席へと歩いていく。


「報告します」

「お疲れ様。今日は、帰って休んでくれ」

「はい」

 ワイ氏は了承した。

 椅子に座っている上司は、穏やかな顔。

 同僚が、仕事を代わりにやっていた。

 ワイ氏の頬に汗が流れる。

 いつもより早く帰路についた人物に、乾いた風が吹き抜けた。


「どういうことですか?」

「だから、もうちょっと待ってください。お兄さん」

「どうなってるんだ」

「必ず、必ず返しますから」

 スーツ姿の男は去っていった。

 灰色のビルが立ち並ぶ街。徐々に赤く染まっていく。

 いつもと同じように行き交う人々。

 作業着姿の男は、呆然と立ち尽くしていた。

 夕日がワイ氏の体温を上げていく。


 夫は、妻の手料理を食べた。

 二人で食器を洗い、片づける。

 居間でソファに座る夫。寄り添う妻。TVはついていない。

 しばらくして、二人で歯を磨いた。

 妻が運動を始める。夫は黙って見ていた。

 お風呂に入る。

 二人は、寝る前に談笑していた。

 幸せな時間だった。

 中年男性は、ベッドの中で涙を流した。


 翌日。

 ワイ氏は列車に乗っている。

 休日にもかかわらず、朝早く家を出ていた。

 手に握られているのは、白いバッグ。

 列車を降り、駅の外に出る。

 普段と変わらない様子の、灰色の街。笑顔の人々。

 ワイ氏は歩く。

 表情に滲むのは、悲哀と決意。


 関係者以外立ち入り禁止。

 無視して、男は中に入っていった。

 明かりがない。真っ暗だ。ワイ氏は、懐中電灯の光で照らして進む。

 ほかには誰もいない。

 トンネルは、あの時と同じに見えた。

 白いバッグを握る手に、力が入る。

 さらに先を目指す。

 前に進み続ける。

「仕方ないな」

 落ちているゴミを拾い、袋に入れるワイ氏。

 お菓子の包装紙や、飲み物が入っていた容器をいくつか拾った。

 右手で懐中電灯を持つ。右肩に袋を掛ける。左手で白いバッグを握った。

 大きく息を吐いて、前に進む。

 白いバッグが落ちていた場所まで、やってきた。


 荷物を置いたワイ氏。

 懐中電灯で、辺りを照らす。熱心に何かを探している。しばらくして、頭をかいた。

「誰か、いないのか?」

 返事はない。

 入り口の方を照らす。遠くてよく見えない。

 出口の方を照らす。外の明かりが見える。

「こっちに行けってことか?」

 返事はなかった。

 荷物を持つと、出口に向けて歩き始める。


 トンネルの中は暗い。

 出口を抜けた男は、目が眩んでいた。

 まぶしさを感じなくなると、見知らぬ姿の街が目に飛び込んできた。

 銀色の部分が多い。

 とんでもなく高い建物が並んでいる。それでいて緑も多い。

 別の国に迷い込んだような光景。

 そもそも、トンネルのすぐ近くに街はなかったはず。

 ゴミを分別して捨てようとする。だが、捨て方が分からない。あきらめて袋ごと置いた。

 見るもの全てが、知らないものだった。


 トンネルがない。

 というよりも、どこから来たのか覚えていない。

 街の人々は、普段と変わらない様子で過ごしている。

 普段とは何だったのか。

 独り立ち尽くす男には分からなかった。


 建物のガラスに姿が映される。

 白いバッグを持った男は、見知らぬ姿をしていた。

「これは」

 声も、ワイ氏とは違った。

 驚いたような表情の男。すぐに、落ち着いた雰囲気になる。懐中電灯をゴミ箱に捨てて、歩き始めた。

 男は、自宅へと帰っていった。

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