自首した男
山本正純
第1話 刑法四十二条
昭和六十三年。残暑が残る季節の深夜。黒い髭を顎に生やし、黒色の雨合羽を着た中年の男は、大型のスコップを地面に刺した。庭に穴を掘る作業を始めてから数時間が経過している。最初は小雨だったが、今では激しい雨が降り注ぐ。
雷鳴が響き始めた頃、男は作業を終えた。そして、彼は客間に戻る。客間となっている六畳ほどの和室には、白いシャツを着た右頬に大きな黒子がある恰幅の良い男がうつ伏せに倒れていた。所々に血痕が飛び散っている室内。客間に横たわる男の背中は、凶器で切り裂かれている。男の遺体の近くには、血塗れの包丁が転がっていた。
客間で男を殺した犯人、
それから彼は、スコップで遺体や凶器に土を被せた。雨粒と混ざり、大橋の瞳から涙が地面に落ちる。この男に死者への懺悔があったならば、この方法を選ばなかっただろう。この方法を選んだとしたら自首をして罪を償うはずだ。
元通り埋め直した頃、朝陽が雲の隙間から漏れたことを、大橋は今でも覚えている。
誰も知らない殺人事件が起きてから、二十四年が経過する。その間、大橋陽一は一度も捕まることはなかった。
この日の深夜、彼は布団から跳ね起きた。男の顔から異常なほどの汗が流れる。
「限界だな」
あの日と同様、黒い雲が夜空を包み込む中で、男は呟いた。そして、彼は寝室にあるタンスから茶色い封筒を取り出した。その中には一枚の手紙と名刺が入っている。
大橋は手紙に目を通した後、覚悟を決めた。
平成二十四年九月五日。大橋陽一は警視庁のビルを見上げた。ここで罪を償う。そう覚悟を決めた彼は、一歩を踏み出した。すると、彼の前を清潔感溢れる短髪の男が通り過ぎる。
その男が警視庁の中に入っていくのを見て、彼が刑事であると直感的に思った大橋は、咄嗟に声を掛ける。
「すみません。刑事さんですか?」
そう問われ、刑事は後ろを振り向く。
「はい。そうですが……」
「良かった。逮捕してください。二十四年前、人を殺しました」
突然の告白に、その刑事、
二十四年前の事件の犯人が自首してきたという知らせは、警視庁を震撼させた。
刑事部長室の机に前には、サングラスが似合いそうな風貌の男、
「千間刑事部長。ご存じかと思いますが、二十四年前に人を殺したという自称殺人犯が自首してきました。木原刑事と神津警部補が事情を聞いています」
その報告を聞き、刑事部長は顎に手を触れた。
「二十四年前というと、昭和六十三年だな?」
刑事部長の問いかけに対して喜田参事官は首を縦に振る。
「はい。殺人罪の時効は十五年でしたが、平成十七年に施行された刑法改正案によって二十五年まで延びました。そして、一昨年施行された改正刑事訴訟法によって時効廃止」
「自称殺人犯が起こした事件は、六年前に時効となったということだ。平成十七年以前に時効を迎えた事件は、刑法改正案及び改正刑事訴訟法の対象外。このタイミングで自首してきても、警察は自称殺人犯を逮捕できない」
刑事部長がどうしたものかと唸っていた頃、取調室で木原刑事と低身長な体型に坊主頭の刑事、神津冬馬警部補は殺人犯と名乗る男と向き合った。最初に木原刑事は目の前に座る男に尋ねる。
「名前は?」
「大橋陽一。五十七歳。無職です。三か月前まで介護施設で働いていました」
大橋は丁寧に自分の経歴を刑事に話す。次に神津警部補は、大橋の顔を見た。
「二十四年前に人を殺したということだが、一体誰を殺した?」
「当時衆議院議員だった
「しかし、この事件は時効です」
「そんなことはありません!」
大橋は机を思い切り叩き、声を荒げるとズボンのポケットからパスポートを取り出す。
「これを見てください。見ての通り、二十年前から十一年前までの九年間、アメリカに移住していた。海外にいた期間、時効は停止するから本当に時効が成立するのは三年後。ウソだと思ったら調べてください」
そう言いながら大橋は、机の上にパスポートを置く。
「では、なぜ小松原さんを殺したのですか?」
木原刑事からの問いに、大橋は少しだけ躊躇う。数秒の沈黙の後、自首してきた男はハッキリと答える。
「……忘れました。二十四年も昔のことですからね。自首した理由は、呪縛から解放されたから。罪を償うのに時間は関係ないでしょう」
この取り調べの様子を、マジックミラー越しに一人の大柄な刑事、
一通りの取り調べが終わり、部下の刑事から報告を受けた合田警部は大野警部補を連れて、刑事部長室のドアを叩く。
室内には千間刑事部長と喜田参事官、月影管理官が今後のことを話し合っている。
「失礼します。千間刑事部長。自称殺人犯、大橋陽一に関する情報を報告する。彼が殺したのは、当時衆議院議員だった小松原正一。殺害方法や遺体の遺棄現場まで自供した」
合田警部の報告を聞き、千間刑事部長は眉間にしわを寄せる。
「小松原正一? 確か彼は二十四年前に急死したはずだが?」
「急死?」
予想外な答えを大野警部補が聞き返す。その後で、刑事部長が首を縦に振る。
「ああ。衆議院議員の小松原正一が急死したと当時は騒ぎになった。あんな悔しい思いをしたのは初めてのことだったよ」
そうして千間刑事部長は昔話を始めた。
昭和六十三年九月六日。当時警視庁の捜査一課長だった千間創は、朝のニュース番組でショックを受ける。
『ここでニュースが入ってきました。衆議院議員の小松原正一さんが、都内のホテルで急死しました。死因など詳しい情報は公表されていません』
寝耳に水な話だった。こんな事件があったなんて聞いたことがない。突然の知らせを受けた千間は、急いで刑事部長の元に向かい、直談判する。
「刑事部長。小松原正一が急死したとニュースで知ったが、事件性はなかったのですか?」
「急死で間違いない」
「誰が判断したのですか? 普通は警察が事件等を判断してマスコミ発表するはず。しかし、今回は突然マスコミが彼の死を発表しました。都内で発生した全ての事件を把握しなければならない捜査一課長である私も、知りませんでした」
刑事部長は真相を追及する捜査一課長を睨み付ける。
「これ以上の詮索は無用だ」
頑固な態度の刑事部長は、捜査一課長を突き放す。
マスコミに先走られるという屈辱を味わった千間は捜査もさせてもらえなかった。数日後、小松原正一の葬儀が静かに行われたという。
経緯を知った大野警部補は、右手を挙げる。
「もしも自称殺人犯の言っていることが本当だったらどうなりますか?」
「刑法第四十二条を忘れましたか?」
月影の指摘を受け、大野は復唱を始めた。
「刑法第四十二条。罪を犯した者が捜査機関に発覚する前に自首したときは、その刑を減軽することができる。千間刑事部長の話を聞く限り、刑法第四十二条が適応される可能性もあるということですね」
「おそらく自首扱いになるだろう。だとしたら、マスコミが騒がしくなるな」
そう言いながら刑事部長は腕を組んだ。その後で喜田参事官は疑問点を挙げた。
「彼の言っていることが事実だということを前提にすると、一つだけ疑問があります。なぜこのタイミングで、彼は自首をしてきたのでしょう?」
参事官の疑問に、合田警部も賛同する。
「黙秘していれば時効は成立していた。自首をしなければ完全犯罪だったのに、なぜ大橋は自首したんだ?」
刑事達の唸り声に対して、刑事部長は咳払いした。
「兎に角、遺体が見つからないと、何も始まらないだろう。被疑者の任意で家宅捜索だ」
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