キューピッド新陰流 恋の五寸釘

西紀貫之

第1話『恋の悩みはマリコにお任せ♪』


 榊原健太郎は下校途中、川沿いの高架下を歩く中、首筋にひやりとした気配を感じ立ち止まる。


 詰襟の第二ボタンまでをゆっくりと外しながら振り返ると、そこにはゆったりとした短衣に身を包んだキューピッドが立っていた。その佇立に微塵も力みがないのを見て取ると、知らず「ほう」と嘆息が漏れる。


「榊原健太郎だな。私の名はマリコ」

「先週、南高校の山岡をあやめたのは貴様だな?」


 キューピッド、マリコは頷く。


「恋する少女のたっての願い、聞き入れねば新陰流の名が廃るというもの」


 羽をたたみ、左足を一歩前に出すマリコ。その姿に闘争の気配を感じ、健太郎は鞄から出したブルマを顔にかぶり、腰の刀に手をかける。


「直心影流、榊原健太郎。誰に惚れられたか知らぬが、おいそれと恋にはおちぬぞ」

「音に聞く男谷道場の剣雄、侮ってはおらぬよ。しかしそのブルマは」

「盗んだ美少女のブルマこそ、剣境の奥に至る妙薬よ」


 マリコの左手に、五寸釘が握られる。その先がピタリと健太郎の心臓に向けられる。ハート型の釘頭を余らせぬように握りこんだそれは、三分の一ほど。それを見た健太郎は己が愛刀をかすかに揺らして失笑する。


「それが撫器か。キューピッドらしく弓矢でこそこそ狙い撃ちはせぬのか。そのような短い先っぽでこの打ちおろしが防げるか。秘剣兜割かぶとわりでゼウスのもとに送り返してくれよう」


 嘲笑わらいの部分から挑発である。南高の山岡は健太郎も認める達人、それが先週恋に落ちた。親友から聞いた討ち手は、暗器の類の使い手と聞いた。居合抜きか、はたまた手裏剣術か、わからない。山岡は抜き打ちを躱されたと同時に心臓を横合いからあやめられたのだ。


「しからば」


 健太郎は大上段に構え、じりじりと間合いを詰める。

 マリコの持つ五寸釘が、連れてじわりと上がりかける。


「雷刀、兜割か。直心影流、榊原健太郎。クピド新陰流マリコ、推して参る」


 クピドとは、キューピッドの古い呼び名である。

 仕掛けたのはマリコである。

 健太郎の間合いの外からズイと大きく右足を踏み込み、刀刃の間合いに身をさらす。表情に驚の色が浮かばせるや、瞬時転身、マリコの頭蓋に渾身の打ちおろしを放つ。


 ザッとマリコは左足を引くとこれを躱し、健太郎の芯が乗った刀身が跳ね上がるに任せて、己が右腕一本で彼の左肘をグイとばかりに押し上げる。


「なんと」


 その少女の体から考えられぬ強い押上げにたいを崩された健太郎は、思わずうめく。そしてマリコの左手に握られた釘の切っ先が、がら空きとなった己が左腋に突き込まれるのを見た。


「秘術、『受取うけとり』」


 ――見事!

 感嘆の声よりも先に、健太郎の体にピンク色の甘酸っぱい快感が走る。脳幹から背筋を通り丹田で爆発するその快楽に彼の脳髄は灼熱の恋に染め上げられた。

 マリコが半ばまで刺さった釘から手を放すと、その胴部に書かれた名前があらわになる。

 その名も『南条マサコ』。

 ピンクな頭でその名を見た健太郎は、その名前にピンときた。


「俺が盗んだブルマの持ち主か」

「せいやぁ!!」


 瞬間、渾身のクピド左正拳が炸裂した。

 釘頭に叩き込まれたそれは、容易く健太郎の心臓を貫く。


「げぅ!」


 ゼウスよご照覧あれ!

 マリコの拳が引き戻されると、連られるように健太郎も前のめりに膝から崩れ落ちる。


 残心。

 マリコは屈み込み健太郎がすでに恋に落ちていることを確認すると、ひとつ満足げにうなずく。


「何がきっかけで恋が始まるのかなど、わが父でも見通せぬ。恨むなら、ブルマを盗んだ己が欲を恨むがよい。――末永く幸せにな」


 翼を広げ、夕日へと飛び立つマリコ。


「あとふたり」


 恋の戦いに身を置く彼女に、休息のときはない。

 己が恋が成就する、そのときまで。

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