第7話
結局その後、美結とは言葉も交わさないままに、飲み残したコーヒーカップのような後味の悪さを覚えつつも、大学の前で別れた。雨もまだ止みそうになく、そのまま波留は雨宿りがてら研究室に顔を出すことにした。
そういえば、冬子はもう帰ったのだろうか。もしくは、何か調べに行っているのかもしれない。
大学の構内を歩いていると、何人かとすれ違う。皆傘を差していた。波留はと言えば、最早傘を差す意味がないほどびしょ濡れだ。そして、波留は意味のない行動が好きではなかった。
「こんちわー」
「あ、二見くん。今日は来たんだね……ってぐしょぐしょじゃないか」
「タオルか何かありますか?」
「とにかく入りなよ。ドアが開いたままだと、警報が鳴るんだ」
波留を出迎えたのは今井静樹だった。四回生だが、二つ年上らしい。留年したのか、あるいはそれ以外なのかは、聞いたことがないので分からない。
波留に小さめのタオルを投げてよこすと、彼は再びPCの画面に目を戻した。部屋には他に二、三人居たが、皆が一様にPCの画面とにらめっこしている。
「今日、死体を見たんです」波留は、椅子に掛けながら今井に話す。
「へぇ、それで?」
「それで、思ったんですけど」私はそこで言葉を区切った。「死体より、生きてる人間の方がよっぽど面倒ですね」
「馬鹿言ってる暇があるなら、手伝ってくれない?」
「あ、私、ゼミの資料を作らないといけないので……」
「嘘をつくな、嘘を。もう出来てたでしょ。共有したソース、ちょっと見直して。なんでか動かないらしい」
今井がそう言ったのと同時に波留のPCにファイル共有の通知が表示された。主に院生が取り組んでいるDNA鑑定の分析ソフトウェアのソースコードだ。なるほど、私は二次下請けといったところか。嫌々ながらもファイルを開いてみる。
「あぁもう、苦手なんですよ。プログラムは。他の人に頼んでくれません?」
「苦手? そりゃ初耳だなぁ」
皮肉を聞き流してコードを見る。実際彼の言う通り、プログラミング自体は苦手では無いし、むしろ得意な分野だ。しかし、今回のように、他人の書いたコードを手直しするのは嫌いだ。細かな書式だとか、変数の名前だとか、そういった細かな事が気になって仕方ないからである。大抵、こういった仕事が回ってきそうな時は、人に任せてしまう事にしている。しかし、今日は皆手一杯のようでそうもいかないらしい。
仕方ない。波留は諦めて作業に取りかかる事にした。そうすれば、先程の後味の悪さも多少は紛れるだろうか。
「他人に見せるコードにgoto文を使うなんて、まともな人間のすることじゃないですね」
「あぁ、それは同感」今井は白い顎を指で掻きながら言った。
しばらく、波留は黙って作業を進めていた。かなり無駄の多いコードで、直す箇所が多かったので、多少なりともイライラはしていたが。
肝心の関数部分は、よく分からない、というかさほどの興味が無いのでノータッチで済ませた。コメントには対立遺伝子とスタター比がどうのと書いてあったがはっきり言ってちんぷんかんぷんだ。妙にいじくって怒られでもしたら大変だろう。触らぬ神に祟りなし、という奴だ。
恐らく、ここが一番の問題なのだろう、という箇所にたどり着いた。精査していると、構文のミスに気が付いた。また何箇所か、手直しが必要だろう。
「静樹さん」
作業が一区切りついて、波留は目の前の今井に話しかける。静樹さん、というのは彼が指定した呼び名だ。
「なに?」
「身内、もしくは友達が死んだ事あります?」
「唐突だなぁ……。まぁ、あるよ。昔だけど」
「その時、どんな風に思いました?」
「そうだな……まだ子供の頃だったっていうのもあるだろうけど、何とも思わなかったような気がするね。というか、実感が湧かなかっただけかも。今思えば」
「うーん、あんまり参考にならないですね」
「そりゃ悪かったね。で、今日はなに? またあの朝霧さん、だっけ? 彼女とデート? 死体を見に?」
「スタンド・バイ・ミー」私は呟く。「今日のは良かった。綺麗だった」
椅子にもたれ掛かり、目を閉じた。椅子の骨が悲鳴を上げる。
「そういうところだと思うよ」
「え、何がですか?」
「君が人を傷つけちゃうの。自覚してないのかも知れないけど、二見くんも相当な変人だからね。それを分かったほうがいい」
「…………」
「死体が好き? 結構。監察医なんか天職だろうね。もしくはシリアルキラー?」
「昔、同じ事を言われました」
波留は少しだけ、笑いながら言った。窓を見ると、雨は止んだようだった。
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