第1話 佐藤誠司

第1話 La encarnación

「ここは・・・?」


 まず目に飛び込んだのは、見知らぬ部屋。見知らぬ書物や調度品が立ち並ぶ本棚。そして主の居ない書斎机。

 気が付いたときには、この薄暗い空間の中に立っていた。

 何時来たのかも、どうやって来たのかも、何故来たのかも一切が不明。まるでたった今この瞬間、この場で己が生まれたかのように錯覚してしまう、そんな不可解で異様な感覚に襲われていた。

 だが、そんな筈は無い。

 何故なら己の中には、それ以前からの記憶があったからだ。


 両親の顔、家族の顔。

 故郷の風景。少年の頃の思い出。

 故郷を離れ、上京した時の記憶。

 憧れの都会の大学に進学し、そこで新たな暮らしを始めたこと。

 そして新たな社会人として、働き始めこと。

 そして、そして・・・。


 そこで彼は頭を横に振り、追憶から現在へと帰還する。そして悟る。

 記憶がスッポリと欠落していた。

 今朝起きて会社へ向かう辺りの記憶から今現在己が立っているこの状況までの間の、己の行動と思考がまるで喪失していたのだ。

 故に彼は焦る。

 己がどうしてここへ来たのか。或いは己の意思に反してここへ連れてこられたのか。まるで何も判らない。

 決して出ることの無い堂々巡りの思考が、焦りの感情を徐々に恐怖へと変質させていく、その時だ。


「やあ、いらっしゃい。ようこそ僕の部屋へ。」


 そんな声が聞こえた。

 そしてこれもまた一瞬のことだった。気が付いた時には、誰もいなかった筈の書斎机に一人の人間がいつの間にか座っていた。


    ※


 唐突な現出に、背筋を冷たい感覚が駆け抜ける。だがそれでも、


「・・・これは一体何なのだ。」

 

 男は何とか疑問を紡ぎ出す。


「さっきも言った通り、ここは僕の書斎だよ。」


 机の向こう側に座るモノは、微笑みながらそう答えた。


「そんな事を聞いているんじゃないッ! お前は一体何者なんだ。それにどうして俺はここに居るんだッ!」


 男は躍起になって捲し立てる。目の前に座すモノの返答に、否、彼のその不可思議な表情にひどく不安な感情を掻き立てられた。

 爽やかで快活な笑みと、ドロドロと粘り付く様なニヤニヤ笑いが何の矛盾も無く共存した、優し気で怖気の走る笑顔だった。

 そしてそんな彼の顔を覗き込めば込む程、ソレと対照的に男の表情には不安と嫌悪が浮かび上がっていった。


「そうだね、取り敢えず僕のことは江戸川と呼んでほしい。今はそう名乗っているからね。」


 彼は奇怪な笑みを一切崩すことなく、語り掛ける。そして、


「それで、君が僕の部屋にやってきた理由なんだけど・・・。」


 少しの沈黙を挟んだ後、


「それは君が死んでしまったからだよ。」


 と、余りにも荒唐無稽で、そして余りにも受け入れがたいを口にした。


    ※


「俺が・・・、死んだ?」


 無意識のうちに、そんな言葉が漏れ出していた。余りにも受け入れがたい、いや受け入れたくない事実。だがそんな男の感情に構うことなく、


「そうだよ、覚えていないのかな? 君は死んだんだ。」


 彼の前に座る江戸川と名乗った男はアッサリと肯定した。


「なるほど、どうやらその時の記憶が抜け落ちてしまっているようだね。

 それならば、コレを読んでみると良い。」


 そう言うと江戸川は、机の上にあった数枚のメモ用紙を男へ向けて飛ばした。

 すると投げられた数枚の紙束はヒラリと宙を舞い、そのままスルリと男の手中へ綺麗に収まった。

 男は手にした紙へ目を落し、書かれた文字を読み始めた。

 その瞬間、奇妙な感覚が脳に走った。

 只文字を読んでるだけの筈なのに、その文字一つ一つが直接の脳内に刻み込まれていくような、ポッカリと穴の開いた伽藍洞の記憶に、次々とパズルのピースが寸分違わず組み合わさっていくような、そんな感覚だった。

 見る見るうちに復元されていく己の記憶。

 そして徐々に、己の身に起こった記憶が甦っていった。


 激務の日々。

 深夜遅くに家に帰り、そのまま寝床に倒れ込む。そして疲れの取れぬ身体のまま朝早くに目覚め、会社へと向かう。

 そんな気の休まる時を知らぬ毎日の繰り返し。

 日を重ねるごとに摩耗していく身体と精神。

 そして失われていく心と体の痛覚や感覚。

 そんな中、無意識の奥底にいつの間にか芽生えた一つの思い。それは毎日欠かさず感情と言う名の水が与えられ、すくすくと育っていく。

 成長した芽は心に根を張り巡らせ、精神を蝕み、ただ一つの思いを実らせ増幅させる。

 そして迎えたその日。

 いつものように早く目覚めた朝。

 いつものように降り立った駅の歩廊。

 いつものように目の前に見える電車の線路。

 だがその日は、ソレがひどく魅力的で蠱惑的に映った。

 たわわに実り、熟し切ったとある思い。抗い難い甘い果実の誘惑。

 ゆっくりと一歩。

 また一歩と、知らぬうちに前へと進み出る己の足。

 構内に流れる列車の到着を知らせるアナウンス。

 そして、そして。

 プッツリと、テレビの電源が落とされたかのように暗転した己の視界。


「そんな・・・ことって・・・。」


 そして男は総てを思い出した。


    ※


 男は顔を抑えて項垂れる。

 男は総てを思い出したのだ。


「どうして・・・。」


 そして男は力無く呟く。

 まだまだ議論の余地は有るが、ここが何処なのか、ここへ来る前に己の身に起こったことの疑問は溶けた。だがまだ謎は残っていた。


「どうして俺はここに来たんだ。そもそも俺はあの瞬間に死んだのだろうッ!

 ならどうして今もこうして俺はお前を見ている。思考している。そしてどうしてお前と話している。」


 そしてそもそもお前は何者なのか、と。

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