えみ「まったくやれやれだよ、お父さんは」

 丹湖門えみは会社を早退し、帰路についていた。

 電車通勤約三十分の道のり。電車に揺られながらスマホを眺めている。


「まったくやれやれだよ、お父さんは」


 スマホを手で弄びつつえみは苦笑する。

 異世界に居ても父は変わっていなかった。

 そのことを再確認して可笑しい気分になった。

 不安だらけの生活。目の前に自分を拒まないであろう美しい女性が居る。

 男なら手を出してしまうものではないだろうか。

――お母さんと私、どっちに遠慮してるんだろうね?

 えみが高校生になってからのことだろうか。

 ふとした拍子にえみは咲人が女性にモテることに気が付いた。

 初めは私のお父さんなら当然だ、などと思っていた。けどそれは自分が父に寄せる親密さよりも生臭いものだと知ると不快だった。そんな娘の気持ちを知ってか知らずか咲人は誰とも親密な関係を築きはしなかった。

 咲人は女泣かせなモラリストであり続けたのだ。

――いまの私、二十四歳の丹湖門えみはきっと受け入れられる。だって、お父さんの娘だもの。

 ならば、どんな形であれ父には自分の幸せを掴んで欲しい。力まずにそう思える。わりと極まったファザコンを自覚するえみも大人になれたのだろう。


「なら、言うべきことは決まったかな……」


 メ―ルで伝えるべきことは決まった。

――しかし、そうなると……順調にいくとアンさんが私の新しいお母さん?

 随分と天衣無縫てんいむほうな母親だなとクツクツと笑いが漏れる。

――あっ、いけない

 考え事に意識が集中していたせいか。声量も抑えず独りで笑っていた。

 気恥ずかしさで周囲を見回す。

――けど、こんな時間、人なんてほかに……うわぁ……‼

 ガラガラの電車内。

 どういう偶然か、目の前に大男が腰かけていた。

 電車に乗っていることに違和感を覚えるほどに仕立ての良さを感じさせる澄んだ藍色のスーツを着た壮年の白人男性がロングシートに腰かけている。そして、これまた不似合いなビニール袋をブラ下げている。


「ん……」


 バッチリと目が合ってしまう。青い瞳はかなり眼力である。

 えみが苦笑いを浮かべると偉丈夫は気にしてはいないとジェスチャーで示した。

 それから滑らかな日本語でえみに話しかけてきた。


「随分と、楽しそうに見えたが……いいことでもありましたか? お嬢さん」

「え、ええ……ちょっと、父のことを思い出していまして」


 昨今ではこんな風に話しかけてくる男性などは国籍問わず不審者扱いが普通だが、この男性の落ち着いた雰囲気はそんな疑念を抱かせない。それはカブトムシとゴキブリを見間違えるくらい目が節穴であると表明するようなものだ。


「お嬢さんはお父上を尊敬されているのですな」

「はい……? ええ、確かに自慢のお父さんですけど」


 それは結構なことです。いやはや、素晴らしい。

 そう言い静かに笑うと男は立ち上がった。

 すっと手に持ったビニール袋をまさぐると中から小さな器を取り出した。


「お嬢さん、よろしければコレを貰っていただけませんか?」

「えっ? でも……」

「なに、ナリは大きくともただの老人。若く素敵な女性との会話には心躍るものです。よろしければ年寄りの好意、受け取っていただけると大変うれしい。もちろん迷惑でなければ、ですが」


 輪をかけて不審者めいた行為だが、えみは不思議と信用しても良い気がした。


「はい。お受けします。あの、どうもありがとうございますっ」


 えみは差し出された器を受け取るとペコリと頭を下げる。

 大男がフッと笑うと同時に電車が停車し、ドアが開く。


「では、私はこれで。素敵なお嬢さんに素敵な日々を……」

「は、はい!」


 偉丈夫はサッと下車していった。


「はぁ~、不思議な人だなぁ、外人さんはあーゆーの普通、なのかな?」


 えみは脱力した。先ほどの老人と話している間、自然と背筋が伸びていたのだ。

――さすがに、お父さんでもあんなダンディズムはないよ……お父さんは紳士でキュートなタイプだし。

 丹湖門娘ファザコンは人心地ついてから手元を見る。偉丈夫からの贈り物は何なのか。


「……プリン?」


 後で調べたら、とても高いプリンだった。

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