妻の思い出、あの娘の瞳、ヘタレな私

「……参りましたね」


 一時間以上が経過した。陽は段々と傾きだし暑さも穏やかになってきた。

 しかし、咲人はこの場所から動けずにいる。

 巨木の枝、地上から百メートル以上の高所に咲人は取り残されている。

 腕時計を見る。異世界に来てもどういうわけか電波時計は正常に動作している。

 現在時刻は十四時三十一分だ。



 § §



「女性を呼び捨てにするのは苦手なんですよねぇ……」


 先ほどのアンとのやり取りを思い出す。

 娘をえみと呼ぶように、自分のことをアンと呼んで欲しい。

 結局咲人はそこまで踏み込めなかった。

 我ながら情けないと思うが、咲人としても思う所がある。

――由美さん。

 咲人とその妻由美には十一の歳の差がある。

 咲人が三十四歳、由美が二十三歳で結婚。翌々年にえみが生まれた。

 歳の離れた妻のことを咲人はさん付で呼んだ。

 快活で男勝りな彼女は初めはむず痒そうにしていたが「なんか、大事にされてる実感があって……いいね」と満更でもなさそうだった。

 そんなこともあって、咲人には例外えみを除いて女性を呼び捨てにする習慣がない。

 

「それに――」


 アンビエントを呼び捨てにしていいものだろうかと咲人は自問する。

 

「あの娘は危ういからな」


 これ以上親しくなることは彼女にとって毒になるのではないか。

 その懸念が咲人を悩ます。



 § §



 自分はアンビエントに特別好かれている。咲人はそれを理解している。

 それに子犬のように甘えたがる彼女のことを可愛らしくも感じている。

 けれどその裏側も咲人には見えている。


「愛情に飢えてるが故に、ですよね……」


 この世界に来たばかりの頃。一度だけ足を運んだエルフの里。

 そこでの周囲の反応と、首長である彼女の父親の態度。

 彼女は仲間からうとまれている。

 異世界からの来訪者である咲人を様々な面で援助し、護衛としてアンビエントを同行させてくれたエルフのおさ

 ありがたいと今でも思っている。

 だが前者は咲人とこれ以上関わらずに済ませるためで、後者は厄介払いだった。少なくとも咲人にはそう見えた。

 娘に対して出て行けとなじることはなかったが、戻ってきて良いとは一言も口にしなかった愛情の希薄さに同じ父親として怒りを覚えたものだ。

 そして、それはおそらく――

 アンビエントには彼女を受け止め愛情を注いでくれる相手がいなかった、ということになる。


「…………」


 言葉にしてしまえばそれだけだ。たった一言二言の事情。

 けれど彼女が幼いころからそれを積み重ねてきたと思うとなにかが捻じれる。


「甘えられる相手がいないのは、苦しい……ですよね」


 咲人の胸にも黒い穴がある。

 苦しみから逃れようとすべてを吸い込まんとする底のない穴。

 ある日突然、最愛の人を亡くした時に空いた黒い穴。

 自分はそのとき大人であったし、娘もいた。

 けれど、アンビエントは。

 そう思うのであればもっと踏み込んでしまえばいいのに。

 そんな気持ちも正直咲人のなかにはある。

 しかし、それは簡単なことではない。

 人は人に対して多くを望んでしまうから。

 ちょっと優しくしてハイ終わりでは済ますことは出来ない。

 そんなことで埋め合わせが出来るほどこの苦しみは軽くない。


「けれど、見捨てることも出来ない」


 アンビエントの瞳にたまに差し込む黒い影。

 暖かさへの渇望かつぼう。拒絶への恐れ。諦観ていかんと憎しみ。

 そういうドス黒い感情が彼女の瞳には見え隠れする。

 そしてそれはたぶん咲人自身にもいえることだ。


「だけどそうしてしまえば――」


 元の世界への帰還を諦めることになるだろう。

 上着の内ポケットからスマホを取り出す。えみからメールが届いていた。


「そんなこと、許されるのか……」


 咲人は独り苦悩する。

 誰もその呟きには応えない。

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