寒くてあたたかい部屋

ひょーじ

寒くてあたたかい部屋

「ふう、寒い……」

 ここ数日は、酷く寒い。梅雨寒、というやつだろう。

「こんな日は、あったかい鍋が食べたいなあ」

 何となく、そんなことを呟く。

 昨日は冷やし茶漬けだった。

 一昨日は冷奴だった。

 その前は冷やし中華だった。

 たまには外食して帰ろうかなあ……と思いながらも、気づくと家に帰り着いている。まあ、いいか。

「ただいまー」

「あ、おかえりー」

 迎えてくれたのは、一緒に住んでいる彼女だ。

 大学で出会って、二年。今年の春から同棲……というか、ルームメイトというか、そういうのを始めた。

「今日は寒いなぁ」

「外が?」

「うん。お前、普通に出て歩けるんじゃね?」

 言いながら、俺は上着の上からもう一枚上着を羽織る。

 エアコンでガンガンに冷やされている共用スペースで、彼女はせっせとノートパソコンのキーを叩いていた。タンクトップ一枚で、実に快適そうに。

 何でも、彼女は雪女が親戚にいるとかで、暖かい場所が苦手だ……という話は聞いていた。

 聞いてはいたが、猫をモフれば汗をかき、犬とじゃれればずぶ濡れになり、外を歩くときは冷却材を入れた上着を着て、部屋のエアコンは一年中最強冷。聞くと体感するでは大違いだ。

 彼女は人懐っこかったが、そんなわけで彼氏はずっといなかったと聞く。

 俺はといえば、一目惚れ。

 とにかく俺は君が好きだし、生活の気温差ごときで別れる気もさらさらない。そうがんばった結果、今はルームシェアタイプの部屋を借りて自室は分けている。共用スペースは彼女に合わせ、個室はそれぞれの好みに合わせる。多分、これがうまいやりかただろうと今は思っている。

 食事はいつも一緒にとりたいので、彼女に合わせて冷たいものが中心。

 笑わば笑え、惚れた弱みというヤツだ。

「今日の夕飯、冷しゃぶだよっ! あなた、お肉食べたいって言ってたじゃない?」

 温度はリクエストできなくても、食材はきっちりおさえてくる彼女。

 どんなに冷たくても、彼女の作る料理は絶品だ。いや、惚気でも何でもなく。冷製パスタに冷製スープ、冷やしラーメンからデザートまで、冷たい料理のバリエーションは冗談抜きで豊富だ。食事が冷たくてもついつい外食せずに家に帰るあたり、俺は胃袋をがっちりつかまれているのだ、多分。

 気を遣ってくれているのだろう、ご飯だけは、茶漬けやリゾットなんかを除けばいつでも炊きたて熱々だ。冷凍で保存するときも、厚手の手袋の上からビニール手袋をはめ、冷めないうちにラップで包んで冷凍してくれるから、レンチンご飯もいつでもうまい。

 立ってぴかぴかの米は、もうこれだけでご馳走だと思う。

 さっと湯がいた薄切りの豚肉を冷水で締め、浅葱(あさつき)を少々、ショウガを少々。

 醤油ベースのタレをつけて、熱々のご飯に乗せると脂がとろりと溶ける。

 室温のせいでご飯が冷めるのは早いが、口の中に入れるとこれまたとろりと肉の脂がほどけて何ともいえない。

 彼女は、自分のご飯がほどほどに冷めるのを待ちながら、がつがつと食べる俺をにこにこと見ている。

「いつも、本当においしそうに食べるよね。嬉しいな」

「だって、うまいもん」

 何気ない会話だけれど、俺は素直に彼女をほめる。ほめたいし、褒め称えたい。

 うるさいな、惚れてるんだってば。



 夕飯が終わって自室に戻る。エアコンのスイッチを入れ、室温を上げて一息つく。

 ペットボトルから電気ポットに水を入れ、インスタントコーヒーの粉をカップに入れる。

 沸いたお湯を注ぐと、芳香が部屋に広がった。

 ブラックのまま、すする。冷えた体に熱が染み渡る感触を、のんびりと楽しむ。至福の時間だ。

 と、とんとん、と扉がノックされた。彼女だ。

「ねえ、ちょっといい?」

「ん。何?」

 言いながら、ポットに手を掛ける。いつものことだ。

「アイスコーヒー作りたいから、お湯貸して?」

「はいはい」

 扉をちょっとだけ開けて、グラスを受け取る。コーヒーを溶かすのはいつも俺の役目だ。

 ちょっと注いで、グラスを回す。こげ茶の渦が、くるくるとグラスの底で踊る。

「はい」

「ありがと! ちょっと作ってくるね」

 ぱたぱたと軽い足音が遠ざかり、しばらくして氷がカラカラと鳴る音が戻ってきた。

 室温の関係で、ドア一枚を隔てて他愛のない話に花を咲かせる。

 氷を鳴らしながらころころと笑う彼女に、こちらも笑いながら相槌を打つ。

 本当は、この手の中のコーヒーも分け合えたらいいんだけれどなあ、と思うことはあるが無理はできない。

 まあ、夏になれば一緒に同じ部屋で向き合ってコーヒー飲んだりするのだが、今の季節はとりあえずがまんだ。彼女の体に良くないから。



 一晩経って、朝。朝食を作るのは俺の役目。今日は出汁巻き玉子を焼く。冷たい食事を作るのは不慣れだが、これだけは冷めても「おいしい」と彼女に言ってもらえる自信作だ。

 卵をほぐしてだしと合わせ、ざっと卵焼き器に流して泡を潰す。いい感じに卵色になってきたらくるくると手前に巻いて、手前から奥へ卵を滑らせる。空いたスペースに卵を流してまた巻いて。何度か繰り返して、ふわふわの厚いやつにちょっと焦げ目を付ける。

 簡単にインスタントの冷製スープを作って、よく冷ました玉子焼きに焼き海苔と醤油を添える。

「いただきまーす」

 ご飯をふうふう冷ましながら、彼女が嬉しそうに玉子をほおばる。

「美味そうに食うよなあ」

「だって、おいしいもん?」

 何気ない、朝の会話。

 何気ない、いつもの風景。

(こういう状況をありがたいと思うようになったのは、いつからだったかなあ)

 大学に進学して、家から離れて一人暮らしになって。

 彼女と出会って、二人暮らしになって。

 ああ、そうか。

 かーちゃん直伝の厚焼き玉子を、彼女が「おいしい」って言って笑ってくれたときからかもしれない。

……などとしんみり考えていたら、

「あ、ほらほら時間! おべんとこれね、早くいこっ!」

 急かされて家を出る羽目になった。



 なお、一応言っておくがかーちゃんは健在である。豪快な性格の割に、出し巻き玉子とかの『ちょっとしたコツ』が必要な料理を器用にこなす人だ。スマホも早々に適応して、器用に扱う。

 おかげでというか何と言うか、電話やLINEでやれちゃんと飯は食っいるかだの彼女とはうまくいっているかだのと口うるさく突っ込んでくる。

 特に、彼女が「おいしそうに食べる人」だと言ったら「ちゃんと何か作ってあげられるのか」と随分しつこく聞かれた。

 かーちゃん、人をもてなすのが好きだからなぁ……と思いつつ、厚焼き玉子は好評だよ、と答えておいた。

 今度、猫舌でもおいしい料理を教えてやるから休みの日に帰ってこいとか言われてしまった。

 彼女のためにそうしようか、玉子以外にもバリエーション増やしたいしな。



 彼女が作ってくれた昼食のサンドイッチを平らげ、講義を終えて今日も帰路につく。相変わらず肌寒い。

「ただいまー」

 家に入る。二枚目の上着を手に取ろうとして異変に気づいた。


 やけに部屋が暖かい……気がする。


 エアコンを見ると、ちゃんとかかっている。だが、肌に感じる気温は高い。何かがおかしい。

 キッチンで物音がする。まさか、火事か何かか!? 彼女は!?

 慌ててそっちに向かう。熱源は確実にキッチンのほうだ。肌に感じる気温が上がる。

 心臓の鼓動が跳ね上がった。

「ただいま! 何かあっ……」

「あ、おかえりー」

……全身ずぶ濡れの彼女が、にこやかに立っていた。タンクトップはおろか、履いているスラックスまでべったりと体に張り付いて、あまつさえ床に滴まで落ちている。

「どうしたの一体!?」

「うん、お鍋作ってた!」

 元気のいい返事が返ってきて、思わず脱力する。俺の心配をよそに、彼女はぐつぐつと煮え返る鍋を楽しそうにつついて具の位置を整えている。

「今日はチゲ鍋だよー。昨日今日と寒かったみたいだし」

「いやいやいや、それはいいけどお前どーしたのその格好!」

「あ、うん、ちょっと味見したら思ったよりあったまるレシピだったみたいで」

 ふー、あついあつい、と彼女は手で自分をあおぐ。指先から細かく汗の玉が散った。

 頭には髪の毛から滴が落ちないようにだろう、しっかりタオルが巻かれている。ひじからぽたぽたと汗が落ちるのを見て、正直鍋の前でそのまま溶けてしまうのではないかと真剣に思った。全身猫舌のクォーター雪女なんだから。

 換気扇は回っているが、動きが鈍い。いかんな、故障か。

「とりあえず、着替えてきてくれると俺は嬉しい」

 真顔で言う。

「あ、そうだね。風邪ひいちゃうしお鍋に汗が入っちゃうよねこれじゃ」

 あはは、と彼女は笑うが。

 そのプロポーションでその状態だと、美術サークルの連中が木炭とイーゼル持ってすっ飛んでくるから。目のやり場に困るので、早く着替えて欲しい……。



 彼女が着替えている間に、俺はあつあつの鍋を共用スペースに運ぶ。既に据えてあったカセットコンロにのせ、ごく弱火で火をつけた。エアコンの気温はこれ以上下げられないので、部屋の隅にあるルーバーのスイッチを入れる。

 食卓には、一膳分の器と刺身が置いてある。彼女の分は……と見ると、エアコンの風の真下の小さなテーブルに、ちんまりと刺身と冷ご飯が置いてあった。

 冷蔵庫をのぞくと、昨日冷しゃぶに使った豚肉が残っている。

 ちょっと考えて、小さな鍋に湯を沸かす。帯状にきれいに脂ののった肉を軽くしゃぶしゃぶして、桜色になったあたりで小鉢に盛り付けてよく冷ます。浅葱を少し、体を冷やす作用のある生ショウガを少し。

 彼女のテーブルにそれを並べていたら、彼女が戻ってきた。

「わー、何かご飯が豪華になってる!」

 彼女が、無邪気に喜ぶ。

「しゃぶしゃぶ、作ってくれたの!?」

「うん、なんかさ、鍋食べたら溶けそうじゃん、お前」

 やだなあもう、溶けないよー、と笑って、彼女は「いただきまーす」としゃぶしゃぶをほおばった。

「こっちの鍋、食べるか?」

「うん、少し食べたいな」

「また溶けないだろうな?」

「やだなぁ、そもそも溶けてないってばー」

 ころころと笑う彼女。あまり辛くなさそうなあたりを選んで小鉢に盛って渡す。

「ありがと」

 ふうふうしながら、彼女はえのきや豆腐をぱくつく。

「本当にうまそうに食べるよなあ……」

「だっておいしいもん、あなたと食べるごはん」

 彼女は、無邪気に笑った。

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