Scene 02

かわいい後輩

 




 そういえば、白昼夢を見たっけ。


 1時間ほどまえのこと。奏さんの二胡に起こしてもらう、直前のこと。


 いまいち、はっきりと憶えていない。湿気に曇る電車の車窓、そのぼんやりとしたまま流れていく景色を漠然と眺めていたかのような感じ。釈然とせず、腑に落ちず、でもあきらめるしか打つ手のない感じ。なにせ、現実と幻想の区別がつかなくなるほどの空想世界へと没入したのははじめてのこと。そうとうに倫力が磨り減っていた証拠なんだろうけれど、ともあれ、はじめてのことなのだから釈然としないのもうなずける。


「マルガレータ」


 海辺だったような気がする。避暑地を思わせる海辺だっただろうか。いや、みなとみらいの臨港パークによく似た雰囲気だったような気もする。自然から程近い漁港とは異なる、もっと硬質な、人工的な、パビリオンの水辺。


「フォン」


 女のひとがいたっけ。


 面立ちは、憶えていない。服装もたたずまいも憶えていない。どんな会話をしたのか、あるいは話さなかったのかも憶えていない。記憶の大半がぼんやりと曇っている。


 ただ、


「ヴァルデック」


 彼女の名前を憶えている。名乗ったのかどうかも記憶にないのに、名前だけははっきりと。


「なんだっけ?」


 Margaretha von Waldeck ──この名前、確か、どこかで見たことがある。


 知人や友人の名前ではない。著名人の名前だ。それも歴史上の人物。


「だれだっけ?」


 産方だったか、確か、この女性のことを調べたことがある。なんとなく気にかかり、図書館か、インターネットだかで調べたことが。


 でも、


「憶えてないんだよなぁ」


 調べた事実は鮮明に記憶しているのに、肝心の対象者をまるっきり憶えていない。本末転倒。


「まぁ、いいや」


 いいんだ。あとで調べなおせばいい。歴史上の人物なのだから、たぶん早々に蹴りはつくはず。


 いや、


「調べなおすことを忘れちゃったりして」


 そっちのほうがありえるか。


 まぁいいや。しょせんは白昼夢、しょせんは潜在意識の話なのだから。仮に日中の記憶が関係しているにせよ、そんなの本人にわかるわけもない。あくまでも、この世のどこかにいるのかも知れないジグムント先生の管轄。


 それより、


「変な感覚だったな」


 眠っている間も、私は二胡の音色を聴いていたはず。演奏の最初から聴いていたという確たる記憶がある。意識から遠いところで、ずっと。


 現実世界と寄り添っていたはずなのに、それと同時に、白昼夢を見ていた記憶まで残っている。まるで、かのよう。なんとも不思議な、量子力学な感覚。


「まぁ、ここも変わらないけど」


 この世のほうこそ、並行世界のようなものか。


 死ねば無になると教えこまれた。または天国や極楽浄土という観念を刷りこまれ、神や仏という象徴を叩きこまれた。しかも、あくまでも観念にすぎないとも囁かれ、あくまでも象徴にすぎないとも諭された。


 どれもが流言蜚語デマゴギーだった。


 決して0という意味の無になるわけではなく、ミュージアムに展示されてあるような天国も極楽浄土もなく、アニメ化されてあるような神も仏もいなかった。観念とは詭弁であり、象徴とは方便だった。どれもがペテンだった。


 ペテンだったせいで、死んで間もなくに虜囚霊と化してしまうルーサ人やローマ人は多いらしい。その数は日本人の比ではないらしい。なぜなら、産方の欧米人には敬虔な宗教心を持つ人が圧倒的に多いから。図らずもの言葉が証明されてしまったから。


 私の心底うちには、神も仏も存在しなかった。もしなかった。だから、こうしてパラレルワールドさながらの世界で無事に生活している。この世・あの世という並行世界を、キャパオーバーになりながら渡り歩いている。


「ここも似たようなモンか」


 白昼夢と、なんら変わりがないんだ。





     ☆





 ぶつぶつとつぶやきながら自転車を走らせる。いっぽう、フロントライトのモーターは唸り、段差を越えるたびにフリック式のベルがあえぐ。なんとも賑わしい主従関係。


 それでも、我が家から仙童フロントへとつづく道のりはまだ平坦なほう。緩やかな勾配の斜面は点在するものの、縁石などの障害物は見られず、階段も1箇所しかない。その階段も、お家を出て4分後にクリアした。


 大世界のを走る。ひさびさの自転車なのでスピード感がおぼつかない。ふと気づけば曲がり角で、はッと思う間もなく丁字路で、その都度にいちいち急ブレーキをかける。道を折れた矢先、スタチューのようにぼんやりと立ちつくしている人影と出会してヒヤリとすることも。


 彩央フロントには浮浪霊が多い……ような気もする。突っ立ったままでひとりごとを口にしている者、小さく蹲んで前後に揺れている者、大の字になって夜空を凝視している者──よく見かける。だからそのたびに私は、


「活動霊は繁華街を好むからそう見えるだけ」


 ぶつぶつとつぶやく。そうやって暗示をかけていないと、漠然とした不安感が襲ってくるから。私も、いつかああなってしまうのではないかと。


 と──そのときだった。


「おぁぁ! 空美さんだぁ!」

「ひええッ!」


 すぐ右手の闇から大声が飛んできた。低音部のない、まるでファルセットだけでできているかのようなエアリーな声。


 不意を討たれた私のハンドルは大きく左右へとヨレた。慌てて急ブレーキ。


 そこは、彩央走廊ツァイァンヅォウランへと突入する直前、ゲートに隣接する4階建のアパートメントの目前だった。


 内部階段が上下をつなぐ、コンクリート造の、ごくごく普通の集合住宅だ。各部屋に1窓ずつ、スライド式のガラス窓があてられ、さらに錆びた鉄製の格子で防犯警備が吊りこまれてある。この3階、向かって左の妻部屋が彼女の住処。


「意外と会えちゃうものなんですね意外や意外、大世界も意外と狭い狭い!」


 ブレーキの惰性ですっかり通りすぎてしまった私を、悪気のないリコーダーの早口が追いかけてくる。そして追いつくなり、


「で、で、いまから仙童ですか? 南蓮ですか? 天堂ティントン? 神羅シェンルォ? 一路イールー? 宝瓶花園バオピンガーデン? グレイテスト哈瓦那ハバナ? 小英格蘭リトルイングランド? 美羅東亰メトロトンジン? 雷郷レイシャン?……おぁぁ! 雷郷は違いますよね違った違ったあそこゴーストタウンでした!」


 盛大に捲し立てる。


「いや、今日は仙童に……」


「おぁぁ! やっぱり、やっぱりでしたやっぱりホントに仙童はよいところですよねいろいろな品物がいろいろとありますしね! しかもなんかいろいろとあの街って空美さんっぽくもあるんですよホントなんですよホントのことを言っています」


「……ありがと」


「ホントなんです」


 勇み足のように語尾を遮られ、さらに盛大な早口で捲し立てられた。


 感嘆符が独特だったり、ひとつの単語を何度も言いまわしたりと、なんだかいろいろと変わってる子。特に、私に憧れて紹介屋になった──という点がいちばん変わってる。珍妙というにふさわしい。


 彼女の名は、琴野飛鳥ことのあすか


「ちなみにアスカは南蓮が好きなんです南蓮! 南蓮もよいところですよね中野ブロードウェイの超拡大版みたいで!」


 顎の高さにまであげた両の拳を前後にシェイクしながら、嬉しそうに話す。頑張れ頑張れ!──体育系の部活動のマネージャーが部員を鼓舞するような独特の仕種で、トーク時には欠かさない、飛鳥ならではの癖だ。それから、


「南蓮って地下45階まであるらしいですよスゴくないですかっ!?」


 たまにピョンピョンと跳ねもする。


「もともと45階建の超高層マンションと40階建の超高層マンションだったんですって!? それを合体させて地下にすっぽり落としたのが南蓮で、でもアスカ、の意味がまったくもってわからないんですよ空美さんはご存知でしょうかアスカはまったくもってご存知ないです」


 かわいいんだけど、だいぶクセが強い。


 モノクロギンガムチェックの、オフショルダーネックブラウスを身につけている。パフスリーブデザインの7分袖ブラウス、胸もとにはフロントレースアップのアクセントが。その大胆に開けた網目からは、豊満なバストの谷間がコレデモカと主張──同性ながら目のやり場に困る。


 したには、カットオフ裾の藍色デニムスカートを穿き、黒いスカラップカットデザイン&コルクのハイウェッジサンダルを履いている。10㎝は優に越える厚底サンダルで、のっぽな私と比肩。


 ちゃんとオフショルダーを着熟しているし、お洒落だと思う。この手のブラウスを着たことがない私にはピンとこないんだけれど、あのカッコいい円蛇さまに「肩幅に困らぬあたしはオフショルの発明家を永久にゆるさぬ」とまさかの自虐をさせたほどなのだから、きっと飛鳥はお洒落な女の子なのだろう。肋骨が浮かびあがるほど痩せている我が身のを理解できているのだろう。


 なのに、デコルテの双肩と鎖骨と胸もと・ヘソ出しのウエスト・太もも・ふくらはぎ──どこも褐色だ。しかも、お店で焼いた不自然な褐色ではなく、生まれつきの地黒か、あるいは長い年月をかけてじっくりと焼けていったものだとわかる。違和感のないヘルシーな肌色。


 褐色の痩身と、同性の目を左右へと泳がせる巨大なバスト──釣りあいが取れていない。もしや2次元からの使者ではなかろうか。


「もともと大世界には地面がないからね。このコンクリートの道もアンテナのプレゼントだし。だからすっぽりと落とすことができる」


「おぁぁ、そうでしたそうでした! 大世界は、時空のゆがみ?……とかいう、ええと、もともと、あのぅ、なんにもない、うーんと、なんにもないところに、そう! もともと大世界ってなんにもないんですよホホホホホホホホホホ!」


 メトロノームの黒目でたどたどしくしゃべっていたかと思いきや、なにがツボにハマったのか、急にピョンピョンと飛び跳ねて笑いだす飛鳥。


 胸だけが妖艶に上下し、他は天真爛漫。


「ねぇ飛鳥。怖いからやめよう?」


「ホホホホホホホホホホなんにもわかってませんでした大世界のことホホホホホ!」


「大丈夫だから。大丈夫だから」


「話してて気づいたんですよアスカ思った以上にわかってなかったってことをホホホホホホホホ!」


 クセが強い。


 だけど、やっぱりかわいらしいんだ。天真爛漫で人懐っこい性格もさることながら、顔もかわいい。


 吊りあがり気味の眉毛・垂れ気味の巨大な瞳・低めの鼻梁・広めの鼻翼・上下ともに厚ぼったい紅唇・釣り針のように湾曲してあがっている口角──愛嬌満点の童顔。アジアンフェイスには違いないけれど、どことなし南国的な大らかさがある。スターフルーツやランブータンを口にしていても違和感がなさそう。


 ほのかに茶色がかる黒髪はツインテール。コテでゆる巻きにし、耳のしたのあたりでふわりと束ねている。額のまんなかで左右に分けられたバングスは顎に届くほど長いし、総じて大人びたしあがり。その童顔と相俟ってか、背伸びに夢中な中学生のような儚ささえも感じさせる。神秘的なんだ。


 ボヘミアンでオルタナティヴなのに、不思議とアカデミックでもある。だから、このクセの強い美少女と会うたびに、私の頭のなかに Nelly Furtado『Turn Off The Light』が──風と大地のフロウが香る。マジカルで、そしてリアル。


 ただ、


「まだまだでしたアスカ意外とまだまだ甘ちゃんでしたよホホホホホホホホホホ!」


「ねぇ飛鳥。その笑い方、やめよう?」


 産方の飛鳥にも高踏的な顔があった。国民的アイドルグループ『ゾディアーク少女』の1期生メンバーという、あまりにも特殊な顔が。




 

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