奇妙な関係 ~ 眠さん

 




 馥郁19號の1階──自転車を押しながら窮屈なエレベーターをおりると、最上階とも変わらない薄暗さに出迎えられた。まっ白なブルーライトの滴り落ちる、まるで廃病院のような長廊下に。


 左手前方に101号室の扉がある。さらに廊下の左方向へと視線を流せば、これとよく似た鉄扉が行儀よく、メーターボックスの扉をサンドイッチしながら並んでいる。しかし、いずれもが完全に閉ざされ、空き部屋なのかどうかさえ知れない。どれだけの住人で埋まっているのか、大家さんである円蛇さまに尋ねたこともあるけれど、いつもの真顔で、


『自惚れるなよ空美ごときが』


 なぜか罵られた。不動産ビジネスに手を出すとでも思ったのだろうか。なんにせよ、爾来、私はこのマンションの契約率に関心を持たないようにしている。


 実際、律さんと以外の住人を私は知らない。エレベーターで会ったことも、廊下ですれ違ったこともないんだ。いや、それはこのマンションにかぎったことではない。人口飽和状態の大世界のはずなのに、たびたび、私はそういう不可解な現象を体験する。老太フロントこそ春節の横浜中華街を凌ぐ賑わいを見せつづけているものの、しかしながら、幽体の総人口を考えればまったく足りていないとわかる。


 みんな、どこにいるんだろう?


 もちろん、答えはただひとつ──あの世へ出張している。あの世の各地で活動している。まめに働き、アンテナと交渉し、生体を観察し、ときには皮肉ったりしている。愉悦の笑みを浮かべながら『欲しがりさん』『ブロッケンJr.』『貪欲』などといった揶揄のフレーズを堪能している。




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★ 欲しがりさん


 アンテナのふりをするアパテナの俗称(『この世のルール ⑩ プレゼント』を参照)。

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★ ブロッケンJr.


 いわゆるパワースポットのことを、隠語で『蜃気楼しんきろう』と呼ぶ。そして、そういう場所に心酔している生体のことを、一部の幽体の間では、ブロッケン現象と某漫画にちなんで『ブロッケンJr.』と呼ぶ。で、どうして蜃気楼なのかといえば、そんな都合のよい霊験あらたかな場所なんて、あの世には存在しないから。人体や、あるいは運勢とやらに好影響をあたえるような神秘の場所なんて、じつはどこにも存在しない。しょせん場所は場所でしかなく、もしも得体の知れないパワーを感じたとしても、残念ながら、彼や彼女の勘違いであるといわざるをえない。なにしろが証言しているのだから、残念ながら覆りようのない真実なんだ。

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★ 貪欲

【 どんよく 】


 あくまでも偶然に(意図的にやるとヘタすれば逮捕される)、生体の撮影した画像や動画のなかに、思わず幽体が写 (映) りこんでしまうことがある。慟力のコンディション、シャッターを切るタイミング、撮影者との相性などなど、さまざまなの要素が原因となって、ついうっかり。それで、心霊写真だと震えあがる生体をよそに、ついうっかり写ってしまった幽体に向け、仲間が「おまえ貪欲だな」と嘲笑うことがある。

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 大世界に飽き足らず、あの世へと出張ってまでして自己顕示欲を満たしたがる幽体は意外と多い。とはいえ、アンテナでもない不特定多数の生体には気づかれないことなのだから、つまりは匿名にもほどがある。匿名希望の正義を笠に着て第三者を憫笑したがる一部のSNSユーザーよりもピエロなのかも知れない。


 自己肯定の、誤った姿なのかも知れない。


 私は、ああはなりたくない。ああいう自己肯定には奔りたくない。思いがけずもだれかに救われ、感謝と敬意のまなざしで自分を秤る──そういう自己肯定のほうがいい。そっちのほうが美しいと思う。デキル・デキナイはどうでもいい、として憧れる。


 エレベーターを出てすぐのフロアにたたずみ、しばし、奏さんや律さんとの関係を咀嚼する。穏やかで、円やかで、静かな、あの関係を。自分らしくいられる、あの奇妙な関係を。


 それから、のことを考えはじめる。考えはじめると同時に、私は右に向かった。


 かつて管理人室やボイラー室だったのだろう、いまは空き部屋であるらしい鉄扉を左手に見ながら前進。突きあたりで左折し、さっそくあらわれた観音扉を開ける。このさきがエントランスだ。


 重厚な扉をできるだけ慎重に開く。ところが、ぎぃぃぃぃ──どういう未練でベクトルにしがみつくのか、まるでむずかるような金切り声。いったん自転車を壁に預け、さらに慎重になった両手で半開放。ふたたび自転車を拾うとエントランスに突入。間もなく、ごんッ、ペダルが華々しく扉に激突。なぜ全開放しなかった私!?──電撃のような苛立ちが手足を走る。


 私がこうも慎重なのには、理由があった。


 風徐の効いている8畳間ほどのエントランス。インテリアや観葉植物などのオブジェはいっさい配されておらず、蒼白の蛍光灯と、管理人室からつづいているのだろう監視用の小窓、どれも破れかけていて解読不可能なチラシがコンクリートの壁に散らされてあるのみ。あとはなんにもなく、あくまでも通用口という基礎的な役目をはたすにとどまっている。


 ダストや黒カビに煤けて退廃のきわまっているエントランスに、しかし、この時間帯でなくては見られない異質な人影があった。


 小窓のある壁の際、その床に折り畳み式の簡易ベッドを敷き、横たわっている男がいる。例えばキャンプに用いられるようなレジャーベッドで、藍色の表装と乳白色の骨組みでできている簡素なもの。このうえに、観相30代前半の男がどっしりと仰臥している。両手を結わえて枕にし、長い脚を組んで完全にリラックスしている。


 異質な光景。


 燦々と陽光の照りつけるハバナの郊外、瀟灑なアパートの軒下であれば絵になる光景なのかも知れない。ところが、太陽も月も星も瞬かない、ここは永遠の闇に支配されている大世界なんだ。おのずとブルーな精神状態に陥っていて然るべき煩悩的な環境において、彼のリゾート気分たるや異質としかいいようがない。


 ファッションも異質。


 テラテラとしたサテン生地のシャツをまとっている。ミカン色を基調とするピーコックカラーのキャンバスに、ペイズリー柄の賑々しく描かれてあるサイケなシャツ。そのしたには、大らかな皺の刻まれる、だぼだぼのタイパンツを穿いている。ほのかに赤みがかったブラウンのパンツで、膝から切りっ放しの裾まで染め抜きのエスニック柄が花開く。さらには茶色い鼻緒のビーチサンダルを履き、これにてヒッピーファッションの完成。


 じっくりと陽にさらして色落ちさせたのだろう黄砂の髪はドレッド。しかも年季が入っている。延々と揉みほぐしつづけたティッシュのコヨリのようなシャビーさを匂わせながら、大雑把に肩までおりている。たぶん、ベネフィットによって継承された髪型なのだろう。いかなるベテラン髪結屋とて、ここまで年季の入ったドレッドは完全再現できないのだとか。


 色んな意味で異質なひとだ。だってレイバンのサングラスをかけている。闇黒に支配されている大世界にはまったく必要のないアイテムなのに。なのに、これが不思議と似合っている。サイケなファッションもさることながら、その彫りの深い人相が強引に似合わせているのだろう。目もとこそうかがい知れないけれど、鼻梁は高く、大きく、唇は広く、厚ぼったく、人中から顎にかかる無精髭は大胆不敵で──これら南米系のパーツが小麦色の肌のうえでやすやすと羽根を伸ばしている。不健康そうに痩せているチークさえ、きっとヒッピーの世界においてはの証なのではなかろうか。


 正午前──この時間帯になると、彼はどこからともなく痩身をあらわし、エントランスの壁際にレジャーベッドを敷き、のんべんだらりと眠り、やがていつの間にやら消えている。なんのために眠るのか、重要な学術的意図があるのか、ただの惰眠か、でも私には知りようもない。やっぱり、彼に対しても、私は追求の触手を伸ばさない。


 ブルーグラスやカントリーミュージック、それともレゲエが似合いそうかと思いきや、意外と Benny Moré『Cómo Fue』がフィットする男。


 ねむさん。


 こうしてルーティンのようにっているから、私のほうで勝手に『眠さん』と名づけた。勝手に名づけ、勝手に心のなかで呼んでいる。


 日本人……だとは思う。南米人との混血である可能性は否めないが、彼の顔貌のなかに、わずかに日本的なアイデンティティを感じるんだ。生粋のラスタマンとは趣の異なる、日本人特有の慎みが漂っている。そう感じる。


 自転車とともに、忍び足で眠さんの脇を通過。幽体の眠りは足湯ほどに浅い、だから、起こしてしまわないよう細心の注意を払いながら。


 ところが、


「……ういっス」


 不意に、彼のほうから挨拶が投げかけられた。ほとんど吐息だけでできているような挨拶。


 なので、


「おはようございます」


 私も、吐息で挨拶。


 すると、


「悪ぃな」


 ぼそり、微笑むように謝るので、


「いえ」


 私はおもむろに足を止めた。


 観音扉の軋む音に自転車と扉のぶつかる音──せいぜい意識のボリュームがさがる程度で、完全には眠ることのできない幽体が、まさかこれらのノイズで起きないわけがない。本来ならば、謝罪しないといけないのは私のほうなんだ。なのに、謝るのは常に眠さんのほう。なんぞかんぞと音を立ててはいちいちヒヤヒヤするポンコツの私を、いつも眠さんは「悪ぃな」と気づかってくれる。気をつかわせて悪ぃな──と。


 でも、じつはヒヤヒヤすることで、私はこのやり取りを気に入っていたりする。もちろん、わざと賑やかしているわけではない。それは私の美意識に反する。音が立つのはあくまでも偶発的なものでなくてはならない。まぁ、どのみち、このエントランスは静寂をキープする難易度がとても高いんだけど。いずれにせよ、ついつい立ててしまう神経質なノイズを、しかし、慎んで許容ゆるしてくれる彼の器の大きさが嬉しい。それに、以心伝心のような心地を味わえるし、一期一会のような心地も味わえるしで、この程度のキャッチボールのなかに付かず離れずの理想的な関係性が凝縮されているようにも感じるんだ。心地よく、面白く、美しいと思えるんだ。


 だから、


「気に入ってます」


 エントランスとアプローチとを連結する鉄扉を直視しながら、私は万感の想いを吐露した。ちなみに、この台詞もいつもどおり。


 ひと呼吸を置いて前進を再開。そして、大世界への扉に手をかけようとする、ちょうどそのとき、


「……俺もだ」


 背後から、ふたたびの微笑み。


 なにせインドアな私のこと、欠かさない日課というわけではないけれど、でも、いつもどおりのやり取り。一言一句と違わないやり取り。なのに、1度として飽きたことのないやり取り。


 太陽の存在しない大世界に、私は、燦々と照りつける太陽を垣間見ている。普遍的なまばゆさを確かめている。思わず目を細めてしまうような、ナチュラルで尊い鮮度を噛みしめている。


 そう、飽きる道理がないんだ。


 こんな場所で眠さんが眠ろうとすること、私は責めもしないし咎めもしない。逆に、彼の磊落なひととなりを羨ましいと思う。磊落であると同時、気づかわれることに感謝さえもできるスタンスを面白いと思う。ユニークで魅力的だと思う。


『Unique』


 その語源はラテン語の「un- / unit-」──「ひとつ (のもの)」。そしてそれらが重なってひとつになれば「Union」、さらにすべてがひとつの宇宙となって「Universe」。


『ユニークって意味だよ?』


 小夜ちゃんの言うとおりだ。壮大で、無二で、かけがえない。


 このやり取りを重ねるほどに心の宇宙が拡がっていく。になっていく。ますますまばゆくなっていく。だから、孤独ひとりなんて怖くないし、飽きるわけもないんだ。


 1年ほどまえか、はじめて眠さんと会ったときには、確かにびっくりした。起こしたら絡まれそうで、慎重になった。足音がうるさくてヒヤヒヤした。なのに、逆に「悪ぃな」と謝られ、どうしてよいものかと狼狽えた。でも、だんだん気づかわれることが嬉しくなり、


『いえ』


 このひと言を口にできるようになり、


『気に入ってます』


 万感の想いを吐露できるようになり、


『俺もだ』


 美しい言葉がかえってくるようになった。


 処世術をなくしてはコミュニケーションの成り立たない面接的な現代社会にあって、以心伝心と一期一会──この両立は貴重だ。面映ゆいほどにまばゆい。


 こんなやり取りを、私は望んでいたのかも。


 産方のころから、ずっと、ずっと、ずっと。


 死んで、はじめて叶った。


 誤って自殺してしまった自分を、私は、喜びもしなければ哀れみもしない。愉悦もなく懺悔もない。死んだ事実を事実と受け止めるばかりで、情緒も感傷も湧かない。死にまつわるあらゆるセンチメンタルが、もしや7割となってリセットされてしまったのかも知れない。


 でも、僥倖はあった。あったんだ。


 眠さんからもらったこの幸せを──このを、これからも味わいたい。ポンコツな私のことだ、どうせまた鬱いで寝込む日もあるだろうけれど、めぐりあいに感謝し、ちゃんと肖れるように頑張ろう。


 うん。頑張ろう。


 ひとつ、胸一杯の敬意に深くうなずく。そうして、私はアプローチへと通じる扉を滑らかに開けた。




 

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