長い1日の終わり
それからも、しばし私は、彼女の消えた玄関のほうへと頭をふりかえらせているばかりだった。万里さんもまた、ふんぞりかえった姿勢のまま微動だにできずにいる。
不穏なほど静かな室内。シーリングファンのウィスパーな回転音が、まるでディーゼル車のアイドリングのようにうるさく感じる。私の理想とする静けさとは明らかにカテゴリーが違う。
「なんか」
こらえきれなくなったのか、ようやく万里さんが低い声でつぶやいた。
「今日は絶好調だな。テト」
釣られて、
「めずらしいことなんですか?」
私もようやく二の句を告げる。顔をもとの方角へと戻して尋ねると、
「あそこまで乙女なテトははじめてだよ」
「なにがあったんでしょう?」
「さぁね」
捨てるように言い、万里さんは左手で髪をかきあげた。三つ編みと三つ編みの隙間を白熱灯の光が疾走。
「たださ、空美ん家に行こうって提案したのはテトなんだよなぁ」
「そうなんですか?」
「夕方ぐらいにイルマ姉さんのとこでばったり会って、一緒に帰ることになって」
ひとまずそこで説明を区切り、身体を起こしてまえのめりの姿勢に。ただでさえ力みのある双眸に集中力が加わり、説得力になる。
「高田馬場で、
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★ ホーネット
【 Haunet 】
日本全国におよそ8000箇所、東京都内だけでもおよそ1600箇所、大世界にはおよそ2400箇所と、幽体専用のインターネットサービスの筐体が設置されてある。正式名称は幽協の下請企業の社名を取って『
「幽霊があらわれる」という意味の「Haunt」に、インターネットの「Net」をかけて『Haunet』。
この筐体、外見は銀行や郵便局のATMに似ている。それが複数台と並び、場所によっては自動販売機のようにぽつんと設置されてあることも。
幽協に申請することで得られるIDカード──俗称『イド』を機体へと挿入することでインターネットを閲覧可能。なかには、メールはもちろん、さまざまなホームページやオークションサイトなど、あの世と同様のデータベースが構築されてある。ただし、メディア自体の質が悪く、幽協の許可を得ている公式サイト以外、ホットラインの精度は著しく低い。つながらないこともしばしば。
ちなみに、アドレスにメールが届くとイドの着信音が鳴る。鳴って、着信ランプがともるだけ。あくまでもIDカードにすぎず、スマートフォンみたいにはできていない。わざわざホーネットまで確認しに行かなくてはならず、わずらわしいことこのうえない。
それと『報告屋』とは、幽協直轄のサイト運営部署のこと。仲買屋や言伝屋などの個人的な達成状況をギルドごとに随時更新している。これは紹介屋も例外でない。所属ギルドのパスワードを入力すれば、だれがどういう内容の仕事に成功し、失敗したのかも確認できる。裏をかえせば、個人情報保護の倫理観はかなり低いといえるだろう。
だから、私はあまり確認しない。正しくいえば「確認したくない」だけど。
ここ馥郁19號にも、1基だけ、1階廊下の奥にホーネットが立ちつくしている。だけど、今日はイドが無反応だったので寄らなかった。憂き目にあったというのに、まだだれからもメールがきていない。それが不気味でならない。
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「空美、なんかヤった?」
「え!?」
ヤったといえばヤった。ヤれなかったといえばヤれなかった。いずれにしても心あたりがありすぎるので焦る。
「なんで、ですか?」
「だって、あの仕事の虫がさぁ、どこかに遊びに行こうだなんて言うわけないじゃん」
断言し、長い脚を組み換える万里さん。
「仕事でしくじって落ちこんでるから遊んで気分転換──ってタマでもないし」
それはない。そもそもテトさんは失敗しない。
「となると、必然的に空美になるんだよねぇ」
なるほど、今日、私は、いままでの紹介屋業務のなかで1~2位を争うほどの失敗をした──
もちろん、覚醒霊との初対面だったのだから、なにもできなくて当然。だいたい、九十九さんが曰く、覚醒霊はベテラン紹介屋であっても対処ができないそうだし。あのテトさんでさえも無理なことなのだそうだし。
なるほど、今日、私は、ごくごく当然の失敗をした。あまりにも大きな心の傷をこさえながら。
でも、じゃあ、それを?
「空美がなにかをヤらかして、それで、おそらくは落ちこんでるだろうからテトは……」
私を励まそうと?
「……あー、いや、それはないか」
どうやら私の失敗を知らないらしいアナログ志向の万里さん、鋭い顎を左の親指と人さし指で挟み、玄関の扉を睨んだまま、
「同業者を励ますなんて、テトがするわけない」
ぼそりとつぶやいた。
私も同感だった。自分で蒔いた種は自分で刈り取る──これがテトさんの基本的なスタンスだと思うんだ。いみじくも、みずからの仕事に対する異様なまでの執着心が如実に物語ってる。
同業者に塩を送らないひと。助言はするが助力はしないひと。決定的な距離を置くひと。成功しようが失敗しようが常に平等に向きあうひと。バステトという女性は、そういうひとなんだ。
「そういえば」
そこでまた言葉を切ると、万里さんは艶っぽい背伸びをし、弛緩の勢いでベンチに横たわった。仰向けになり、両手の指を結わえて枕にし、脚をクロスしてからつづける。
「幽協がしつこいって言ってたな」
「しつこい? テトさんにですか?」
「そうそうそうそう。なんか、お偉いさんにまで声をかけられたって」
「青田買い?」
「どうだろ。幽協の考えてることはわかんない」
ごく一部の職員以外、見たことも会ったこともない私には、なおさらにわからない。
「組合長が代わってからは、余計にだ」
「
およそ3年前、私が幽体になる直前のころに実施されたという、幽協上層部の刷新劇。聞くには、前代未聞の『部長連続失踪事件』が発生し、このままでは大世界が混乱するからと、ベテランの職員を部長職に暫定配置することで致命傷を防いだのだそう。しかし、依然として連続失踪事件は未解決のまま、いつの間にやら臨時の組合長までもが正式ポジションとして君臨している始末。この組合長こそ、失踪した前組合長の秘書官をやっていた『忌部雨雀』という男。
むろん、彼と会ったことはない。その姿を拝見したこともほとんどない。質の悪いネット画像をちらと見た程度。
ちなみに、幽協上層部の連続失踪事件を、俗に『
「でも、幽協の偉いひとが一介の紹介屋をスカウトするなんてこと、あるんですか?」
「なくはないんじゃない? テトは優等生だし」
「
「さぁね」
紹介屋歴14年にして成功率98%弱──よくよく考えてみればありえない数字だ。私にはもう永遠に手の届かない天文学的な確率なのだろう。確かに、わずか2%でも失敗は失敗という逆説を安定剤にしてたこともあるけれど、でも、それもそろそろ陰りつつある。
テトさんを追いかけようと志したことは1度もない。だって、紹介屋をしている現状がいまだに信じられないぐらいなのだから。でも、それでも、彼女が身近にいてくれることがせめてもの救いだと実感している。心強いし、鼻も高いし、しかも、彼女のおかげで活動霊をしていられるという恩がある。
「さみしい?」
こちらへと顔を向け、目を細めて意地悪そうに微笑む万里さん。
「テトが
少しだけ図星だったみたい。だって、彼女の質問に上手にこたえられなかった。
それから、10分ほどしてテトさんは戻った。いったん部屋を横断し、ベッドのそば、天井から吊るされる止まり木のうえで太々しく丸まっているジゼルを撫でにいくも、愛想のない彼女をすぐに見限ってもとの位置へ、なにごともなかったかのように金木犀の流通ルートを万里さんに尋ねた。こうして、ふたたびテトさんが乙女な姿を見せてくれることは、もうなかった。
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