乙女猫
白か黒かに縛られず、いろんなものを捨て、いろんなものを守っているうちに、万里さんはこの世へとやってきた。そして、苗字だけを変え、持ちまえの剛毅なバイタリティで、ひっそりとはいえない日々を送っている。
現在、合年37歳。
「小夜は男が放っとかないタイプだな」
敏腕の仲買屋として大世界とあの世を飛びまわっている。それだけじゃない、
「あの子、カレシ、いんの?」
ベンチにふんぞりかえったまま、顔をこちらに傾けて問う万里さん。剛毅で大雑把な女性だけに、他意はないとわかる。
「そういう話は聞いたことがないです」
「ふうん。モテそうだけどな」
「私もそう思います」
すると、
「小夜ちゃんは遠距離恋愛でも平気そう」
明らかに声のトーンをあげ、意気揚々とテトさんが参加してきた。
……イヤな予感。
「平気でマイペースな恋ができそう」
「そう、です、ね」
いちおう間の手を入れてはみたものの、身体というのは正直者だ、自然、私の視線は対面の万里さんを向いていた。
ポーカーフェイスなりに、その美貌にかすかな困惑の色がうかがえる。なにやら思案している。
「小夜ちゃんは、そんな感じがする」
そういえば、まえに万里さんが言っていた。
『テトは色恋に疎いからなぁ』
そして、こうも。
『興味津々なクセに』
興味津々!?──驚きを隠せなかった。なにはともあれ、耳に入れたいインフォメーションではなかった。
「いいわよねぇ」
楽しげにうなずきながら両肩をすくめるテトさん。
「でも、あたしだったら……」
ゆったりと旋回する木目のシーリングファンを仰ぎ、キラキラと瞳を輝かせる。と同時に、私は耳をふさぎたくなった。発作的な衝動だった。
「あたしだったら、離れられないかも」
ふさげばよかった。
必然、万里さんと視線があう。彼女のポーカーフェイスもいっそうに固まってる。
「鬱陶しいかな、こんな女」
せめて疑問符を足してほしかった。ぼそりとひとりごちられても、私にはなんにも言えない。
「いいんじゃない? 相手にもよるし」
かすかな困惑の口角で万里さんが諭せば、
「えぇぇ、そんなひと、いるかなぁ?」
くねくねしながらうつむいてしまった。
恋愛の話になると、とたん、テトさんはどこかに行ってしまう。平素のクリスタルな風情は完全に失われ、俗にいう「乙女」へと変貌してしまう。そして、そんな先輩を、私は見ていられなくなる。
残念ながら、興味津々という話は真実らしい。
『テトは男性経験がないからさぁ』
入間梨花の弁である。
『かわいい。抱きしめたくなっちゃう』
浦賀小夜子の弁である。
『萌えるねぇ。ぎゅんッとくるねぇ』
殯オチバの弁である。
『うーん……』
望月空美の弁である。由里万里の弁でもある。
たぶん性格的には逆なのだろう万里さんが、私の胸のうちで妙にフィットするのがこんなとき。
「空美は?」
「ざえッ!?」
大先輩に向かって素頓狂な奇声が出た。心臓がドキドキするような緊張感。勝手に目が泳ぐ。
「な、なん、ですか?」
「空美は、くっついていたいタイプ?」
「く、つ、たい、プ?」
私とは対照的に、さらに瞳を輝かせて大きくうなずくテトさん。
「好きなひととはくっついてたい?」
その乙女な質問に、考えるよりもさきに、ふたたび万里さんの顔色をうかがっていた。いつもならば一方的に話すばかりのテトさんが、はじめてこの手の話題を私に振ったんだ。ゆえに、条件反射で助け船を求めてしまったらしい。とはいえ、百戦錬磨の万里さんとて夢想だにしていなかった質問らしく、力みのある瞳を左右に往復させるのみ。
「いや、あー、んー」
やむなく自力で考えてみる。でも、用意していなかったことなのでなんにも出てこない。回顧する労力にさえもたどり着かない。むろん、
「どう、なんでしょう、ね」
恋愛経験のない私にとって回顧ほどの無意味な作業もない。いま、恋をしているひとがいるわけでもないので、参考とすべき青写真もない。
「ええと、私は、どちらかといえば、近すぎず、遠すぎない距離を、よい距離感を、ですね、あの、置いていたいタイプ……かと」
自己分析とはいえない詭弁の類を並べた。妥当な線を。定番を。参考記録を。
すると、急に、テトさんの瞳が夢見る女の子のように円やかに。そして、紅色のミトン手袋で左の猫耳をくるくるとコヨリにしはじめる。他人には絶対に見せない癖。愉快な気分である証拠。
「へえぇ、距離かぁ……あたしは置けないわねぇ」
ふたたび両肩をすくめて、小柄な身体を小さく縮こまらせる。あげく、絶句の静寂に「うふ」という戦慄の声まで添える始末。
今日はどうしたんだテトさん。
と、ちょうどそのとき、ふぉん──彼女の左胸のあたりから風笛のような短音がした。メールの着信を報せる音だ。
だれだろう?──平たい胸に手をあてながら立ちあがるテトさん、
「ちょっとホーネットを見てくるわ」
そう残して外へと出ていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます