すでに生きていない者の声

 




「……合わない」


 ズバリ、イヤな予感は的中した。


 原宿から八王子駅までの必要運賃は、いちばん便利なルートのもので640円。対する所持金は、千円札が2枚、500円玉が1枚、100円玉が3枚、50円玉が2枚、10円玉が2枚、1円玉が3枚で、あとは大阪万博の記念硬貨が2枚と、どこのゲームセンターのものかも定かではないシルバーメダルが3枚の、計2923と余円。


 とてもではないが、きっちりとは支払えない。合わない。ぜんぜん足りない。10円玉が、2枚も。


「サボもないし」


 原宿にはない。新宿にはあるけれど、あるのは西武新宿駅の構内だし。渋谷はといえば、なぜか東急ハンズ渋谷店の目のまえの路地だし。サボって変なところにしかないんだ。それに、たとえ目の前にあったとしても足しになるとはかぎらない。等価の決定権はサボにある。


 案の定、心の平和は保たれない。いきなり出鼻を挫かれ、券売機エリアの片すみで項垂れるばかり。


 歩いて行けるものならば歩いて行きたい。でも、電車を使わなくては今度こそ遅刻してしまうとのこと。だいたい、右も左もわからないグリーンを野放しにしたあげく、勝手に動かれでもしたら捜索する手間まで増えてしまう。それこそ、ミイラ取りがミイラになってしまう。


 占いの館から締めだされた瞬間をもって、すでにファーストミッションは動きはじめている。私にあたえられた猶予は、わずか3日間。


 ため息がぼとぼとと落ちる。


 やむなく、まわれ右。前方を歩く女子中学生の華奢な背中に張りつき、改札を抜ける。なのに、警報器は鳴らない。数千人規模のだれも、駅員も、この凶悪な私を咎めようとしない。もちろん、お金を支払おうが支払うまいが手ぶらで改札を抜けていることには代わりない。そんなことはわかってる。でも、結果的にキセルとなってしまい、胸がどろんと澱んだ。


 老若男女、有象無象の手足を透過Overしながら、足が棒のようになる倦怠感に襲われながら、髪の毛のリペルに怯えながら、いちいち発作のように避けながら、悄然と、外回り線のホームへとつづくエスカレーターをおりる。物理的な疲労なんて感じるわけもないのに、まるで貧血みたいに疲れてる。


 ようよう、カルネアデスの板のうえへ。


 すると、自然と、私の視線は対岸のホーム下へと注がれていた。内回り線のホーム、左右から見てちょうど中央のあたり、その足もとに設えられてある退避スペースへと。


 駅職員の姿もない、今日も安全であると約束している無人のスペースに、体操座りを崩したような姿勢で座りこむ、ひとりの男の姿がある。


 私が幽体となった3年前、すでに彼はあそこにいた。単にホームから転落したのであれば線路上にいるはずで、ということは、もしやリペルしてフッ飛ばされたのだろうか?──経緯なんて知りようもないけれど、なんだか気になるものだからついつい視線を注いでしまう。


 オレンジ系色のアロハシャツ・薄いピンク色のハーフパンツ・モスグリーンのビーチサンダル・首にはシルバーネックレス・ウェービーな茶髪・無精髭・小麦色の肌──遠目からでもよくわかる、茅ケ崎のサーフショップで働いていそうな男。観相かんそうは30代前半ぐらいだろうか、まだ若々しい。なのに、せっかくのボクサー体型を小さく畳み、いわゆる死んだ魚のような目で、北参道方面の雑居ビル群を眺めるでもなく眺めている。


 Red Hot Chili Peppers『Around The World』がよく似合う、笑えば陽気そうだとイメージさせる印象。なのに、目にも明らかに生気がない。海の匂いが、車の匂いが、女の匂いが、金の匂いが、彼の半生を彩っていただろう生命いのちの匂いが、跡形もなく消え去っている。


 こうして、彼のように虜囚霊と化してしまった者を見るにつけ、否応なくこの世の無情を噛みしめてしまう。


 だって、セミの抜け殻とは違うんだ。彼らには、みなぎる未来なんて待ってはいないんだ。懸命に泣きわめくことになるだろうエネルギーに満ち足りる未来なんて、彼らには象徴されていないんだ。


 あの少女もそう。


『もうおまえ……死ねよッ!』


 名を、吉瀬きちせ翔子しょうこという。


 節年14歳。きっと、いや、間違いなく、まだまだこれからのあの世の人生だった。ところが、彼女の未来は無惨にも潰えた。だからこそ、せめてこの世では、ありったけの充実感に愛されているべきだった。


 なのに、私は彼女の、を……、


「……こうするしかないんだろうかッ!?」


 怨吐霊よろしく、強めに叫んでみる。でも、エコーもかからず、やっぱりだれもふり向かない。アロハの男には聞こえたのかも知れないが、たぶん彼はそれどころじゃない。


 ひとりぐらいふり向いてくれてもいいのに。入れ替わり立ち替わり、数百人、数千人規模の生体が集まっているのだから、せめてひとりぐらい。


 だけど、それも原宿では叶わない。ここには、生きたいと強く願っている生体しかいない。自分のことだけで手一杯になっている生体しかいない。死者に感けている時間はない。死者の声を聞いてあげるヒマはない。たとえ、どんなに優れたアンテナであったとしても。


 みな、生きるために生きているわけではない。呼吸さえしていれば達成できるような人生なんて歩んでいない。そういう生き方はしていない。


 みな、こうして自分が生きていることをまわりのひとに認めてもらうために生きている。友達の、仲間の、家族の、恋人の、同胞ののなかへとおさまるために。


 すでに生きていない者の叫び声なんて、だから聞こえない。ふり向かない。認めない。


 ふぁん──くぐもった警笛を鳴らし、無情にも緑色の箱がやってきた。たちまち、涼しい突風とともにコマ送りの車窓が映しだされる。目を凝らさなくても空いているとわかる。この様子ならばリペルするおそれはない。


 でも……もう乗るんだ、私。


 直線を描き、次第にゆっくりとなって箱は停まった。停まると同時、折り目正しく安全柵の左右へと分かれる人波。そう、みんな覚悟ができている。前進する覚悟が。


 でも……乗らなきゃいけないのかな、私。


 覚悟できない。


 できやしない。


 できっこない。


 いっそ、このまま帰っちゃおうかな、私。


 お花屋『ヱルフ』とアロマショップ『とか』で寛ぎ、かえで通りの青空をのんびりと眺め、それから、穏やかで、和やかで、静かなお家へと……もう帰っちゃおうかな、私。




 

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