Scene 06

ベクトル

 




 泣きそうな気持ちをかろうじて抑え、High Priestess を背にしてようやく私は表参道へと出た。


 出るなり右折、神宮橋交差点を目指す。東急プラザやその向かいのラフォーレ、その向こうのH&Mに気を止めつつ、でも足まで止めると通行人に透過Overされてしまうので、あくまでも気を止めるのみにとどめて歩く。黙々と、ヤケクソのように直進する。


 さらに、女装する若い男の子たち、取り巻きのTVクルー、不審げな顔のサラリーマン、携帯端末スマホのカメラを泳がせる白人観光客、自分の世界に夢中な女子中学生たちもどうにかやりすごす。産方の時代には、迂闊に関わると対応が億劫そうなので観察する気にもなれなかった彼らのことが、いまや最有力の関心事と化している。どんな悩みがあるのか、どんな沼にはまっているのか、どんな人生を望んでいるのか、どんな挫折を味わっているのか、どんな仮面をかぶっているのか──と。でも、足を止めるな、耳を傾けるな、見向きもするな、どのみちお近づきにはなれないのだからと自分に言い聞かせる。そうして、ようやく神宮橋交差点のまえにたどり着いた。


 ここを直進すれば代々木公園。すでに青々とした若葉が手招きしている。当然、寄りたい欲求に駆られる。でも、すんでのところで道草願望をこらえて右を向いた。すると、自然環境学に寄り添うものとは思えないような近代的な匣があらわれる。



『原宿駅』



 原宿──どれだけ意欲的に人間に興味を抱いたところで、まやかしのようにあたりが変動し、遅かれ早かれ疲弊することになる街。異色だ、坩堝だ、混沌カオスだという平凡な感想文へと逃げこみたくなる位相幾何学トポロジーな街。


 ……なんで私はここにいる?


『電車を利用しないと今度こそ遅刻するわよ?』


 さすがのテトさんを信じてここまでやってきた。記号の羅列でしかないメモをいともたやすく解析し、指南してくれた彼女の頼もしさを信じて。


 でも……視線をアスファルトへと落とす。それから、なるべく通行人に透けないよう、蛇行してパレードを遡行。否が応にも透け、そのたびに憂鬱になる気持ちをいちいち嚥下しながら。


 短い横断歩道を渡って駅の東口へ。階段をあがり、慢性的に生体のあふれている券売機エリアへと到着。すみっこに陣取り、顎を引いて胸ポケットに意識を寄せる。


 合わない気がする。


 合わない──そう考えるごとに電車に乗るのが億劫になる。徒歩でも行けるんじゃないかと思えてくる。でも、テトさんが曰く「電車じゃないとムリ」らしい。望月空美にはムリな芸当だと。


 でも、でも、電車に乗りたくない。仕事をしたくない、それともリペルやPMCRが怖いという理由もあるけれど、それだけじゃないんだ、私が電車に乗りたくないいちばんの理由は、無賃乗車の可能性があるから。が破綻するかも知れないから。


 心の平和。


 意味がわかんない──と鼻で笑ったのはイルマ姉さんだった。あたしにはない感受性ね──とスルーしたのはテトさんだった。万里さんも、雲母さんも、だれも理解してはくれなかった。


 それでも、私は、レールに沿った生活をしていたい。心の平和を守るためのスタイルとして。ライフハックとして。ルーティンとして。


「レール」とは、生体の歩んでいる道のりのこと。産方の私も歩んでいた道のりのこと。ルールであり、マナーであり、エチケットであり、でも、あたり前すぎてルールともマナーともエチケットとも意識していないこと。普遍的日常的にこと。


 例えば、車道を歩かずに歩道を歩く。線路上には立ち入らない。他人の家の敷地にも踏み入らない。ゴミはゴミ箱へ捨てる。トイレの水は流す。携帯端末の覗き見をしない。べたべたとお店の商品に触らない。他人の私物であればなおさら。それから、電車などの公共の乗り物を利用するときには運賃を支払う。


 このうちのいくつかを、やらないひとはいるのかも知れない。やって当然だと無意識の脚を動かしているひともいるかも知れない。倫理観や正義感からではなく、面倒事に巻きこまれたくないからと、それとなくやっているひともいるかも知れない。


 私は、たぶん、面倒を嫌う後者だった。クラクションに怒られたくないから歩道を歩いた。通報されたくないから立ち入らず、踏み入らなかった。注意を受けたくないからゴミ箱に捨てた。恥ずかしい歴史を残したくないから水を流した。奇異の目を浴びたくないから覗き見をしなかった。ブラックリストに乗りたくないから安易に触らなかった。お縄につきたくないから運賃を支払った。間違いない、これらすべてが私のベクトルだった。




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★ ベクトル

【 Vector 】


「お袋の味を好む」という性向がある。主に男性特有のものと思われがちだけれど、これは男性のほうが積極的に嗜好を語りたがる生き物だから男性特有のものと錯覚しやすいトリックであり、じつは女性のなかにも好むひとはいる。逆に、男女を問わず、お袋の味に対して「べつに?」と無関心を感じるひともいる。実際、私がそうだった。では、この違いはなにかといえば、不連続的な環境体験の累積の差──と考えられるだろう。先天的遺伝的な部分もあるけれど、多くは後天性のものなんだ。


 他にも、予定があれば時計が気になる、小鳥の囀りを耳にすれば心が和む、冬とくればコタツにミカン、浜辺で聴いていた音楽はどこで聴いても海を連想する、駄洒落が初老特有のナルシシズムに思えてならない──などの性向や感受性もまた、多くの部分が生きてきた過程の環境体験によって生成されている。むろん、その種類や組みあわせは十人十色で、ということはつまり、そのひとの個性を支える支保のようなものだといえる。


 このように、備わっていなくても生きていけそうなものなのに、備わっていなくては支障さえも来たしかねない、つぎなる行動の采配ともなってくれる生活の風味──のことを『ベクトル』と呼ぶ。砕いていえば「生活習慣の名残」だろうか。あの世には存在しない、この世ならではの概念だ。


 このベクトル、幽体になると産方よりも累積速度は落ちる。ラストやロストすることはあれ、決定的な畏怖を司るが係らないため、産方よりも環境体験に依存しにくくなるのが原因ではないかと推論されている。とはいえ、累積はしていくのであり、原則的に幽体の人生は永遠なのであり、ゆえに危うい体験はしないに越したことがない。事実、ベクトルの中には心的外傷トラウマもふくまれるのだから。


 さて。


 この世のことを知ってもらうため、私は奇妙な摂理を紹介しなくてはならない。


 それは「産方に蓄えられたベクトルのうちの約7割が、死ぬと同時に緩和される」というもの。


 朝靄のように残留しているケースもあるので、だから「緩和」という表現が取られているけれど、実質的には「リセット」と表現したほうが正しいのかも知れない。


 例えば「人見知り」。見知らない人物に対して怖めたり臆したりする性向を指すものだけれど、もしもこのベクトルが7割のうちに選ばれたのであれば、後天的な部分だけは呆気なく緩和されることになる。かつてハーバード大学の某研究者が、


「2歳の段階で人見知りをするひとには、見知らぬ人物に対し、20年後も大脳辺縁系の扁桃体が強く反応する傾向がある」


 として、人見知りが遺伝する可能性をほのめかせた。なるほど、この世の研究機関も、


「人見知りに関しては遺伝的裾野まで緩和される事実がない」


 と発表している。ただ、同時に、


「先天・後天とあわせて考察すべきベクトルであることは間違いない」


 とも注釈を入れていることから、もしも緩和されたとなれば、産方よりも人間関係を怖がりにくい性格になっている可能性は高いということになる。


 いずれにせよ、死を迎えれば必ずベクトルの7割が緩和される。つまり、たった3割のベクトルだけでグリーンは目醒める。彼らはとても脆弱な状態なんだ。脆弱であるがゆえに、ときとして理性と欲望の泥沼へと滑落し、もがき、大幅に倫力を消耗することがある。ひいては、連綿とつづくはずだった第2の人生を完全に放棄し、あげく、を最優先のベクトルとして定着させ、結果、滞ったり、訴えたり、呪ったり……。

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