第三の蘇生法

Suzukisan

エリオット・L・ルーラー(1)

 スチール製の事務デスク、その机上には未決済の書類束が山となって裁可を待っていた。厚い眼鏡越しに、それらを斜め読みしながら、「保留」のタグが貼られたトレイへと投げ込んでいく。

 これなら今日こそは定刻どおりに正午の休憩をとることができそうだ。


「エリオット・L・ルーラー市民生活課課長」


デスク前に垂れ下がった薄い金属製の表札に刻まれているのが、おれに与えられた役職名だ。おれが腰を下ろす課長席からは生活課のデスク島と、その向こうに広がる対応窓口が見えている。


 課に在籍する5名の人員──プロパー職員が二名に、臨時職員が三名──彼らの質と士気はお世辞にも高いとは言えないが、給金なりの働きはしているものと、中間管理職のポストを与えられているおれは見ていた。

 しかしながら、彼らはどうにも「誠実な」気質の善人らしく、持ち込まれる陳情の一つ一つに心を砕かずにはいられないらしい。自分の本音を言えば、部下から上申された事項を追認するだけの楽な体制を築き上げたいものだが、現実には持ち込まれる案件は遅々として進まず、ほぼすべての事項をおれ自身が精査する羽目に陥っている。優秀な副官を得たいとは切実に願うが、課長補佐などという曖昧なポストは許されていない。


 とはいえ、彼らスタッフを責めるのも酷というものなのだ。なにしろ「市」の生活課に持ち込まれる陳情書の内容は多岐にわたる。そのほとんどが、一見して取り合う必要性を感じない──「市民生活課」の領分から外れているという意味であり、まともに取り合っていれば発狂しかねない面倒な──庶事である。


 一例をあげるとすれば、「隣家の庭から赤子大の鼠の群れが這い出てきて難儀している」といった近隣住民とのトラブルに始まって「健康食品のテスト商品を摂取したところ、鼻がもげた」という消費者からの訴え。果ては「税を滞納しているために、教会での蘇生が受けられない。新興宗教系でイケてる感じの団体を紹介してくれ」だの──この件は即時に本来担当すべき税務課に回したが、強面の徴税官が脅しつけて社会福祉課に投げ込んだ後に、教会から派遣されている福祉士が当課の教徒経由で投げ返してきた。教区副祭司からの痛烈な抗議文書とともにだ──とかく、この「市民生活課」という課は庁舎の正面出入り口横に置かれていることと、その課名から、市民生活全般に関わる雑事の窓口であると勘違いされている。


 初めのうちこそ、おれもこれらの異常環境と正面から格闘していたものの、しだいに一種の諦観に達するとともに、昨年から導入した「保留」の決済箱という画期的、かつ最終的解決案によって状況は改善しつつあり──棚上げすべき棚は満杯で、投げ上げた傍から災難が降りかかってくる現実からは目を逸らしながら──それでも今日も課の窓口には来庁者が餌を争う家畜の如くに鼻先を突っ込んでいる。


 改めてデスクの向こうを眺めてみれば、臨時職員の三人娘が、流れ込む濁流に蓋をするように対応窓口と向かい合っている。しかしその頑張りも、おそらくあと5分ほどで決壊するのではないかと思われた。一つの窓口に備えられた二脚の椅子に、別々の陳情あるいは苦情を握った豚が──これは市民に対する蔑視の表現ではない。事実として二足歩行の豚亜人種なのだ──フゴフゴ、ブヒブヒと鼻を鳴らして周囲の気温を数度は上げている様子が見て取れる。三人娘のなかで最も若い──二週間の基礎研修を経て、あの前線に投げ込まれた──新兵は後ろ手に「救援乞う」のハンドサインをちらつかせている。


 そうなると自然、上長であるおれに事態はエスカレーションされることだろう。他のプロパー組は帳簿から目線を1ミリたりとも上げようとはしていない。それは彼らが冷血漢であるから、ということではない。おれはちらりと柱にかけられた大時計に目をやる。


 間を置かず、ジリジリと庁舎全体に昼閉庁を報せるベルが鳴り響いた。タイムアップということだ。陽光を取り入れるための大窓には、自動的にブラインドが垂れ下りて、庁内は薄暗い状態へと変化する。それぞれの課の窓口にも鎧戸然としたシャッターが上がり、来庁者と職員を隔離した。

 課内の空気が急速に弛緩していくが、それとは対照的に、外では上がり切った金属製の間仕切りを乱暴に叩く気配がしている。おそらくヒートアップした豚だろう。続くようなら巡回マトンに刻まれて放り出されることになる。


 職員らは背骨の抜けた人形パペットめいて、ほんの数分の間チェアの背もたれに身を預けて放心していた。やがて正気を取り戻すと、めいめいにデスクを離れ、亡者の列然とした様子で大食堂へと続く道を歩き始めていく。課内からバックヤードに抜けて地下一階へと向かう道である。


 おれは銀縁の眼鏡をデスクに放り投げ、重しを載せられたようになった目頭を揉みながら、今日の昼食をどうするかと考えていた。おれは大食堂の混雑を好まない。そのために昼閉庁には、外の飯屋で昼食をとるのが決まりのパターンであった。普段なら午後のランチタイムをずれ込んで、選択肢の幅が狭まるところだが、今日はそうではない。少なくともこの二週間にはなかったことだ。あの新兵には労いの言葉を贈るべきだろうか。


「麺か、麺か……麺だな」


 誰ともなしに呟きながら、机上の書類をまとめると課長席背後の簡易金庫に投げ込んだ。

 庁舎前の一番道路沿いに、最近姿を見せる魚醬スープの麺屋台を脳裏に思い描く。琥珀色に澄んだそれは、芳醇な香りを放っている。浮雲のように流された葱油の香りが鼻腔に飛び込み、スープの川の間を繊細に仕上げられた黄金の細麺が揺蕩っている。それらの味と香りが、舌の上で絡み合い、口腔に溢れれば極上のハーモニーを奏でることだろう。


「ご機嫌のところ悪いが、麺は無しだ」


 金庫を閉じるおれの背に、低く太い声が浴びせられる。人工的な割れた音声だ。おれは思わず眉間に皺を寄せ、振り向くか否か、選択の余地もない逡巡を弄んだ。だがそういった遊びを引きだしたところで、事態に対して有利に働くことは微塵もない。


 渋々と声の方に向かって振り向くと、そこには黒漆塗りの自動人形が立っていた。極端に細い手足が楕円形の胴体から伸びている。頭部を模した箇所に凹凸はなく、つるりとした面が張り付けられているだけだ。おれはこの人形が、庁舎の十三フロアで使われる特別なタイプであることを知っている。

 行儀よく直立姿勢をとる人形の首元には、蓄音機然とした通信機が結ばれている。そしてそこから再び、先ほどと同じ太く低い、ひび割れた声が流れ出した。


「ルーラー課長、パワーランチのお誘いだ。上がってきたまえ」


 黒光りする自動人形は、おれの反応を待つまでもなく、すでに歩き始めている。おれは眉をしかめたまま嘆息する。そして、その後ろにおとなしく付き従った。


 何しろ、声の主はこの「市」の最高権力者である市長──ゴーフル・ダークビアード──その人だ。そして彼がおれを「ただの」ランチに呼び出すなどということは、天地逆転しようともあり得ない。

 ゴーフルは並みの政治家ではない。七十年にわたって「市」の政治に巣を張って、市長選十三期連続当選を果たすという剛腕の化け物政治家だ。その彼が一介の課長であるおれに声をかけるなどということは、本来ならばあり得ない。

 ゆえに、これは間違いなく面倒ごと──「課長」では「ない」、おれに対して回される掛け値なしの極悪なトラブルだ──に関わる内容に違いない。なぜなら、こんなことはこの四年間で一度や二度のことではなかったのだから。


 おれを先導する自動人形はバックヤードへと続く通路を通り過ぎ、西側の非常口へと歩を進めていく。厚手のビニル製シートを張られた床に、自動人形の蹄がカツカツと音を立てている。やがて非常口へとたどり着くと、ホール脇の壁を工具めいて繊細な指先でなぞり、隠し扉の取っ手を引き出した。


「また入り口を変えたのか」


 隠し扉の向こうには雑な普請であることを、ありありと感じさせる簡素な格子戸が伸び、人を乗せるための金属箱を囲んでいた。箱のてっぺん付近から上方へと数本の太いワイアーが伸びている。どこまで伸びているのかはわからない。東洋の寓話にあるアリアドネの糸めいた趣だ。


 十三フロアは市長専用の執務室兼ペントハウスとなっている。だが、庁舎内には十三フロアへと続く公の経路は存在しない。案内板にも十三フロアの表記はない。最上階である十二フロアにダミーの執務室と影武者然とした役者が座らされているだけだ。だが、屋上展望と十二フロアの間には、巨大な虚空が広がっており、そこに確かに十三フロアは存在するのだ。


 その胡乱なる十三フロアへと続く唯一にして──ときとして、複数あるのかもしれないが、おれには一つしか知らされていない──直通の特別エレベーターは定期的に、あるいは市長の思い付きで、この巨大な庁舎の柱の隙間を縫うようにして増設され、またいつの間にか解体されている。まるで安い怪談のようだ。


 おれの知る限り、この四年間の間、ゴーフルは十三フロアから一歩たりとも外に出ていない。彼が公に──それさえも影武者の役者だったのではないかと疑われるが──外出したとされるのは、前回の選挙戦に勝利して、皇帝名代から任命を受ける式典のときが最後だったはずだ。

 それもこれも、彼には政敵が多すぎたし、かつ拉致誘拐、監禁といった荒事謀事がこの「市」では息を吐くように当たり前のものとして存在するからだ。


 鉄骨の合間をすり抜けていく急ごしらえのエレベーターは、時折隙間から光を差し込ませてはおれの体に格子模様を描き、またすぐに暗闇の中を引き上げていく。やがて無限に続くかと思われた加速は唐突に停止して、がくんと揺れると、胃の内容物を吐き出すように、おれを箱の外へと押し出した。

 どう考えても建築課が定めた安全基準を無視した設計なのだが、市長はその点についてどういった見解を持っているのだろうか。いや、そんなものは自明だった。ゴーフル自身がこれに乗る機会は万が一にもないのだから、彼が安全について考える機会もまた同じようにやってこない。


 おれは再び、黒塗りの人形の後を追う。十三フロアはその床から壁に至るまで一切の継ぎ目が見えない緻密な施工が行われている。これに用いられているのは、特殊な青い結晶石を研磨し、板状に加工したものを数層にも重ねたウエハース建材であり、これは電波の類を通さず、また魔術、呪術といった類のエネルギーも遮断するという代物だった。いわば完全な防諜機構を敷くために使われるものであり、「中央」でも限られた施設にしか用いられていない技術だ。


 おれの前には先のない小部屋があるだけに見えたが、すぐに自動人形が何もない壁を押し始めた。そこは壁ではなく扉であったらしく、意匠の施されない、つるりとした青石の扉が、両開きにゆっくりと開かれていった。


 開けた視界の向こうには、傘状に垂れ下がるシャンデリアと赤い絨毯、黒々とした重厚な木の執務デスクと革張りの椅子があった。おれは室の内に向かって一歩を踏み出した。毛足の長い絨毯は、革靴を吞むように沈み込んでいく。

 焚かれた麝香の匂いに混じって、アルコールの香りがする。どうやら部屋の主は昼間から酒類を召しているらしい。


「なんだ、鼻から毒虫でも入れられたような顔をして。辛気臭い面はよせ」


 視線の先にある革張りの椅子の脚は異様に長い。直立するおれの目線と、市長の目線はそのために同じ高さにあったが、本来、彼はおれの胸ほどまでの背丈しか持たない。

 ワイングラスを傾けながら、わきに控える自動人形に葉巻の口を切らせる男。

 無毛の緑肌に、突き出た額と眉間。側頭部からは小鬼特有の控えめな角が二本伸びている。抜け目なく光る瞳を、ぎょろりと動かして、ゴーフル・ダークビアード市長はこちらを見た。




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