隣の君

遠山李衣

隣の君

 正門前に連なる桜並木も葉桜となりかける頃、僕は高校二年生になった。

 僕の隣の席は、自己紹介を聞くまで名前も知らなかった女子。いつも明るく、誰に対しても優しいごく普通の女の子。それが君だった。

 一月ひとつきに一度だけある席替え。先生が雑に千切ったザラシのクジを手に新しい席へと移動する。移動中机の中で崩れかけた教科書を整え、ふと隣の席を見ると君だった。君は僕の視線に気付くと、たちまちいつもの優しい笑みを浮かべる。

「また隣だね、よろしく!」

 僕は「そうだね」と云っただけだった。


 それから一月ひとつきが立ち、また席替えの日がやって来た。

 新しい席はずっと狙っていた窓側の席。早速お日様に包まれてウトウトしていると、机の置かれる音と共に「あれれ~」という声が聞こえた。隣を見ると、やっぱり君だった。

 僕は何と答えればいいか分からなかったから、曖昧に微笑むだけ。そんな僕にでも、君は笑顔を返してくれた。


 そして三回目の席替え。

 やっぱり僕の隣は君だった。

「すっごーい!! また隣だね! ここまで来ると何だか運命を感じちゃう!」

 胸の前で両手を組んで君は云う。笑顔が僕には眩しかった。

「う、運命なんて本当にあるわけないじゃんか……」

「そうかな? 私はあると思うよ! だってほら、現に今こうして隣の席に座ってるんだよ!」

 僕は「バカバカしい……」と小さな声で云った。

 きっと君に聴こえてる。

 本当は僕だって嬉しかったし、『運命』と云われた時そうかも、と思ったんだ。だけど、素直に云えるわけがないじゃないか。

 僕の言葉で気分を害したのか、君とは何も話すことはなく、夏休みを迎えた。

「宿題の提出が終わったら、席替えだからなー」

 夏休みが終わり、僕は賑やかな街に戻ってきていた。

 四回目の席替え。

 君は僕の隣ではなかった。寂しさとも、切なさともつかない思いが胸に広がる。

 もう、あの頃のように「よろしく~」という優しい声はかかってこなかった。


 秋も深まる十月。

 五回目の席替えがあった。

 半ば願掛けをしながらクジを引いたけど、君は僕の隣ではなかった。僕が『バカバカしい』なんて云ったから、神様が別々の席にしたのだろうか。

 次の日僕は学校を休んだ。軽い風邪だった。


 風邪はすぐに完治し、学校へ行けた。

 でも僕の隣は君ではない。にこりとも笑わない、何だか感じの悪い子だ。

 SHRで君の欠席を知る。授業中数式や英文を見ていると君の笑顔が頭をよぎる。僕のような風邪だろうか。この日ずっと心配だった。


 次の日。

 君はマスクを付けて登校してきた。まだ鼻声だったけど、僕と同じ軽い風邪のようだった。

 元気そうに見える君を見て心からほっとした。


 放課後。

 僕は英語の教科書を忘れたことに気付き、友人と別れて教室に戻った。もう下校時刻を過ぎていたから、誰もいないと思っていたのに、誰かがぽつんと座っていた。

 君だった。

 君はゆっくりとこちらに顔を向けると「やっほー、久しぶりだね」と話しかけてきた。僕も「そうだね」と短く答えた。

 自分の机をごそごそしていると君が尋ねる。

「どうしたの? 忘れ物?」

「まあ、そんなとこ」

 こんな他愛もない会話だけど、僕の心は満たされた。

「そうなんだ~、じゃあ、私、帰るね」

 君はそう云って僕に背を向けた。

「え、どうしたの?」

 君の戸惑った声で、僕が君の手を掴んで引き止めていたことに気付く。早くしないと靴箱が閉まってしまう。分かっているのに僕の手が君を手放すことを拒絶する。

「あ、えっと……、ごめん。なんでもな……」

「そう」

 声がさっきまでと違うことに気付き、慌てて手を放して君を見る。君の頬を何か光るものが流れていた。涙、だろうか……。

「え、何……?」

「ごめんね……。貴方とこうやって話していられるのもこれで最後なんだって思うと……」

 さい、ご……?

 僕は君の云っている言葉が、何か別の世界の言語のように聞こえた。

「私ね、明日沖縄に引っ越すの。親の仕事の都合で……。だからね、貴方と話せるのも今日で最後」

「お、沖縄」

 沖縄っていうと、日本の一番南にある県で、海がめちゃくちゃ澄んでて、「なんくるないさ~」とかいう方言が有名な、あの沖縄?

「本当は、誰にも云わずに行くつもりだったんだけど……」

「なんで……急すぎないか……! 僕はまだ、君と話したいことがいっぱいあるのに」

「え……?」

「君が僕の隣の席にずっといてくれればそれだけで良かったのに……。君がいない日だってずっと心配で寂しくて……」

 涙が止まらない。胸がぎゅうっと痛む。苦しくて苦しくて今にも倒れそうだ。

「貴方は、私のことが好きなんだね……」

 君は消えてしまいそうなくらい小さな声で呟いた。そして、白魚のような指で僕の眼から溢れる涙を拭い取る。

「私ね、入学してからずっと貴方のこと見てたんだよ。どうやったら話せるかな、どうやったら私を見てくれるかなって色々考えた。二年生になって新しい教室で貴方を見て、本当に嬉しかった。夢かと思って何度も何度も名簿を見返した。隣の席に何度も慣れた時は神様に感謝したわ」

 君の声は不思議と凪いでいた。君は笑っていたけど、その目からは雫が零れていた。

「僕は君にずっと隣にいてほしかった……」

 僕は君をそっと抱き締めた。

「私も貴方の隣にいたかった……。でも、神様ってとても意地悪なんだね……へへへ」

 君も僕の背中に手を回す。

「君が好きだ……大好きだ」

 君の耳元で一語一語丁寧に言葉を紡ぐ。安直な言葉だけどこれ以上の言葉は見つからなかった。

 君は小さく頷く。僕らにはそれだけで充分だった。

「おーい、まだ誰かいるのか?」

 先生が見回りに来たのだろう。僕らは名残惜しげに離れた。君は僕の手に何かを握らせると帰っていった。

 手の中の物―メモ用紙には「朝八時、○○空港」とだけ書かれていた。

「おい! 本当に閉めるぞ」

「す、すみません」



 翌朝。

「すみません、腹痛と頭痛と胃痛と肩痛と顔面神経痛と胸痛と筋肉痛と歯痛と耳痛の為遅刻します!」

 電話の向こうで「そんなに痛いなら休めよ……」という声が聞こえたような気がするけど、今は空港に行かないと!


 君は僕を見つけると、大きく手を振った。僕も走りながら手を振り返す。

「来てくれたんだね……」

「君がいるから」

「へへへ……」

 君は嬉しそうに、でもどこか悲しそうに笑った。

「必ず帰ってくるから……」

「ああ、僕はずっと待ってるよ」

「もっと早く話しかければ良かった」

 昨日あれだけ泣いたのに、また涙が零れそうだ。

「いたっ!」

 君は僕の両頬をビーッ! と引っ張った。そして

「私が帰ってくるまでに、その仏頂面を直しといてよね!!」

 笑顔で云った。

「うん」

 遠くで君の名前を呼ぶ御両親の声が聞こえた。

「もう行くね! バイバイ!!」

「じゃあ」

 君は手を振ると、エスカレーターを降りて行った。君が見えなくなるまで見送った後、僕は顔に手をやった。僕の顔は涙できっとぐしょぐしょだ。

 顔面神経痛か、歯痛のせいか。はたまた他の病気のせいか。

 涙が流れて止まらなかった。

                                            

―――終わり―――

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隣の君 遠山李衣 @Toyamarii

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