第1話 スター・トリップ②


 透き通った白い肌、程良い肉付きの体からスラリと延びる引き締まった四肢――――ただ、左腕にギプスらしきものをつけている――――背中の中心まで真っすぐに伸びた美しい黒髪、見せつけるためにあるかのような豊満な乳房――――ここから視線を剥がすのに到は必要以上に時間を要した――――ほんの僅かに赤い瞳を覗かせたが、彼女は慌てた様子で散らかったテーブルの上に置かれていた真っ黒な仮面で、顔全体を覆い隠した。


「君は誰だ?」


 女が低いトーンの、古いスピーカーを通したようなノイズ混じりの声で問いかけた。到は混乱するあまり、彼女がなんと言ったのかさえ理解できなかった。女は仮面越しに到を見つめたままで、それ以上動きを見せない。到の脳内が整理されるのに一分以上を要したが、それでも女は到の返答を待っているようだった。


(落ち着け、これは願ってもいない異世界転移ってやつじゃないのか!?だとすると、これまでの空想で鍛えた成果を見せつける時だ!)


 入院以来まともに人と関わらず、ノートパソコンと本以外に学習手段を持たない到は、知識がニッチなサブカルチャー方面に偏っていた。それでもこの状況を切り抜けるには最適だと思いこむしかない。残る問題は語彙力と共に退化しかけていた声帯がまともに発声してくれるかだ。


「っ……あ……」


「……」


 小動物の鳴き声にも劣る掠れた音しか出ず、到は思わず赤面した。過ぎ去った時の重さが無情な現実を突きつける。


 対して、仮面の女は到のことを気にも留めていないかのように足元からタオルを拾って身に纏った。先ほど脱いだと思しき黒いブラジャーとショーツを到の寝そべるベッドの上に投げ捨ててから、彼女はやっと二言目を発した。


「名前は?」


「あっ……ぼくは……」


「声が出ないか? ならゆっくりでいい」


 女の落ち着いた声色に、到はむしろ警戒を強めてしまった。この状況なら理不尽にはり倒されても文句のつけようがないと考えていたからだ。


 この部屋はよく見れば服や下着が床に散乱し、テーブルには空き缶がいくつか残っている。この女が生活している場所で、つまりそこに突如として現れた自分は端から見れば侵入者であり、この女の敵として見られてもおかしくないと、混乱している到でも察知できた。


 焦りが加速する中、到はなんとか名前だけは伝えようと試みる。


「ぼ……ぼく……結城 到……」


「ユウキ・イタルか。私は……ブラック・リコリスと名乗っている」


 恐ろしいほど警戒心を感じさせない淡々とした対応だった。抑揚はあっても、機械的で冷たい印象を受ける声。目や口を思わせるパーツのおかげで辛うじて顔だと認識できる仮面に怖気づいてしまい、到は逆に質問を返すことができない。会話の主導権を握るリコリスは、間髪入れず質問を続ける。


「キミはいつからそこに?」


「っ……わかんない……」


 敬語の使い方を忘れていることに発言してから気づいた。やっと冷めてきた顔面がまた熱くなるのを到は感じていた。


「そうか……私には“目を離したら突然キミがそこにいた”ように見えたが……」


「ぼく……病室にいて……」


「病室?この街にまともな病院などないが……」


 リコリスは到の患者服に触れ、顔を近づけて観察した。指先で念入りに感触を確かめ、それを終えると腕を組んで黙考した。


「どこの病院だ?」


「あっ……日本の……」


「ニホン? 聞いたことがないな。キミはまさか……外の星から来た人間か?」


 心の片隅でなんとなく否定していた異世界転移という空想を、リコリスが大真面目に肯定してしまい、到は面食らってその言葉を鵜呑みにできなかった。何せ意志の疎通は問題なくできているし、時計や空き缶など、身の回りにあるものに書かれた言葉や数字は、見紛うことなくアルファベットやアラビア数字が使われている。


 少なくとも日本ではないが、単に国外という可能性もあるし、そもそもこれが夢を見ているだけという可能性を捨て切れなかった。


「珍しいことではない。神がいない今、どの世界もアンバランスで容易く侵入を許す」


 この発言で到のリコリスに対するイメージは怪しい宗教団体のキャッチやってるエロいお姉さんで固まった。


「災難だな。よりにもよって『イヴ』に来てしまうなんて」


「い……ぶ……?」


「この世界の通称だ。元々きちんとした星の名前が合ったらしいが、何百年も前になくしたらしい。世界を支える神々を失って、じっと滅びを待つしかないから『滅びの前夜』という意味で『イヴ』だ」


 自分の空想にそんな設定はない、とは言えなかった。


 滅びゆく星に突如として招かれた――――いったい何のために?何の理由もないということは無い筈だと冷静を装って思考を巡らせるが、到の頭に浮かんだ疑問符は増殖を続けるばかりだ。


 しかもいつ滅びるか分からないということは、リコリスの言葉を鵜呑みにするなら、こうしている内にもこの星は崩壊を始めるかもしれないということになる。だというのにこの女は、呑気にタオル一枚(と仮面)という出で立ちで、彼女からしたら得体の知れない存在である到を、最早怪しんだりもしない。


「あの……ブラック・リコリス……さん?」


 何か質問するつもりだったが、どこから切り出すべきかも分からないうちに声を発してしまい、語尾にたどり着くころには萎縮しきっていた。


「ん?……ああ、安心しろ。取って食ったりしない。君は金目の物を持っているわけでもないだろう。私が盗賊だったとしても襲うメリットは無いな」


 リコリスの視点では到は確かに異質な存在かもしれない。だが、彼女は到が闘える体でないことも見抜いていた。到は自らのやせ細った肢体に視線を落とし、彼女の余裕の態度に漸く納得した。自分は怪しんだり警戒したりするまでもない、取るに足らない存在なのだと。


「ところで君、体を見せてみろ」


 ふとリコリスが到に近づき、彼の膝を覆っていた布団を勢いよく捲った。到の失われた足が露になり、彼は何とも言い難い羞恥心に駆られ、逃げ出したい気持ちになった。そんな到を他所に、リコリスはひとりうんうんと頷いている。


「なるほど、これでは満足に風呂も入れまい。どうだ? 私も丁度シャワーを浴びるつもりだった。背中を流してやろう」


「……ええ!?」


 やっとまともに回転し始めた脳でも、彼女の提案の意味を率直に受け止めるのに時間がかかってしまう。この女は怪しさを極めた遺物である到を怪しむどころか、快く家に居座らせ、風呂の世話まで付き合おうと言っているのだ。正に至れり尽くせり。


 事実、体の欠損のせいでまともに動けなかったし、最近は看護師たちも廃人同然の到の世話をサボり出す始末だった。結果彼は三週間ほど体を拭くこともなかった。


「まままままま待ってください! ぼくはそんな……」


「まあ遠慮するな。どちらにしても今の君はいささか臭いがキツイ。ここにいてもらうのは全く構わないが、臭うのは勘弁願いたい」


 そう言うとリコリスは右腕だけで到の体をヒョイと持ち上げ、所謂“お姫様抱っこ”の状態にした。怪我をしている腕も使い、そこまで大きくない荷物のように軽々と持ち上げられてしまった事実が、到の心にグサリと刺さる。


「安心しろ。私はうまい」


「何がですか!?」


 本当はここは卑猥なお店なのではないかと思っている内に浴室の前まで運ばれてしまった到。だがここで、ようやくと言うべきか今更と言うべきか、人間のオスとして正常な欲求が。もしかしたらご褒美ではないか?と、今まで鳴りを潜めていた下劣な欲望が心臓の鼓動を加速させ、無意識のうちに息が乱れる。


(そうだ、別にいいじゃないか。ここは夢にまで見た異世界だぞ? これを楽しまずしてどうする?)


 完全に流されるがままの姿勢を構えた到はリコリスがドアをあけるその瞬間を今か今かと待ちわびた。


 ――――しかし、リコリスは一向にそのドアに手をかけない。まるで進行方向に巨大な壁を目の当たりにしたかのように、じっとドアを見つめて微動だにしない。興奮しきった到も流石に不信に感じ、素直に問いかけた。


「どうしたんです?」


「誰かいる」


 静かに囁かれたその言葉を聞き、到が「えっ?」とリアクションをとるよりも早く、リコリスはドアを乱暴に開いた。


「「えっ?」」


 到と全く同時に、全く同じリアクションをとる者がその視線の先にいた。真っ赤な髪を泡だらけにした、見事なイカっ腹の少女だった。結城到、通算二回目にして約十分ぶりのラッキースケベだ。


「……あ、お先にいただいてます~」

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