前世

森音藍斗

前世

 海がこんなに濁っているとは。

 空がこんなに澱んでいるとは。

 幼い頃に見ていた世界はもっと蒼く澄んでいて、果てしなかったのに。

「……はは」

 思わず笑い声があがった。

 渇いた笑いだった。

 目の前に広がるのは、ただただ朽ちて埃の積もった檜の床と、蜘蛛の巣の張った低い天井、そして触れたら壊れそうな小さなドアひとつだけだった。

 みんなは無事だろうか。

 無事だといいと思う。が、無事なわけあるまいと心の底ではわかっている自分にも、もういい加減に気がついていた。

 戦おうと言った彼らに、私は逃げろと言い遺し、単身ロングシップに乗り込んだ。そして、このザマだ。

 何のことはない。逃げ切れなかったから包囲されたのだ。

 逃げ道がないことは知っていた。戦った方が見込みがあることは知っていた。そして、戦ったとて勝てる見込みは幌布より薄いことも、知っていた。

 逃げろと言っていのいちばんに逃げ出したのは、自分なのだな。

 仲間が死ぬのを見たくないから、誰よりも早く死のうと思った。

 つくづく弱い。

 また意味のない笑みが零れる。

 みなが私を船長と慕ったとて、航海士としては誰よりも優れていたとて、父から受け継いだ船と人望をフル活用したとて、私は私だ。弱い私だ。

 海と空を見て、青だと単純に形容した、幼い頃の私のままだ。

 ほどけないロープの結び方は知っていた。手首と鉄の重りを繋がれたままで、どう巡らせばちゃんと首に縄が掛かるかも知っていた。

 ささくれ立ったロープが首に触れると、そこから幾筋かの赤い線が縦に走った。

「来世は、、、」

 なんて言うあたり、今世に未練たらたらだ。

 そんな話をしたら、きっと、来世など信じていないくせにと一蹴されることだろう。

 それでも、来世生まれ変わることができたら。

 同じような良き仲間と、古くとも頼りになる船と共に、海に出たいと思うんだ。

 ああ、私はたった今仲間と船を手放したところだったな。

 じゃあ、一生を陸の上で過ごすのも悪くはないか。

 生産性のない妄想をまた私は自笑して、そこで思考を停止した。

「おい、お前の捨ててきた仲間と船の末路を見せてやろう」

 そう部屋の外から声が掛かったときには、既に部屋の中には人と呼べるものは存在しなかった。

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前世 森音藍斗 @shiori2B

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