青草の音

森音藍斗

青草の音

 festivalだ。

「先輩、寄り過ぎ寄り過ぎ!」

「先輩、これで運転何回目ですか」

「えっと……二回目かな」

「……代わりましょうか」

「二回目で、よく他人乗せて山道運転しようと思いましたね」

「いや、練習だと思って」

「本番です!!」

 フェス会場が、山の上にあるのが悪い……当たり前か。こんな五月蝿い音楽を、夜中まで街中で演奏したら怒られる。今夜は徹夜かな、と俺はぼんやりと考えながらまたハンドルを切った。

 いちおう行きがけに買い溜めてきたカップラーメンを他所に、飯食いに行きましょうよと誘われたのが、午後六時。ジャムセッション真っ最中だった同期には声を掛けずに置いてきて、後輩二人を連れて山を降りて入った店は、やはりラーメン屋だった。学生向けの、それなりに安い店だ。暖簾を入れ替わりに出てくる制服姿の男女に、デートがラーメン屋でいいのかよと思いつつ、ラーメン屋で喜んでくれる彼女でよかったなと思いつつ。童貞の俺が口出せる場面ではない。彼の方が、よっぽど女を上手に扱っている。

 単に、この田舎町にはデートと呼べるような洒落た店が無いだけかもしれないが。

 俺が頼んだのはチャーシュー麺、後輩は味玉ラーメンと葱ラーメンをそれぞれ頼んだ。

 今回の食事でも野菜が摂れた、カップラーメンと菓子パンのみの二日間を覚悟していたから、と俺の正面で喜ぶ二つ年下の葱ラーメン女子・川内と、卵には全ての栄養が詰まってるんだぞと俺の右隣から対抗する一つ年下の味玉ラーメン男子・竹辺。二人とも学年としては一年下の二回生で、俺と竹辺が一年浪人してるから年齢が階段になるわけだけれど、最早そんなことを気にしている奴はいない。楽器が上手いやつは先輩だ。俺らの音楽ジャンルの経験値に関しては、この後輩二人は同い年だ。

 ラーメンは、美味かった、と、俺は思う。東京出身の舌には合うらしい、右隣の竹辺も喜んでいた。向かいの川内は、関西の味に馴れているらしく、少し辛かったと言った。しかし美味しかったと律儀に感想を述べた。いや、美味かったのは事実なのだろう。ラーメンは好きだそうだ。

 ラーメンも美味かったが、こうやってゆっくりと他愛もない話をできるというのもなかなか珍しいことで、楽しかった。何の話をしたわけではない。彼らの先輩にあたる俺の同期の話。最近はまっている筋トレの話。俺の運転の話。大学の話。高校の話。

 陸上部だった竹辺のスニーカーの話。ジャズ部だった川内のトロンボーンの話。釣り部だった俺の魚の話。

 バンジョーを提げた竹辺とウッドベースを支えた川内とフィドルを抱えた俺が、ここでこうやって三人でラーメンを食うなんて、知らなかった頃の俺らの話。楽器は流石にここまで持ってきてないけど。

「えー、先輩お魚さばけるんですか。今度見してください」

「いいよー」

 二年前に発足したばかりの——むしろ楽器を持ち寄っただけの、という方が正しいかもしれないぐらいの俺らのサークルは、俺や竹辺や同期も何人か住んでいる大学寮の、使われていない食料庫にナンバーキーを付けて勝手に楽器置き場にしている。かつては食堂で飯が提供されていたらしい。今では食堂はビリヤードと卓球場、あとはたまに劇団サークルの講演会場、厨房はドラムセットとアンプが完備されたスタジオだ。ただ、まだ一応ガス水道は使えるようになっているので、大量生産用のでかい調理台からたまに寮生の手による異国のスパイスの匂いが漂ってくる。もちろんそこでなら、魚ぐらい簡単にさばける。

 来たときはまだ明るかったのに、店を出るとすっかり夜になっていた。この中を……さっきの山道を登るのか。まあやるけど。俺より後部座席の川内の方が不安そうだ。

 帰りがけに通りすがったスーパーで、助手席に座った竹辺が買い出しをしたいと言い出した。よし来た、本日数回目のバック駐車。両隣も後方もすっからかんの駐車場で、竹辺だけをまず降ろし、川内とふたりになった車を後ろ向きに停める。試みること数回。なかなか綺麗に停められた。

「隣に車停まってたら傷付けてましたね」

 いいんだよ、そうじゃないところを選んだんだから。

 帰ってきた彼に何を買ったのかと訊くと、チューハイと煎餅の大袋が入った白いレジ袋を見せてくれた。

「皆で食べようと思って」

 そういうところがイケメンだよな。

 彼は今四歳年上の社会人の彼女が、結婚する気満々で困っているそうだ。

「取り敢えずまずは、四年できっちり卒業しなきゃですね」

 イケメンだと思う。

 俺より運転慣れしているこの後輩は、帰りの車の中でもずっと俺を指南してくれていた。ありがたい。‪‬‬‬‬

 後部座席の川内は、免許を持っていない。どころか、幼少期にゴーカートで散々カーブに激突した挙句、ゴール目前で後ろを振り返ったら三台ほど連なって待っていたという武勇伝を挙げて、免許は無理ですと言った。だったら怖い怖いと叫んで顔を伏せるのをやめてくれ。俺の方が怖くなる。いや、運転経験が無いからこそか。どのラインまでなら大丈夫か分からないから、怖いんだろう。お兄さんに任せなさい。君らを無事もとのフェス会場に連れ戻してあげよう。

 いや。

 もっと素晴らしい場所へ連れて行ってあげるのも、悪くはないな。

「……先輩、そこ右じゃなかったでしたっけ」

「まあまあ」

 俺は顔に笑みを浮かべて、Y字路を左へ入った。

「俺は去年も来てるからね。道は分かってるよ」

 進言した竹辺も、真っ暗闇の中、道に自信は無いらしい。そうですか、じゃあお任せしますと背凭れに体を預けた。

「左、落ちないかだけは見といてくれよ」

「落ちるんですかぁ~」

 後ろから川内の情けない声が聞こえてくる。

「竹辺が見ててくれるから大丈夫だって」

「人任せですかぁ~」

「大丈夫だって」

 竹辺も同調してくれる。

 車はうねる登り坂を進んでいった。じき道幅が狭くなり、ガードレールも消えた。今対向車が来たら、恐らくどちらかがバックすることになるだろう。俺にはそんな勇気無いから、そのときはまだ見も知らぬ対向車さん、よろしく。

 流石に竹辺も異変に気付いたらしい。

「これ、さっきの道と違いますよね」

 俺は口角を下げないまま前を見ている。決して意地悪で黙っているのではない。返事をしてやりたいが運転に必死なのだ。

「心中ですか……」

 後ろからも不穏な単語が飛び出してくる。頼むからやめてくれ。

 俺は君らに見せたくて。

 いや、見せたいなんて言ったって、今から見せようというものを俺はまだきちんと検品していないのだけれど。

 去年、ここまでは来たものの結局曇りで見られなかったこの景色を一緒に見たくて。

 たった数時間、勝手に抜け出して、ラーメンを食っただけのこの後輩たちに、見せたくて。たった数時間で、何だか今までのサークル活動一年間を凌駕する絆を手に入れた気がする、気がするだけだけれど、彼らに見せたくて。

 急に視界が開け、俺が心底ほっとすると同時に隣で竹辺が歓声をあげた。

 バックミラーの中で、川内も漸く顔を上げる。

「わあっ」

 無垢だなあ。と、たった一、二年違いの年下に思い、俺は純粋じゃなくなったのかと悲しくなり、帰りのためにUターンさせてから崖下の路肩に車をきちんと落ち着けて、また空を見上げた俺も、思わず声を漏らした。

「ああ」

 綺麗だ。

 普段の大学周辺の、排気ガスに塗れた都市からじゃ見えない、逆に明るい夜空は。

 満天の星空は青春の色をしていた。

 後輩二人に続いて俺も外に出る。レンタカーから一歩外に出た、六月にして寒いぐらいの空気は、やはり青春の匂いをしていた。

 festivalだ。

「去年も来たんですか?」

「去年は、曇ってて見えなかったんだよ」

「じゃあ、先輩も初めてなんですね」

 星空一回生。

「そうなるね」

 青春の色を知った。

 青春の匂いを知った。

「さっきの話、嘘なんだ」

 俺は誰にともなく言った。

「さっき?」

「高校の話。俺、碌に通ってなかったから——友達もいないし、部活も強制的に所属はさせられたんだけど行ったことないし」

「ふーん」

 気の無い声で竹辺が言った。

「魚さばけるのは本当ですか?」

 川内が訊く。

「それは本当。家でやってた」

「よかったぁ」

 お前の懸案事項はそれだけか。

「じゃあ、先輩の青春は今ですか」

 うーん。

「お前らの青春は、高校のときに終わったの」

「えー、私まだ若くいたい」

 川内が言った。

「この前成人しなかったっけ、二回生」

「体は大人、心は永遠の未成年ですから」

 それ、社会人としては全く笑えないけどな。

 体は子供のままなのに、考え方だけおばさん臭くなってないか、と野次を入れようかとも思ったが、セクハラで訴えられたら嫌なのでやめた。俺だって、罪を犯してもプライバシーを守ってくれるやわな時期はとっくに終えてしまっている。

「やめて……二十一歳の前で言わないで……」

 竹辺が独りで落ち込んでいる。

「俺、今年で二十二だけど」

「あ、そうか、じゃあいいや」

 よくねえよ。今、完全に置いてかれたぞ俺。

「まあ、青春なんていつでもいいんじゃないですか」

 能天気な声がする。

「楽しければそれで」

「川内は今楽しい?」

「楽しいですよ」

「高校のときとどっちが楽しい?」

 んー、と声がする。

「覚えてないです」

 さいですか。

「竹辺は?」

「俺はいつでも、今が一番、になるように努力してますから」

 イケメンだ。

「先輩は楽しいですか?」

 そうだなあ。

「彼女ができたら完璧かな」

 頑張れーという、応援する気の更々ない声が、男声女声の二重で聞こえる。

 でも、まあ。

 楽しいよ。

「そろそろ帰ってジャムするか」

「はーい」

 ふたりは大人しく返事をして車に入った。

 俺は運転席のドアを開け、もう一度空を見上げた。

 festivalだ。

 きっと。

 それでいいんだろう。

「今夜、竹辺、寝る?」

「帰りの運転ジャン負けしたから寝ないとなあ……」

「川内は?」

「免許ないんでっ」

 満面の笑みでミラーに向かってブイサイン。

「弾けるとこまで弾きますよ!」

「俺も行きで運転したからな。帰りは免除だ」

「やったあ、先輩、私まだフェスに全然知り合いいないので、他大のみなさん紹介してください」

 さっきも通った細道を、スピードが出過ぎないように用心しながらゆっくり下る。

「私も免許欲しくなってきたなあ」

 川内が後ろでぼやいた。

「どうしたの急に。運転する先輩かっこよく見えた?」

「かっこいいのもそうですけど」

 そういう言葉を簡単に言ってしまうのが川内という人間だ。

「運転もしないのに、ジャムして車で寝ちゃうの申し訳なくて……自分もちょっとは運転できたら、せめて」

「まあその考えも分からんではないが、しかしね、川内サン、あの部長ならこう言うよ」

「何て言うんですか」

 部長は俺と同期なので、俺の方が一年付き合いは長いし、こいつらが入部してからも、俺の方が恐らく付き合いは深い。

「『川内に運転は任せられない』」

「間違いない」

 竹辺が笑い、川内も笑った。彼女は今夜徹夜して、帰りの車の中でぐっすり眠るだろう。

「部長、心配してますかねえ」

「思いの外遅くなっちゃいましたからね」

「心配はないと思う。怒りそうだけど」

「星空見たかったっていうかなあ」

「星空よりラーメンだな、あいつは」

「竹辺、窓開けて」

 ハンドルから手が離せない俺の代わりに、竹辺が助手席の窓を開けた。

 青春の空気を、少しでも、排気ガス都市の日常に、持って帰れるかと思って。……まあレンタカーは返さなきゃいけないんだけど。

 浸っていたくて。

 弦楽器の音が、遠くから聞こえてくる。

 青い草原の音がする。

 青春だ。

 festivalだ。

 まだ青い俺たちの、初夏の春の長い夜は、始まったばかりだ。

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青草の音 森音藍斗 @shiori2B

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