僕が僕であるという重力がスゴすぎて僕はもうクタクタだ

ヨーグルトマニア

第1話

遙はいつも感じている。魂が体の中に沈み込んでくる重力を。


音羽遥(おとわ・はるか)。

小樽市立芸術高校2年。ヴァイオリン科。

ちょっと女の子みたいだけど、とても綺麗な顏をした男の子で身長は177センチ。

去年、シベリウスのヴァイオリン協奏曲で小樽国際というコンクールの

本選まで進んで3位入賞した天才だ。5月21日生まれ。ふたご座。A型。

好きな食べ物はピザ。好きな本はサマセット・モームの「月と6ペンス」。


「ちょ、ヤバーい!カッコいいー!」


とか、女の子たちに騒ぎ立てられても、遙は決してニマっとしたりしない。

いや、してはならないのだ。


「なぜだろう……?」


遙は感じる。自分の行動が常に何かに見張られているような感覚。


「僕が僕としてこの世界を正しく進めていくことをいつも誰かに見られている……

 ような気がする」


遙はヴァイオリンを弾く手を止めて、防音室になっている自宅の庭の練習部屋で

目を瞑った。


「荘子の『胡蝶の夢』みたいなものなのかなぁ?」


「胡蝶の夢」ならカッコいいんだけど……



               🎼🎼🎼🎼🎼🎼🎼🎼🎼🎼



遙がヴァイオリンを弾く練習部屋は六角形の屋根を持ったあずまや風の建物で、

その屋根の形から音羽家の人々に「六角屋根」と呼ばれていた。


この六角屋根を使うのは遙だけではなく、妹の夏音と弟の柚葉もだった。

夏音(かのん)は小樽市立芸術高校のクラシックバレエ科1年で15歳。

柚葉(ゆずは)は小学部声楽科4年の10歳だ。


「私もそう思うことあるよ」


「うん、あるある」


遙の「胡蝶の夢」の話を聞いていた夏音と柚葉が次々と相槌を打つ。


「その蝶々って実はヨーグルトばかり喰ってる妖怪なんだろ?

 僕話したときあるぜ」


あどけなく笑いながら柚葉が自慢する。10歳としては平均的な体格だが、

ボーイソプラノの訓練で鍛え上げられた美しい声が特徴だ。


10歳か、こちらの話をまったく理解してないな。ま、理解しろという方が

無理か、と遙は思った。


「なにそれ?柚葉ったらアニメの話かなんかと一緒にしちゃってるんでしょ?」


クラシックバレエをやっている女の子特有の姿勢の良さで、ウェーブのある

綺麗な髪をセミロングにしている夏音が話を続ける。


「あ、話違くなるけど。今度ね、映像学科の久我原光(くがはら・ひかる)

 っていう子とつき合うことにしたの。明日、遙ちゃんに紹介するね。

 あ、ついでに柚葉にも」


「ついでってなぁにー」


「なに、そいつカッコいいの?」


「まぁまぁかな。クラスの女子にも割と人気あってね。それで、コクられたから

 絵麻(えま)ちゃんと玲(れい)ちゃんに相談したら、絶対つき合ったほうが

 いいって言うからつき合うことにしたの」


「お前って友だちに流されるタイプなのな」


「そうでもないよ。ちょっと背中を押してもらうだけ」


ニコニコする夏音の快活な笑顔は本当に可愛らしかったが、

明日のことを思うと、なぜか気が重くなる遙だった。



               🎼🎼🎼🎼🎼🎼🎼🎼🎼🎼



夏音のカレシとの初顔合わせも終わり何日か経つと、遙はまともに

食事をしなくなった。学校に行く以外はずっと六角屋根に閉じこもって

ヴァイオリンを弾いている。


心配した夏音と柚葉が主屋から夕食を持って六角屋根にやって来る。


「遙ちゃんの好きなピザとグラタンとシチュー。このサラダとミントティーは

 パパと一緒に私が造ったんだよ」


「悪いな。そこ置いといて」


遙の声に力が無いので、夏音の心配そうな顏がいっそう冴えなくなる。


「大丈夫だよ、具合が悪いわけじゃないんだ。僕にはこういう時間も

 必要なんだよ。心に栄養を貯めとく時間ていうのかな?」


「うん。何となくわかるよ」


夏音はやさしいから理解してくれようとするけど、この食事をしたくないという

心境を説明することは遙にとって本当に難しいことだった。


敢えて言うなら、サマセット・モームの「月と6ペンス」の月のほうに心が

行ってしまって6ペンスのほうに中々戻って来てくれない、ということなのかな

と遙は思った。


「遙ちゃん、僕ね、ヨーグルトの妖怪に遙ちゃんのこといじめないでって

 お願いしておいたから。きっともうすぐモリモリ食べれるようになるよ」


「それはどうも。てか、柚葉は何のこと言ってるの?」


夏音のほうを向いて事情を聞いてみる遙だが、夏音もまったくわからない

というように首を横に振る。


ところが信じられないことに柚葉の言っていたことは、夏音と柚葉が

主屋に帰ってからすぐにわかることになる。


夏音の作ってくれたミントティーを少しだけ飲んでからヴァイオリンの

練習に戻る遙。するとどこかから誰かに話しかけられた。


 それはシベリウスのヴァイオリン協奏曲ですか?


「そう、ほんとは僕の好きなパガニーニを練習したいんだけど、何でか

 この曲を弾いているんだ」


そして遙は気づく。今、誰に話しかけられたのだろう?

夏音と柚葉はもう主屋に帰ったはず。


 いや、うちは割とシベリウスが好きなので弾いていてもらおうかな、と思って。


遙は辺りを見回すが、声の主が誰なのかさっぱりわからない。腰を抜かしたという

わけでもないがソファにパタンと腰を下ろす。


 あの、遙さんは音楽のミューズに愛された美しい天才ヴァイオリニスト

 ですから、とにかく素晴らしい演奏がしたいとご飯も食べないで練習するという

 この状況はとてもストイックでしかもすごくロマンティックで物語上ものすごく

 いいと思うんですけど、柚葉くんからのクレームも入ったことですし、そろそろ 終わりにしてもらってもいいでしょうか?


「うわっ!どちらさまでしょうか?」


遙が叫ぶ。


 え、うちですか?うちはまぁ、遙さんから見れば神のような存在だと思って

 もらっていいと思いますよ。どうぞ神とお呼びください。


遙は思った。この、どうにも頭の悪そうな声の持ち主が神だと言うのか。


 あ、これは声というより、世界と世界を隔てた壁を通り抜けて届く思念波

 とでもご理解下さい。


遙は全神経と頭脳を集中して、今話しかけてくるこの存在が誰であるかを

推察しようとした。


この存在は、とてもじゃないけど神と言えるような荘厳にして偉大なるもの

では無い。それどころか適当にヨーグルトでも食べながらハーパンにTシャツで

パソコンの前に座ってこの世界を思い描いているようなヤツのような気がして

ならない。しかもヨーグルトをこぼしてパソコンの横に置いてあった

テキストをグチャグチャにして、学校の先生に「新しいテキストください」とか

言ってるヤツのような気がしてならない。


「お前が柚葉が言っていたヨーグルトばかり食べている妖怪か?」


唐突に話しかけてきた存在が、気を悪くしたようにぞんざいに答える。


 いや、妖怪では無かったですね。だから神だと言ってるじゃないですか。


遙がさらに神経を研ぎ澄ませて推測する。


こいつの家の冷蔵庫には「ヨーグルトのCMですか?」というほどたくさんの

ヨーグルトが入っているような気がする。


「いや違うな。お前はいつも冷蔵庫にヨーグルトをたくさん詰め込んでいる 

 ヨーグルトマニアだ!」


ヨーグルトマニアと呼ばれたものが一瞬息を飲んだ雰囲気が遙に伝わった。


 ご名答ですよ!うちは牛乳が飲めない体質なのでカルシウムを摂るために 

 400g入りくらいの大きなヨーグルトを1日1個は食べているので、いつも

 冷蔵庫に「ヨーグルトのCMですか?」というほどたくさんのヨーグルトを

 詰め込んでいる者ですよ。


自分が神だとか言い張っていい気になろうとしていた何者かの正体を見破った

ここら辺は、さすが遙がこの物語を背負って立つ主人公であり、その驚くべき

スキルの一部と言わざるおえないが、ヨーグルトマニアと呼ばれた者は

ここら辺の一連のやり取りについての整合性をつけるつもりは全くないので

何卒ご容赦下さい。



               🎼🎼🎼🎼🎼🎼🎼🎼🎼🎼



次の日の下校時。

コンビニに寄った遙の目にたくさんのヨーグルトが飛び込んできた。


「まだ夢を見ているようだ。それも『胡蝶の夢』とは似ても似つかない

 バカな夢……」


気持ちを切り替えようとして軽く首を振った遙がコンビニを出ると

その目の前に夏音のカレシの久我原光と3人の友だちが歩いていた。


「音羽夏音ってあの可愛い子だろ?スタイルも良くて、けっこう胸の大きいやつ」


「お前すごいなー。よくつき合えたな」


「それでもう、胸はさわったのか?」


「今度カラオケ行った時にさわってみるよ」


「まさかバイパス沿いのエッチなカラオケ屋行くんじゃないだろうな?」


「あ、あそこ?シャワーついてるカラオケ屋って笑えるよな」


「上手いこと言ってチャリで連れ込んでみるか?」


友人たちと卑猥な笑い声をたてる久我原の言葉を少し後ろから聞いていた

遙は思った。映像学科1年の久我原光。こいつは何だか気に入らないと

思っていたが、やはりその予感は当たっていたな、と。


「殴ってやる」


この殴ってやるという考えが、ジャージ姿でヨーグルトを食べながら

パソコンの前にいるヨーグルトマニアの考えに添うのかどうかはわからない。


だけど今、僕は殴らずにはいられないんだ!


「もう夏音はお前なんかとカラオケに行かないよ」


急に後ろから声をかけられてビクっとした久我原だったが、それでも

精一杯の冷静さを装って振り返る。


「あ、遙さん。お久しぶりっす」


言い終わる前に、久我原の体は遙のパンチで道路に沈められていた。



               🎼🎼🎼🎼🎼🎼🎼🎼🎼🎼



 そうか、殴っちゃったかぁ。まぁ仕方無いか。

 そしたらここからは現実ではあり得ない流れでこのままストーリーを

 進めちゃおうっと。そこら辺は物語のレトリックということで。


という声を、遙は聞いたような気がしたが、そんなことより今は

音羽家の夕食だということを意識して、目の前の料理に集中した。


「遙ちゃん、どうかした?」


遙の様子を気にした夏音が言葉を続ける。


「遙ちゃん、聞いてた?だからね、私ヒカちゃんに振られちゃったの」


「もう別れようって言って来たんだって」


と柚葉が補足する。ヒカちゃんとは久我原光のことである。


「いいんじゃない。あんなヤツ」


という遙に柚葉が不思議そうな視線を向ける。


「遙ちゃん、何か嬉しそう」


この話を聞きながら、もう一人食卓で嬉しそうにしている人間が居る。


「彼氏なんてすぐまた出来るさ」


それは子供たちの父親。小樽市立大学文化人類学部教授の

音羽悠里(おとわ・ゆうり)。


「そうそう。夏音にはほかにも楽しいこと色々あるしね」


これは子供たちの母親で、同じく小樽市立大学民俗学部教授の

音羽莉里子(おとわ・りりこ)だ。


「私ヒカちゃんとは仲良くなれると思ってたのにな。何か嫌な思いさせたり

 してたのかな?」


姿勢良く座っていた夏音が肩を落としてうつむく。

顏にかかった髪のせいで夏音の表情に影が落ちる。

こんな時でさえ相手の立場になってものを考えようとする夏音。


しかし真相を知る遙が剛速球のような一言を投げ返した。


「嫌な思いをさせられるとこだったのは夏音のほうさ。気にするなよ」


いかにも何かを知っていますというこの一言で、音羽家全員の視線が

遙に突き刺さったことは言うまでもない。



               🎼🎼🎼🎼🎼🎼🎼🎼🎼🎼



あれだけの力で久我原光を殴ったにも関わらず、遙は手を痛めることも

学校で問題になることも無かった。


つまりヴァイオリンを弾くことに何の支障も起こらなかった。


「ということは、これが僕が僕であるということの正しい行動だったんだな」


遙は少しほっとしながらも、ヨーグルトマニアの手のひらで転がされているような

悔しさを感じた。


「なんかもっとヨーグルトマニアを困らせてやる行動は無いかな?もっと

 大幅に設定を変えざるおえなくなる何か……」


この一言をきっかけに空気がザワザワするような、誰かが不安を感じたような

雰囲気が漂い出した。


 あの、やめてくださいよ。やっと考えたみなさんのキャラとかこの設定とか

 変えるのすごく大変なんですから。


「え?」


六角屋根でヴァイオリンを弾いていた遙が楽器を肩から降ろす。


「やめてやらないことも無いけど、お前が何かを譲歩するという

 条件つきならな」


 いや、そういうこと言う時点でもうキャラ変わっちゃってますから。

 遙さんはもっと爽やかで聡明で優しくてカッコよくて美しくて、

 あとスポーツなんかもやろうと思えばけっこう出来る、天才ヴァイオリニストの

 設定なんですからね。


「あ、オレ体育苦手。体育の成績2だから」


 きゃーーーーーー!そんなこと言わないで下さいよ!イメージ違くなるから

 やめて下さいよ!しかも自分のことオレとか言ってるし。遙さんは自分のこと

 オレじゃなくて僕って言う設定なんですよ。タイトル見て下さい、タイトル!


「じゃあ、何をどう譲歩してくれるんだよ?」


 そうだなー、どうしましょうか?


「まずは好きな食べ物を変えて欲しいかな。俺の好きなのはピザじゃなくて」


 きゃーーーーーーーー!!ピザっていうのはアレですよ。友だちに、

 男の子は何の食べ物好きだとカッコいいと思うか?ってアンケートまで取って

 ピザにしたんですからね。イタリア料理が圧倒的に多くてフレンチはさすがに

 ヒクわ、みたいな感じですごい苦労してピザにしたんですからね!


「そんなこと言ったってオレ、もっと好きなのは他に……」


 わかってますよ。どうせ牛丼とかハンバーガーとかなんでしょ?DKの

 好きなものって。


「いや。牛丼とかハンバーガーよりもカツ丼のほうが好きかな」


 ほー、カツ丼でしたか。わかりました。だったらカツ丼でいいですよ。


音羽遙。小樽市立芸術高校2年。ヴァイオリン科。去年、シベリウスの

ヴァイオリン協奏曲で小樽国際というコンクールの本選まで進んで3位入賞した

天才だ。5月21日生まれ。ふたご座。A型。そして、好きな食べ物はカツ丼。


ほら、ここ譲りましたよ。これでいいですか?好きな食べ物はカツ丼って。


そうした途端に遙の表情から厳しさが消えた。


「うん。ここ譲ってもらっただけで何か肩の荷が軽くなったよ。無理矢理

 設定されてしまう僕の人格っていう重力が少し小さくなったような気がする」


 あー、そうですか。たったこれだけのことで?やっぱり食べ物のことって

 大きいんですね、どこの世界でも。しかもオレって言うのやめて僕って

 いう言い方に戻ってくれてるし。


「うん。今までちょっと乱暴になってて悪かったね」


 いえ、それにしてもうちだって……うちだってね。

 何にも無いところから遙さんという人格を作り出すのに

 どんなに苦労してるか。この苦労わかります?


「どうせヨーグルト喰いながら適当にやってるんだろ?」


 そんなこと無いですよ。誠心誠意やってるんですよ。


「本当か」


 はい。それはもう大変で、まるで、まるで……


「まるで?」


 恐山のイタコになったような気分ですよ。もうクタクタなんですよ!


その言葉を聞いた遙はヴァイオリンケースにヴァイオリンを仕舞い

ふたをバタンと閉め、そして大声で言った。


「お互いクタクタになってて何か意味あんのかよ!?」



                             《1章・終わり》

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僕が僕であるという重力がスゴすぎて僕はもうクタクタだ ヨーグルトマニア @fuwa_fuwa_otaru

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