特定大規模テロ等特別対策室前特務捜査官 天木青嵐

 天木青嵐。

 特定大規模テロ等特別対策室前特務捜査官。

 東京大学二年次に政策担当秘書資格試験に合格。卒業後、国会議員政策担当秘書として様々な議員の下を渡り歩く。

 特定大規模テロ等特別対策室発足時、当時秘書を担当していた議員の代理として第一回会議に出席。そこで「なろう小説」の知識を披露、及び「No Any LAW Servant Hazard」ナローシュという呼称を提案。毒者による観測によるナローシュの能力行使の有無の仮説を自らが毒者であることを利用し立証。適性に問題なしと認められ、特務捜査官へと登用。

 アンサモンシステムの第一回運用においてアンサモン第一号と接触。交渉にあたり、逆上したナローシュによって殺害される。

「条件は、確かに揃ってるんですよ」

 安村龍造はいつの間にか職員の溜まり場となっているアンサモンシステムの機材が占有するスペースで、集まった面々が一様に口を閉ざしていることに耐えきれなくなったのかそう口にした。

「突発的な外的要因による死――よく例に挙げられるのはトラックですが――とにかく、天木さんの場合は、アンサモンしたナローシュによる殺害という形で、この条件が」

 安村はそこで詰まった悲鳴のなりそこないを上げて口を噤む。稲は自分が知らずに視線を安村に向けていたことに気付き、ゆっくりと目を伏せる。

 全員が沈痛な面持ちで稲を見ていることに気付き、目を上げずに大丈夫だと身振りで示す。

「天木さんは、我々にとって必要な方でした」

 一柳全司特定大規模テロ等特別対策室室長。彼をはじめとした特テの職員全員に、青嵐の死は重く圧し掛かり、同時にこの組織を支える地盤ともなっていた。

 彼女の存在は、それほどまでに重く、途方もなく大きかった。

 誰に対しても分け隔てなく慇懃に映らない丁寧さで接し、冗談も本音も建前も、自由自在に使い分ける。

 経歴から推察される通りに凄まじく聡明な知性を持ちながら、それを鼻にかけることもせず、だが間違いなく理知的な言動を徹底し、気付くと相手の懐までするりと入り込んでしまう。

 彼女を嫌いになることができるのは、彼女のことを何も知らず、あまりに煌びやかな来歴しか見ずに身勝手な想像力を働かせる者だけだった。ひとたび彼女と面を合わせて数度言葉を交わせば、それだけで誰もが青嵐の虜になってしまう。

 実際、青嵐の噂は政界でも広く知られていた。主にはその整った美貌ばかりが伝わったが、青嵐はそれすら自在に利用していた。顔だけの女だとなめてかかってくる相手には下手に出ながらも、会話の節々に強烈なフックを仕込んでいく。話し終えた相手は気分よく去るが、時間を置くと自分が手玉に取られていたことに愕然とすることになる。その意図に気付けないような相手には、いくらでも馬鹿だと思われて構わない。

 青嵐の名はじわじわと政界に浸透し、次の選挙では強力な対立候補を潰すための鬼札として各党が注目していた。

 そのさなか、青嵐は特定大規模テロ等特別対策室に特務捜査官として参加することになった。

 失望の声も上がっただろう。だが、青嵐は自身も毒者であることから、この事態の危険性を誰よりも理解していた。選挙に出馬するよりも即物的な国家の急務であると気炎を上げ、その能力を遺憾なく使って特テを纏め上げた。

 一柳は青嵐の死の後始末が終わったあとに行った演説で、この組織は天木青嵐が作ったものであると臆面もなく言い切った。そしてその責任を背負い、絶対に逃げず、特定大規模テロ等特別対策室にこれ以上の死者は出させないと宣言した。

 氷川稲が特定大規模テロ等特別対策室に配属されたのは、ちょうどその演説が行われた日だった。稲はそれまでの一柳を直接は知らなかったが、この人も彼女によって大きく変わった人なのだとすんなり理解できた。

 天木青嵐は人を変える。

 ある種の魔性とすら言えるかもしれない。彼女に深く関わった者は皆、その影響を多分に受けて全く新しい視界が開けてしまうのだ。

 あまりに大きな置き土産だ。青嵐の死によって、特テは文字通り一つに纏まった。

「その彼女が、私たちと対立する――それも、ナローシュとして蘇るという形で。これは、考え得る限り最悪の展開です」

「でも、天木さんとなら、協力することもできるんじゃ……?」

 榎田靖枝がおそるおそるといった調子で尻すぼみの疑問を呈する。青嵐とアンサモン第一号との直接接触を起こしたのは靖枝の手によってである。彼女もまた青嵐の死――あるいはそれ以前の青嵐の有り様に多大な影響を受けている。

「彼女がナローシュであることは、間違いありません。天木青嵐が生きているという時点で」

 海山康一は力なくそう呟く。海山を特テに勧誘し、そのための材料を揃えたのはほかならぬ青嵐だ。彼女とともに働くことができるということ自体に大きな魅力を感じたから、海山はここにいる。

「念のため内調のほうからも網を張っていますが、そちらからは何もありません。やはり表立っても裏からも、こちらの目に見える行動は起こさないでしょう。彼女はそれができる人です」

 五代衛は努めて淡々とそう報告する。青嵐には何度も冷や汗をかかされてきた。こちらの思惑もそのさらに上の策略も見透かしているような澄んだ目をして、だが直接五代を問い詰めるような真似は絶対にしなかった。まるで、五代が特テに必要なのだとでも言わんばかりに。

 誰も彼もが青嵐の掌の上だ。彼女に勝てる者などいるはずもない。

「とにかく、彼女の指定した八月九日。この日を最大限の警戒態勢で迎えるほかありません。それも、表沙汰にならない形で」

「全国一斉テロ警戒日間――とか、口実は作れそうですよね? 夏休みですし」

 安村の提案に一柳は苦い顔をする。

「あと二日でそれをでっち上げるのは骨が折れそうですが」

 そして八月九日は、何事も起こらないまま過ぎていった。

 翌日、八月十日。稲は一人、名古屋市内にいた。

 稲は当日に特別休暇を申請し、無事承認された。無論常時待機状態であることは変わらず、通報が入った時点で即座に帰還せねばならないが、過去最大の緊張と厳戒態勢の中迎えた八月九日を越したことでいくらかの精神的余裕が生まれていた。

 加えて特テの面々は、誰もが稲を心配していた。あの雨の夜以降、明らかに様相が変わってしまった稲が少しでも落ち着けるのならと、一柳は喜んで休暇を認めてくれた。

 稲は灼熱のアスファルトの上を黙々と歩いた。駅からはそれなりに距離がある。

 ビルとビルに挟まれた今にも潰れてしまいそうな小さな喫茶店。すぐ近くに全国にチェーン展開している喫茶店があるので、特に目立つものもないこの店を訪れる者はほとんどいない。

 暗い店内に入る。証明の弱い店内は暗く、エアコンが全開にされており風の音が響いている。店主は顔も出さない。いつものことなので気にせず、稲は一番奥のボックス席へと歩を進める。

 店全体を見渡せる定位置に、彼女はアイスコーヒーを飲みながら座っていた。

 稲は懐に忍ばせた拳銃にそっと触れる。相手はそれを気にするでもなく、コーヒーをストローで吸い尽くし、ずずっ、と音を立てる。

「天木、青嵐」

 稲はなんとか、目の前の相手の名を呼ぶ。青嵐はストローをくわえたまま目だけを上げて、稲の顔を覗き込む。

 どれだけ長い沈黙だったろうか。それは青嵐がストローを口から離して、笑顔を浮かべるだけの間だったのだけど、稲には無限にも思える時間に思えた。

 稲は祈り続けていたからだ。

「きたんや」

 どこは挑発的な関西系のイントネーション。それを聞いた途端に、稲はその場に崩れ落ちた。

「なにぃ、どうしたん?」

 青嵐は腰を浮かせ、テーブルの横に倒れ込んだ稲の身体に触れる。

 稲はこらえきれずにその身体に縋りついた。

「先輩――先輩――」

 どうにか言葉にできたのはそれだけだった。あとは全て、嗚咽に呑み込まれてしまったから。

 稲は泣いていた。恥も外聞もなく、声を上げ、涙と鼻水を流れるに任せ、青嵐の身体に縋りついてただ泣いた。

 青嵐が、先輩が、稲の知っている――稲だけが知っている青嵐と、何も変わっていないとわかってしまったから。

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