無職 小山誠司

 暗くなった空でもはっきりとわかる、分厚い暗雲が立ちこめ始めていた。

 酷暑のあとの夜。アスファルトは未だ日中の太陽熱をたっぷりと取り込み、日差しがないことを感じさせない。

 急に冷たい風が吹くが、それでもこの熱気を散らすことはできない。風とともに湿度が上がってきている。蒸し暑さのほうが優勢なのに加えて日中の残り火にそこら中から排熱されるエアコンの室外機の唸り。

 パトカーから外に出るとそのむせ返るような夏の夜気に胸が詰まる。稲より先に降りた佐藤はじっと現場である雑居ビルを見上げていた。

「ありがとうございました。所定の位置にパトカーを置いてすぐに避難を」

「ええ、お気をつけて」

 運転を買って出た山内は頷くと、それだけ言ってパトカーを発進させた。

 倒れたという機動隊員たちはすでに撤収が完了している。ここから半径300メートル以内にほかの人間はいない。

 このビルに潜む、ナローシュ、そして毒者を除いて。

「妙だな。結界のようなものは張られていない。場所はサーチした地点と合致するから、ここで間違いないはずなんだが」

 パトカーに搭乗した時から、稲は頭の回路を常に毒者のものに切り替えていた。ナローシュによる強襲に対応できるのは残念ながら同じナローシュである佐藤しかいない。佐藤は常に臨戦態勢をとり続けていたが、その間に襲撃はおろか、「雷帝の裁き」の発動もなかった。

 エレベータは停電が頻発するこの状況での使用は危険が高すぎる。稲と佐藤は外の非常階段を使って、十階建てのビルの各階を順に捜索していった。

 ビルの外観に破壊の痕がないことから、おそらく敵は少なくとも最初は屋上に居座っていたはずだ。だが現状、敵の魔法の発動が見られないことから、ビル内部に潜伏している可能性も大いにある。

 佐藤の索敵スキルは三次元マッピングに対応していなかった。一体どんな平易な異世界だったのかと溜め息が出る。

 一階はエントランスだけ。稲はエレベーターを開けて、二階のボタンを押してすぐさま二階へと駆け上がる。慎重に索敵しながらエレベータまでたどり着くと、開いたドアの部分にタブレット端末を置いておく。これでドアは閉まらず、自動的に一階へと戻ることもない。

 二階の探索を終えるとエレベーターの三階のボタンを押し、タブレットを引き抜いて三階へと駆け上がる――これを十階まで繰り返し、その間にほかの階のランプが点灯することはなかった。

 敵のエレベーター使用を封じ、使用しようとすれば場所をあぶり出す。後者は失敗だったが前者は成功した。

 そうなればやはり、敵の在所は明らかだった。

 佐藤に罠の確認をさせてから、屋上へのドアを開ける。ここで稲は頭を通常のものへと切り替える。毒者でなくなった稲が観測している状況では、ナローシュは力を振るえない。敵の無力化――そして両手で持ってもずしりと重いM360J SAKURAで仕留める。

 佐藤が必要だったのはここまでだ。ナローシュによる観測外からの奇襲と、仕掛け罠への対応。それさえすめばあとは稲ひとりでやれる。

 佐藤を観測下に収め続けるため、ほぼ同時に屋上に躍り出た稲は素早く全体を見渡す。

 だだっ広いわけではなく、巨大な室外機があちこちに乱立しており、隠れられる場所は多い。複数の太いダクトが地面を走っており、足を取られれば命取りになりかねない。

「いる。十時の方向。距離――1メートル」

 佐藤の索敵により、ナローシュが室外機の一つの裏に潜んでいると判明する。

「私が一時の方向から。佐藤さんは同時に直進、対象の反対側についてください」

 頭は常に非毒者の状態。作戦の成功は稲がいかに素早くナローシュを視認するかにかかっている。回り込むことで少しでも奇襲の危険を減らし、囮として佐藤をぶつける。

 ダクトを踏まないように、だが視線は水平に保って屋上を進む。佐藤はすでに室外機に張りついている。

 ハンドサイン――室外機の横につくように指示を出す。そのまま室外機の裏を覗き込める位置まであと二歩というところで、佐藤が逸る。

「動くな!」

 一気に相手の前に躍り出て、そう叫ぶ。稲は舌打ちをして、大股で位置を変えて相手を観測下に収める。

 口を半開きにして膝立ちのまま固まっている――その顔は間違いなく写真で見た小山誠司であった。

 様子がおかしい――さすがの佐藤もそれに気付く。放心したように虚空を見つめる目。佐藤の怒声にも反応を示さない。

 どういうことだと駆け寄ろうとする稲は、風によって運ばれてきたに愕然と足を止める。

 初夏の香りがした。

「小山誠司の無力化には成功しています」

 耳の中で滅茶苦茶に気泡が弾けるように、その声に身体が震えだす。

 一つ奥の室外機の陰から現れたその姿。日が暮れてもなお明るい栄の夜空。噎せ返るような真夏の暑気。そこに一滴、大粒の雨が落ちてくる。

 怜悧さを感じさせながら、曇った目の男に向けて女性らしさも強調する引き締まった漆黒のパンツスーツ。長く伸ばした黒髪はアップにしてまとめ、相手の心理に隙を作るために少しだけ自然に垂らす。

 なにも変わっていない。

 だから稲はしばらく、全てを忘れてその姿に意識を吸い込まれていた。

「何者だ!」

 黙れ。喋るな。そのノイズが不幸にも、稲を現実へと引き戻す。

「私は天木あまき青嵐せいらん。特定大規模テロ等特別対策室特務捜査官です」

 どんな相手だろうと決して礼節を忘れない言葉遣い。それが――ここまでもどかしく感じるのか。

「特定大規模テロ等特別対策室の? なら――」

 銃声。スーツの裏から取り出したのは稲と同じ拳銃。それをしっかりと両手で構え、佐藤の足元に向けて発砲した。

「こいつ!」

 稲は卑しくも懇願するようにその顔を見つめる。だが彼女はこちらを向かない。しっかりと佐藤を視界に収め、次の銃弾は心臓にぶち込むと銃口を上げて誇示する。

「なめやがって! なにっ?」

 佐藤が困惑に宙に目を走らせる。いや、違う。佐藤は見ているのだ。自分のステータス画面を。

 稲の頭は非毒者のままである。どれだけ動揺しようと、それを勝手に切り替えたりはしない。

「同一空間における毒者占有率」

 そのひとことで稲はすぐに理解する。

 特定大規模テロ等特別対策室特務捜査官の条件。その第一は毒者であること。

 この空間における毒者と非毒者の割合は、毒者のほうが勝っている。佐藤というナローシュは言ってしまえばすなわち毒者である。

「クソ! どうせお前が犯人なんだろ! じゃあ消えろ! 食らえ!」

 稲は悲鳴を上げそうになっていた。佐藤は全力の魔法を目の前の相手に向かって放つ。その速度に、稲の発声は追いつくことなどできない。

 そして何事もなかったように平然と立っている相手を見て、佐藤のほうが悲鳴を上げた。

「馬鹿なっ! 最大火力だぞっ! なんだお前は!」

「〝無限に萎む風船バーストルンペンガイルイフ〟」

「は?」

 発砲。銃口は下げていない。すなわち銃弾は佐藤の胸を貫く。

 だが、一滴の血すら流れない。はるか後方で着弾の音が響いた。

「〝自在透過オールクリアイフ〟」

「なんだと聞いてるんだっ!」

 理解が及ばずに逆上を始める佐藤。なんと忌まわしい姿であろうか。なぜこんな男があの人と会話の真似事に興じている――。

「あなたと同じ、死人ですよ。No Any LAW Servant Hazard――ナローシュというね」

「嘘――」

 稲はやっと、それだけの息を吐き出すことができた。身体の中にはいくらでも言葉が詰まって今にも破裂しそうなのに、どうやってもそれを漏らすことができなかった。

 わかっていたのに。

 天木青嵐は死んだ。

 だから稲は今、ここにいる。

 だから彼女がここにいるのは、つまりそういうことなのだと、とっくに気付いていたはずだった。

 それを確かめることが怖くて仕方がなく、稲は完全に言葉を失くしていた。先延ばしにできるのなら永遠に先延ばしにしたかった。

 彼女がそんな優しい人ではないとも、知っていたのに。

 青嵐は稲に一瞥をくれると、少しだけ頬を緩めた。

 あまりに――ずるい。

 ナローシュは侮蔑すべき対象であると、稲は理解していた。彼らは異世界での成功体験から、簡単に現実の容赦のなさを忘却する。都合のいい異世界に染まった人間は、排除するか、兵器として運用するしか使い道がない。

 なのに、なぜ、そんな顔をする。以前と変わらない笑顔を見せる。

 稲は全身が震えるのを止めることができなかった。理解している。彼女はナローシュ。すなわち今ここで排除すべき対象。だけど。だから。

 彼女はもう稲のほうを向いていなかった。佐藤へと一歩、歩み寄る。

「今日はただの挨拶です。小山誠司と戦闘を開始し、彼の魔法で目を引いてあなた方を呼び寄せたかった。予想通り時間がかかったようですが、おかげで小山誠司は無力化されました。彼の魔法の全てを私の戯法げほうで無力化していたら、いつの間にか彼自身から生きる気力がすっかり失われていったようです」

「お前の目的はなんだ!」

 場違いな胴間声を上げる佐藤に、急に稲の意識が吸い寄せられていく。

「全てのナローシュの排除。アンサモンシステムの根本からの解体。私の責務です」

「なら、なんで特定大規模……に出頭しない!」

「特定大規模テロ等特別対策室と、私の目的は相容れないからです」

 普段ならば両手でしっかりと握ってもなお重たくて仕方のなかった拳銃が、異様に軽く感じた。稲は流れるように銃口を背後から佐藤の頭に向ける。簡単な方法だ。なぜ今まで思いつかなかった。この男を排除してしまえば、すぐにわかることではないか。先輩が私の知っている先輩のままなのか、確実に確かめられる。稲はなんの躊躇いもなく引き金を――

「氷川さん」

 青嵐の声で我に返り、稲は手から拳銃を取り落とした。

「さて、ではお暇するとしましょう」

「天木ぃ、お前、やりすぎ」

 聞き覚えのないトーン。だがその声は知っている。

 山内が苦笑を浮かべながら、屋上に上がってきていた。

「えっ? こいつ警官の――」

「ああ、すんませんね氷川さん。知らなくて当然か。あんたが東名とうめいに入学した時には俺もう卒業してたから。でもまあ、俺もあんたと同じ――こいつに人生を狂わされた人間の一人なんだわ」

 心臓が凍りついたまま跳ね回るような悪寒と怖気。わかってはいたことだった。彼女はいくらでも自分の味方を生み出せる。

「つーわけで、行くぞ天木。全く、警官がPCパクったなんて前代未聞の不祥事やらせるか普通?」

「すみません山内さん。ではまた近いうちに。そうですね、『しあさって』に、あの場所にいます」

 青嵐と山内は非常階段から階下へと下り、山内の回したパトカーで逃走した。

 佐藤がわけのわからない怒声を上げ続ける中、稲はただ茫然とその場にくずおれていた。

 夏の夜の雨は豪雨となって、稲の身体を強く殴っていた。

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