始まりに向かう終わりの世界

紅藤あらん

始まりに向かう終わりの場所

 これは長い追いかけっこの終わりかもしれない。

「久々に逢えたね」

 彼女の顔をもう一度見ることになるとは思わなかった。もう自分の、とても永すぎる時間の中でも逢えないと思っていた。

 それが彼にとって償いだったから。

 話はどこから巻き戻せばいいだろうか。戻しすぎるにはあまりにも途方のない時間が流れている。

 彼は、彼女の意志によってか、それとも彼自身の意志によってかは分からないが、現在の生を受けた。父の顔も母の顔も忘れてしまった。彼らが居たかどうかさえ正確には分からない。

 気が付いた時には、彼女との追いかけっこが始まっていた。逃げる彼女と追う自分。それはいくつもの世界を駆けるものだった。

 世界が何度も構築されていく様を彼は見ていた。

 ある時には機械が支配する世界を。またある時には、自分達を除く人間達が居なくなった世界を。

(人間なんて嫌いだと排除した彼女にとって、あの時の俺ほど嫌な存在はなかっただろうな)

 いくつもの構築される世界は【彼女の意思】によってだった。それが彼女の能力。

 世界を創る力。

 世界によっては神と崇められる存在。またある世界では異端者と指差される存在。

 数多にある世界の中で、その存在も様々に存在している。彼女はその中の一人だった。

 そして彼は、そんな彼女の世界から弾かれながら生きている者だった。

「本当にここは綺麗だね」

 彼は視界が良好になった双眸で天を仰ぐ。そこに空は存在していなかった。

 幾重にも重なった木々はアーチを描いて、彼女の眠る寝台を形成している。大樹の中に抱かれた彼女はまるで核のようだ。

 彼は手のひらを頭上に伸ばす。その指先に光を溜めた露が落ちてくる。

「嬉し涙かな?」

 そんなキザなことを言えば、返ってくる言葉は『何を言ってるの』だろう。眉間に皺を寄せて、尖った唇で。

 別に彼女が動いていた時に言ったことはない。そんな性格ではなかった。

『案外、平凡な顔なんだ』

 彼女がここに抱かれた後、共に旅することとなった少女は、彼のトレンドマークであった狐の面を剥いでそう言った。時間にして数十分前のことだ。




「フォック」

 それが新たに自身に与えられた名。命名したしたのは目の前で終焉の流れを見つめている少女ヴィア。

「なんだい?」

「ずっと長い旅、してきたね」

 唐突にそんな感傷じみたことを言う彼女に、フォックは笑わなかった。そうだね、と頷く。

「色んな世界を見てきたね」

「どの世界が好みだったかな?」

「行き過ぎて一つに絞れない」

 眉をハの字にした彼女は、そう言って首を竦めた。

 本当に様々な世界を巡った。そうして自身と同じく世界から弾かれ彷徨うモノも、世界を構築するモノも、世界の終わりも見てきた。

 美しい世界だけではなかった。憎悪に塗れた世界の中で駆け抜けた危機もあった。

 そんな中、ヴィアは唐突に聞いてきた。

「ねぇ、私達にとっての最初の世界って戻ることができないの?」

 始まりの世界。世界と世界の狭間。

 それが此処。新たに構築される世界から弾かれた者達が通過していく、ヴィアにとっては【世界】と認識している場所。

「どうしてだい?」

 世界が終わりを迎え、大洪水とともに生命の源が流れている風景を見ながらフォックは問い返した。

 彼女は煌めく源を見つめながらぽつりと呟く。

「また、あの美味しいコーヒーが飲みたくなったの」

「確かに、君がコーヒーを飲んだのは、こんな光景を見たあとだったね」

 遠い記憶のはずだが、まるで昨日のことに思い出せる。彼女が共に自身の使命を果たすと決めた日。

「それにしてもあそこに戻るまですることかな? 次の世界でもいいじゃないか。コーヒーがあれば、の話だが」

「あそこのコーヒーが一番美味しかったから。最近あまりいいの食べられなかったし」

「確かに。食に関しては外ればかりだったみたいだね。食べなくてもいい身体だが、やっぱり味覚がある以上いいものを口に運びたくなるものだ」

 動物の形をした口元に指先を当てる。

「フォックはその面に食べさせるの」

 旅をしてきて、フォックが面を取ったことは一度もない。これが彼にとって顔だというのなら仕方がないが、そうではないことはさすがに分かる。訳があって素顔を隠している。

 その答えはきっとコーヒーやクッキーが美味しかったあの世界にある。

 ヴィアは自身の中で至った結論を確認するために、この案を出したのだった。

 長く旅した仲間のよしみで、そろそろ恩を返すために。

 お節介だと言われてもよかった。

 その面の向こうで時折見る哀しい瞳にさよならすべき時かもしれない。

「帰ろうと思えば帰れるが……」

「なら帰ろう。それとも難しいの?」

「難しい問題ではないと思う。あの時の場を思い出せるのであれば簡単にひかれ合うだろう」

 フォックの言うことは全てが正しかった。だからこそヴィアは彼を信頼している。今願えば、あの世界はすぐそこだ。

 しかし帰りたくないのか、彼の言葉は歯切れが悪くなっていく。

 じっと見つめていると、狐面の向こうの目と目線が合った。

「本当に帰りたいのか?」

「帰りたい」

「次は美食家達が住む街でありますように、と願う選択肢は」

「ない。フォックが帰りたくないって言うのなら別だけど」

 無理強いはしたくなかった。それでも、行く選択になりますようにとヴィアは心の内で願っていた。

 面の向こう側で溜め息が漏れる。

「では帰ろうか。あの場所に」

「ありがとう」

 零れた言葉に彼は『いいのさ』と言いたげに首を軽く振る。そして持っていたステッキを空中に叩きつけると、そこから紫の霧が噴き出した。それは二人の周りを漂い、そして視界を奪った。

 彼以外、何も見えない。

 ヴィアは瞳を閉じて、あの場所を想う。コーヒーの美味しい、水の街。全てが流れていくところへ。彼の想いのみが留まるあの世界へ――。

 衝撃はなく、また、着いたという感覚もなかった。

 いつの間にか椅子に座っていた。目の前にはフォックがいて、テーブルにはコーヒーが湯気を上げている。

「戻って来たんだね」

「長居は出来ないけれど」

 そうなんだ、と思いながらカップに手を掛ける。一口飲むとあの時と変わらない味が広がる。周りを見ると今日も人々が世界から世界へと流れていく。その風景が、過去に来た時と重なり、時は流れているはずだが止まっているかのように錯覚した。

 目の前の男のように。

「それで、何故もう一度戻ってこようと思ったのかな?」

 その問いは唐突で、しかしヴィアは驚かなかった。

 ゆっくりと咀嚼していると小人がバケットにカップケーキを持って現れる。それをヴィアは貰いながらも、口には付けなかった。

 フォックは催促せず、ただただじっとヴィアを仮面の向こうから凝視している。

「何でだと思う?」

「何でだろね」

 平行線の会話はヴィアが折れなければいけないようだ。また疑問をぶつけたところでふわりとかわされる。

 フォックはここに戻ってきた理由を解っている。

 ヴィアは壁をぼんやりと見つめてから、口を開こうとした。と、その口が中途半端な形で止まる。

 地面を揺らすほどの鐘の音が突然響き渡った。

 荘厳なその音色にヴィアは音源を探るように立ち上がったが、フォックは冷静に足を組み替えるだけだった。周りの者達はざわめいているのに彼の鼓膜には音が届いてないかのようだった。

「外に出てみよう」

「その必要はないのではないのかな。この音だってこの世界の些細な出来事のひとつだろう。そのうちに止むさ」

「些細なひとつなら、出ない理由にもならない」

 彼の腕を強引に掴んで、扉を開ける。その時には音は止んでいたが、彼女の足は止まらない。煌めきを内に秘めた噴水を曲がり、ほとんど人のいない通りで足音を響かせて進む。

どこに連れて行かれるか分かっていたが、フォックは抵抗しなかった。

 やがて、それは突然視界に現れた。

 天を貫かんばかりの巨木。神話の言葉を借りればユクドラシル。

 役目を終えた創造主のゆりかごはただ静かに待っていた。

「君がここに来る理由はないね」

「貴方がここに来る理由はある」

 まるでその言葉を待っていたかのように、またひとつ鐘の音が鳴った。どうやらあの音はこの巨木が鳴らしているようだった。

「呼ばれたんだ……」

「え?」

 彼が小首を傾げた瞬間、ヴィアはその仮面に手を掛けた。抵抗感もなく、あっさりと狐面は取れる。

「案外、平凡な顔なんだ」

 と、突然フォックの足下に大穴が空いた。ヴィアは躊躇いなくその大穴に彼を突き落とす。

「帰ってきた時にこれ返すから。彼女に会ってきて」




「本当に彼女は強引だ」

 気がつけば、大樹の内にフォックはいた。そして、目の前にずっと恋い焦がれた彼女がいた。

 いつもの世界を創りあげ、その多重世界の影響により、数多の世界を危機に晒した大罪人。

 またひとつ雫が落ちてきて、今度はフォックの頬を濡らす。

「君はどうして世界をあんなに創ったんだい?」

 あの追いかけっこの日々の中で何度も聞いた言葉。いまだにその答えを彼女の口から聞いてはいない。今、問うたところで彼女はもう答えないが……。

 永遠の眠りの中で彼女は彷徨っている。

 フォックは彼女の黒髪を梳いた。眠っている今だからこそ、触れられる。

「捕まえた」

『捕まった』

 フォックの瞳が見開かれる。

(今、声が……)

 動揺する彼を小馬鹿にするように、彼女の笑い声が脳内で反響する。

 これはこの大樹が見せている幻想なのだろうか。それとも彼女自身の意思なのだろうか。

 縋り付くように彼女の頬に額に触れる。

(もう一度、声を)

 罵声でもなんでもいい。もう一度聞かせてほしい。

 大樹に大穴が空いたのも、彼女が突然ここに戻ってくることを提案したのも、全てが君の意思であるのなら。

 答えてほしい。

「君にとって、俺は何だったんだ」

 何故、自分だけが変わる彼女の世界の中で残っていたのか。

 答える気がないのか、彼女の笑い声すらなくなった世界で彼はもう一度問う。

「俺は、君にとって特別な何かだったのか?」

 自身の中に灯った焔の名と同じであるのなら。

 またひとつ鐘が鳴る。それは彼女の返答のように思えて……。

『嫌いだったら、きっと消すわ』

 その声は唐突に戻ってきた。彼女の口は動かない。それでも確かに、聞こえる。

『ねぇ、私は動けないの。だから、様々な世界を見せて?』

「……全く君は傲慢だ」

 様々な世界は見せることが出来る。自分はそういう存在だ。世界から弾かれて、固定されていない存在。だから、彼女の願いは叶えられる。

「付いてくるかい? 俺一人旅ではないけれど」

 ヴィアを引き離そうとは考えない。きっと居ても彼女は気にしない。

 人を嫌って、理想郷を創ろうとして、失敗して……そんな中でフォックだけが存在を許された。そして彼女の暴走を止めるために動き出した日々を、彼女は彼女なりに楽しんでいたのだろうか。

 きっと、今度の旅も楽しむのだろう。

 世界にやっと許されたから、自分達とともに行きたいと声を上げたのだろう。それがヴィアの心と共鳴した。

 返答に答えるかのように蔦が一本降りてくる。それにフォックは手に掛けて、彼女の手を伸ばす。

 彼女の四肢は動かない。それでも指先に温もりが宿った気がした。




「そういえば、なんで仮面を付けていたの?」

 ヴィアが問いかける先で、フォックは狐面を付け素顔を隠した。

「気分さ」

「そんな感じには思えないけれど……」

 結局彼は何も教えてはくれない。それでもいいか、とヴィアは思う。教えたくなった時に教えてくれるだろう。

『私が平凡な顔って言ったからかしら?』

 鐘の音に混じって誰かの声が聞こえた気がした。

「個性つくりたかったんだね」

 ヴィアのその声に、フォックは慌てて辺りを見回す。仮面を付けていても分かるほどの狼狽えるその顔に、ヴィアは微笑んだ。

(大丈夫、貴女のものを取る気はないよ。私にとっては師匠のようなものだから)

 フォックの心にいるのは一人だけだ。その人と共にいられるのなら。

 弟子にとってこれ以上の幸せはない。

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始まりに向かう終わりの世界 紅藤あらん @soukialan

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