おかえりなさい

訪橋 美喜(わはし みき)

(1話 完結)

 おはよう。


 わたしはベッドの上で伸びをし、傍らに眠るけんの顔を覗き込んだ。北向きの古びたアパートは、朝のわずかな時間しか陽が射さない。


 いつも通り、陽光に照らされた健の端正な横顔を見つめるはずだった。なのに今日の健は疲れきり、目の下には深い隈ができていて、眠っているのに泣いているように見える。嫌なことがあったしるしだ。


 わたしは黙って、健の脇腹あたりに自分の身体を寄り添わせた。健の身体から清潔感のある花の香りが、微かに匂い立つ。ジャスミンの花だ。またか。思わずため息が漏れた。心が揺れるのを、止められない。


 最近ずっと健の身体からは、少しだけど、この香りが感じられる。花など縁がないはずだし、いつも同じ香りというのが、あやしい。


 ジャスミンの香りをまとっているのは、美しくて聡明な女性だろうか。そして、やさしい眼差しを健に向け、健が幸せそうな笑顔を返すのか。


 そこまで思い描くと、奥歯にぐっと力が入った。


 その時、健が突然寝返りを打ち、わたしを引き寄せた。起きたばかりの健と、目が合う。なんて、さびしそうな瞳なんだろう。健の心をいやしたい。強くそう思う。その時、健の大きな手が、わたしの背中にやさしく触れた。


「ありがとう。俺、おまえとこうしているだけで、ほっとするんだ」


 ああ、気持ちが通じた。それがうれしい。


 わたしの背骨に沿って、健の右手が動く。わたしによって癒されたいと、強く願う時のしぐさだった。健に身を預け、わたしは深く息を吸う。


 わたしの首筋を撫でながら、健が独り言のように呟く。


「連絡がないんだ。光華こうか会美術展」


 やっぱり。健が荒れるなんて、そのことしか思いつかない。わたしは無言で頷いた。光華会美術展は、権威のある絵画コンクールのひとつだった。健は今までも、何度も挑戦していた。結果が出ていないうちから落ち込むなんて、相当追い詰められているのだと思う。


 健の右手に身を委ねながら、わたしは目の前に置かれた左手をまじまじと見た。爪の間に、白い油絵の具が残っている。


 ――こんな手で、女に会うわけないか――


 無理やりそう考えようとするが、そういえばわたしと初デートの時も、健は絵の具がついたシャツを着ていたことを思い出す。


 ジャスミンの香りの主について思いを巡らせると、心が焦げついてしまいそうになる。わたしは無邪気を装って、甘えるように寝返りを打った。


 その時、タンスの上の暗がりが、ふいにわたしの目に飛び込む。暗がりの正体は、小さな黒い仏壇だ。正面には写真立てが飾られ、その中では三年前のわたしが、ワンピース姿で笑っている。


 わたしは、健の妻だった。二十七歳で病死して、すぐに生まれ変わった。雌猫めすねこに。そして道端で鳴いているところを健に拾われ、それから三年間、一緒に暮らしている。わたしが妻であったことを、健はもちろん知らない。




 美大で初めて健の絵を見た時、同級生とは思えない画力に心が踊った。でも、学生時代も卒業後も、健は大きな美術展で全く認められなかった。画壇の門は狭い。


 会心の出来だと思って出品しては、否定され続ける。どれほど、心を潰されることだろう。


 それでもわたしは、健の才能を信じていた。


 だから、そばにいると決めたのだ。妻としての自分の肉体が、朽ち果てたとしても。


 健は今も、油絵だけで食べていくことはできない。絵画教室の講師と、広告代理店の友人から回してもらう、イラストやカットの仕事をして生計を立てている。


 わたしは、知っている。ある時期、健は全く絵筆をとっていない。妻のわたしが突然、長期入院したからだ。しかも病状は非常に厳しく、余命二年と宣告された。


 わたしの治療費のために、健はアルバイトに明け暮れた。一ヶ所の収入では、到底追いつかない。アルバイトをいくつも掛け持ちし、その合間に病院に顔を出した。


「健の夢を、応援するわ」


 それが、健康な時のわたしの口癖だった。なのに、わたしは結局、健を応援するどころか、いつのまにか彼の夢を食い潰す存在になっていた。病気と闘った二年の間、わたしは健の夢を壊し続けたに違いない。


 わたしが死ぬ間際も、健は大きなコンクールに落ちた。アルバイトと病院通いに振り回され、描く時間が圧倒的に足りなかった。ベッドに寝たきりで待っている妻は、彼にとってどれほど重荷だったろう。


 わたしは、健に謝りたかった。


 ――ごめんね。あなたを応援するどころか、足手まといになってばかりで――


 だけどそれを口にしたら、それこそ健を困らせてしまう気がして、どうしても言えなかった。


 結局わたしには、祈ることしか残されていなかった。わたしのために奪われた時間はすべて、幸せな時となって必ず健に戻りますように。そして今も、そう祈り続けている。




 そばにいて、健を癒したい。きっとその願いがかなって、わたしは猫に生まれ変わったに違いない。猫ならば、足手まといにならない。だって妻ではなく、ただの飼い猫なのだ。だから、もしもこれから先、わたしが病気になったとしても、決して重荷に感じてほしくない。


 健が画壇にデビューするか、もしくは新しい妻をめとる。それまでの間、そばにいて彼を癒せたら……。わたしは今まで、真面目にそう願ってきた。打ちのめされる日々から解放されるか、創作に向かう孤独を誰かが支えるか。その光景を見て、安心したいと思っていた。


 それなのに、健の身体から微かに匂うジャスミンの香りに、こんなにも心が揺らぐ。健に触れることはできても、わたしはもう、健の女にはなれないのに。


 猫のくせに。


 そう自分に言い放ってみるが、悲しみがこみ上げてきて、思わず嗚咽をもらした。実際は、にゃあと鳴いただけだったけれど。鏡で自分の顔を見る。グレーに黒の縞模様が走り、泣き顔になってもあまりわからない。よかった。これなら、健に気づかれることはない。


 確か今日、絵画教室は休みのはずだ。それなのに、健は手早く着替えて、出かける準備をした。打ちのめされたのが嘘のように、前を向いて進もうとする。


 その力の源は、猫であるわたしのはずがない。やはり、誰か女性がいるのだろうか。そのことが冬の湖のように、静かにわたしの心を凍えさせる。


 この薄暗い部屋では、健は絵を描かない。今日も教室のアトリエを使って、創作に取り組むつもりかもしれない。


 出がけに、健は仏壇の前で立ち止まり、スマホの画面を仏壇に向けた。初めての仕草に、わたしは戸惑った。スマホの中の写真を何枚か、わたしの遺影に見せるようにして、仏壇にかざしている。


 ここからは距離があってよくわからないが、スマホの画面には、髪の長い女性が写っているように見えた。きっと「ジャスミンさん」に違いない。


 そう思った途端、胃袋をぐいと鷲掴わしづかみにされたみたいに、みぞおちに痛みが走った。亡き妻の遺影に、新しい恋人との交際の報告をしたのだろうか。やがて、健は出かけていった。


 眠れ、眠れ。嫌な時は本物の猫になって、数分後には全てを忘れてしまえたらいいのに。わたしはベッドの上で丸くなって、ぎゅっと目をつむった。わたしは所詮、猫なのだ。そう言い聞かせても、深い孤独が迫ってくる。


 ふと思う。妻だったわたしに死が訪れた時、きっと孤独だったはずだ。一人で死ぬのだから。その時、どれほど怖かったのだろうか。全く記憶がない。


 健に迷惑をかけずに生きて、年老いたら独りで死のう。猫に生まれ変わってから、ずっとそう思ってきた。なのに、今は一人ぼっちがとても怖い。




 どのくらいの時が経ったのだろう。さざ波の上をゴムボートでさすらうように、浅い眠りが寄せては返した。


 時折、深い悲しみに襲われて、まったく熟睡できない。もう何週間も、眠れない日々が続いていた。届かない思いや、猫でしかない自分、全てがやるせなかった。


 わたしは自分を奮い立たせて、思い直す。


 全部、覚悟していたことじゃないか。健に気づいてもらえなくても、構わない。それでも、そばに居たかった。見守って、励まして、少しでも健を癒すことができたら。そう、真っ暗な部屋に一人で帰ってきても、「おかえりなさい」と寄り添う、温かい存在であれたなら……。


 でもその時、わたしは心の中に、さらに暗い影を見つけてしまう。暗い影は耳元で、静かに囁く。


 ――そんなこと言って、本当は何の役にも立っていないじゃないか――


 わたしは、うなだれた。その通りかもしれない。死ぬ前は、病気で健の足を引っ張ってきた妻、猫になってからは、それこそ単なる猫だ。健の深い苦悩も悲しみも、実は全然、癒していないのだろう。


 いつも、無力だ。


 ただ、愛しているだけで、健の幸せを願っているだけで、本当はなんにも、できやしない。それどころか、わたしのちっぽけな心は、彼に明るい光を灯すジャスミンさんの存在にさえ、大きく揺れ動く。


 それでも、祈ろう。健の幸せを。


 わたしは息を深く吸い、改めてそう決心する。


 やがて、廊下を足早に歩く音が近づいてきて、耳をそばだてた。健の靴音だ。部屋に入ると、健はまず、仏壇に向って長い黙祷を捧げた。ジャスミンさんにプロポーズでも、したのかもしれない。


 ――よかった――


 そう思わなくちゃ……。ざわつく心をどうにか封じ込め、わたしは必死に笑顔を作ろうとする。黙祷が終わった。健が、わたしを見る。


 目があった時、尻尾をぴんと立てて思い切り振った。喜んでいるときの、猫になろう。ただの猫として、振る舞おう――。


 ――おかえりなさい、健。帰ってきてくれて、うれしいよ――


 猫らしく、にゃあんと鳴いた。


 その時、健はベッドの上のわたしに駆け寄り、弾むように告げた。


「光華会美術展、大賞を取った!」


 一瞬、時が止まった。


 歯の根が合わず、指先に力が入らない。嬉しさのあまり、身体が硬直する。健はわたしの隣に腰を下ろし、スマホの画面を見せた。


「見ろ。連作なんだ。今も描いている」


 まるで妻と喜びを分かち合うかのように、わたしに笑顔を向けた。画面には教室のアトリエに飾られた、一枚の絵が写っていた。白いジャスミンを背景に、長い髪の女性が猫を抱いて笑っている。


 女性も猫も、わたしだった。


 健がスマホの画面を撫でると、次の絵が現れた。何枚も、何枚も。どれも皆、帰宅を出迎える妻と猫が描かれ、その温かい眼差しが観る者の心を打つ。


 全てに「連作 おかえりなさい」と表題がついていた。今朝、仏壇に見せていたのは、確かにこれらの写真だった。


 創作風景の写真もあった。ジャスミンの大きな花束の前に、イーゼルが置かれていた。


「ジャスミンは、あいつの好きな花なんだ」


 あいつ、と言いながら仏壇を見上げて、その後わたしに視線を移し、健が言う。人間だった頃のわたしが、好きだった花? ジャスミンは確かに、わたしのお気に入りの花のひとつだった。


 ああ、「ジャスミンさん」などいなかった。事実を目の当たりにして、わたしは独りよがりな想像を恥じた。


 わたしの顔と仏壇の写真を交互に見ながら、健が噛みしめるように言う。


「おまえが、あいつが、俺を必要として待っていてくれたから、ここまで来られたんだ」


 待っていてくれたから――。わたしは驚く。待つことは、重荷ではなかったのか。


「どうしても、取りたかった。この賞……」


 健が涙ぐみ、わたしは思い出す。真剣に絵を描き続ける健の横顔を。話しかけることをためらうほど、いつも張りつめていた。


 元気な頃はもちろん、病院のベッドにいる時も、猫になってからも、わたしの心はいつも健の近くにいた。そして健の才能と、必ず訪れる栄光の時を信じ、祈っていた。


 わたしがこんなにうれしいのだから、本人はなおさらだろう。今までの数多くの挫折と苦悩を思えば、涙ぐむのもわかる。健が続けた。


「絶対に諦めない。そう思って、自分を奮い立たせてきたんだ」


 ――解るわ。どうしても、受賞したかったんだものね――


 わたしは頷き、健を見上げた。涙でくしゃくしゃになった健の顔が、わたしのすぐ上にあった。


「だって、それがあいつの夢でもあったから」


 ――え……――


 わたしは思わず、聞き返す。猫であることを忘れて。もちろん実際は、言葉にならなかった。今、なんて言ったの……? そう尋ねられないことが、とてももどかしい。健の涙が、わたしのおでこに落ちる。


「未来を奪われたあいつに、病気で苦しむあいつに、どうしても見せてやりたかった。お前の夢が叶ったぞって、言ってやりたかった」


 なのに、間に合わなかった……。健はそう続けた。絞り出すような声だった。


 不意に注がれた光と、健を悲しませてしまった辛さで、足元が揺らいだ。転ばないようにゆっくりと、わたしは健にすり寄る。


 ――健、ごめんなさい。でもわたし、ずっとそばにいるよ――


 言葉を持たないわたしは、力強い瞳でまっすぐに健を見つめた。


「あいつはきっと、いつも見ていてくれる。だから……」


 恥ずかしくない作品に、仕上げたかった……。そう言って、健は涙をぬぐった。わたしは、健を抱きしめたくなる。その代わりに膝に乗って、健を見上げた。


「ありがとうな。ありがとう」


 健の手が、わたしの背中を撫でる。なんて、心地がいいんだろう。膝の上で思わず、深呼吸をした。その時、あることに気づく。


 今までわたしは確かに、懸命に健を癒そうとしてきた。でも本当は、健の大きなこの手こそ、わたしの安らぎだったのではないか。


 そうだ。死ぬ間際にも、こうやって健が、背中をさすってくれていた。だから恐怖を感じずに、逝くことができたのだ。


 わたしは全てを思い出す。癒し、癒されたいと願うこの手のもとに、わたしはどうしても帰りたかった。たとえ、猫になったとしても。


 大きな手は、ずっと背中を撫でている。健の匂いを嗅ぎたくて、もう一度、深く息を吸う。


 健の手にちいさな身体を委ね、わたしは安心して眠りに落ちていった。


(了)

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