茜色の月

福王寺

 世の中理不尽な事だらけだ。

 一生懸命生きてきたからといって、必ず報われるわけではない。少しずつ、努力して積み上げてきたものが、一瞬の内に大いなる力によって崩されてしまう。

 人生とはそういうものだ。佐藤加奈子はそう思いながら小さくため息をついた。

「加奈子」

 横から声を掛けられ加奈子は顔を上げた。彼女の父親である佐藤秋雄が、彼女の心を見透かしたように眉をひそめていた。

「集中しろ」

「申し訳ありません」

 加奈子は小さく頭を下げて気を取り直す。確かに今は余計なことを考えている暇はない。

 深夜の住宅街を二人は静かに歩いていた。二人とも上下のスウェットとクロックスを履いて、手にはコンビニの袋をぶら下げている。

 加奈子は長い髪を一つに束ねて、普段はしていない眼鏡をかけている。若干の幼さを残す顔には表情を写していない。

 佐藤はどこにでもいる、特徴の少ない男性だった。四〇前半くらいで、年相応のシワを顔に携えており、その髪にも白髪が目立っていた。

 あたりに人の気配は感じられない。時刻は午前二時を過ぎている。街全体が眠っているようだった。

 しばらく二人はそのまま近所の住人のような格好で歩いてき、一軒の家の前で足を止めた。

 なんの変哲も無い、ごく普通の建売住宅の家である。手前に駐車スペースがあり、国産のワゴン車が一台停まっている。その奥に二階建ての家があった。白を基調とした、よく言えば落ち着いた、悪く言えばありきたりな家である。

 二人は一瞬だけ目を見合わせ、玄関ドアの方へを足を向けた。二人は言葉を発さない。ここに来る前に、もう何度もシミュレーションしている。最終確認の必要はなかった。

 二人は黒色の手袋を身につけ、そっと家の中に意識を集中させた。物音は感じられない。中の住人は寝静まっているようだった。

 佐藤はポケットから鍵を取り出した。ディンプル式の鍵である。物音を立てぬように鍵穴に差し込み、ゆっくりを回した。

 カチリと小さい音がして解錠された。少しドアを開けるとU字のロックがかかっていることがわかった。加奈子が代わり、器用にU字ロックを解錠し、ドアを開けて家の中へと入って行った。

 玄関を抜けると、左手にリビングへと続く廊下、右手に二階へと続く階段が見える。二人は初めて目にする光景だが、事前でシミュレーションしたイメージ通りの光景であった。

 土足のまま玄関を上がると、佐藤は階段を使い二階へ、加奈子はリビングの方へと足を向けた。

 加奈子はしばらく廊下を歩き、突き当たりで足を止めた。両側にドアがある。左手のドアは一部がガラス張りで中が見えるようになっている。ドアの先にはリビングが広がっている。

 右手のドアは左手のドアにあるようなガラス張りがなく、中を確認することができない。しかし事前に図面で確認している加奈子は、その先の部屋がこの家の一人娘の寝室であることを知っていた。

 本日の仕事は、この坂崎家の一家全員を殺害すること。「遺体の処理はせず、殺害したままの状態を維持してほしい」というのが依頼主からのリクエストだった。

 佐藤は二階の寝室の夫婦、加奈子はこの一階リビングの向かいの部屋の一人娘、坂崎絵里を殺害することになっている。

 加奈子はこの一家がどのような理由で殺害の依頼がかかったのかはわからない。別に知る必要も無い。

 音を立てずにドアを開ける。フッと甘い匂いが鼻腔に広がった。

 カーテンの隙間から降り注ぐ月明かりで、ほんの少しだけ部屋の中を確認することができる。左側に本棚と学習机、右側にベッドがある。

 スウェットのポケットから一振りのナイフを取り出す。ベッドに近づくと、坂崎絵里が静かに寝息を立てていることがわかった。

 事前の確認では坂崎絵里は高校一年生。加奈子と同じ年である。飾り気のない、ごく普通のどこにでもいる女子高生といった感じであった。

 そっと布団を剥ぎ、パジャマ姿の上半身を確認すると、ナイフを逆手に持った。

 左手で彼女の口元を塞ぎ、そのまま一気に彼女の胸元目掛けてナイフを振り下ろした。

 ナイフは音もなく彼女の体内に入ってゆく。彼女は目を見開いたが、言葉を発する暇もなくそのまま絶命した。

 完全に息を引き取ったことを確認すると、加奈子はナイフを引き抜いて絵里の部屋を後にした。

 廊下に戻ると佐藤が階段から下りてきた。彼もまた、作業が終わったのだろう。

 佐藤は加奈子の姿を確認すると、先ほど加奈子が出てきた絵里の部屋に入っていった。

 しばらくして出てくると、小さく「七〇点」と呟いた。

 加奈子はその言葉に言葉を発さずに頷くと、玄関へと向かう佐藤の後をついて行った。

 外に出ると元どおり施錠し、それまで来た道を戻っていった。

 坂崎家一家殺人事件がワイドショーで報道されたのは、それから一週間後のことだった。

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