14:とある執事の憂鬱

     ◆      ◆      ◆


 エレシュ伯爵家の執事――クロムは私室の机に座り、帳簿を眺めて思い悩んでいた。

 現当主アルベルトとその妻ミレーヌの放蕩が祟り、伯爵家の財政状況は逼迫している。


 アルベルトは幼い頃から「お前は伯爵家の長男、いずれはこの広大な領地と莫大な財産の全てを継ぐ身です。しっかりと励むのですよ」と言われ続けた重圧故か、先代の伯爵が留学させた王都で悪い輩に引っかかり、唆されるまま享楽に溺れた。


 生真面目で実直だったはずの人格はどこへやら、留学先から帰って来たアルベルトは賭博と酒と女が大好きという、どうしようもない人間になり果ててしまった。


 結婚して女遊びだけは止めたものの、自分の気に入らないことがあれば癇癪を起こして暴れるのは相変わらず。

 政務に関しては全くの無能。

 そもそもやる気がなく、クロムが代行する有り様だ。


 この事態に先代伯爵夫妻はもちろん、伯爵家の親戚一同が頭を抱えた。

 アルベルトを排斥し、王都にいる次男を呼び戻して新たな当主の座に据えようとする者もいたが、アルベルトは金をまき、甘言を弄して味方に引き込んだ。


 伯爵家の財産にものを言わせて傭兵たちに身辺を守らせ、社交界や王都から視察に来た使者の前では、当主として完璧に振る舞ってみせた。


 先代伯爵夫妻が不運にも馬車の事故によって死亡してからというもの、いまや表立ってアルベルトに文句を言う者は誰もいない。


(……せめて、奥様のミレーヌ様がアルベルト様の放蕩を叱咤し、しっかり手綱を引いてくださる女傑であったなら、どうにかなったものを……)


 アルベルトがその美しさに一目惚れし、周囲の反対を押し切って強引に結婚した男爵家の次女ミレーヌは、浪費家で無類の宝石好きだった。


 ミレーヌは出入りの宝石商から高額な宝石ばかりを購入し、私室を宝石で埋め尽くさんとしている。

 最近では一通りの宝石を集めてしまったらしく「《月光宝珠》が欲しい」などと無理難題を言ってアルベルトを困らせている。


《月光宝珠》とは、《月の使者》と呼ばれる稀少な銀竜の目だ。

 不思議なことに、《月の使者》の瞳は本体から切り離すとたちまち硬化し、七色の光を放つ至高の宝石に変わる。

《月光宝珠》は所有者の魔力を増幅し、幸福を招くと言われている。

 その貴重さも、美しさも、ダイヤモンドの比ではない。


 時の権力者が、富豪が、ありとあらゆる人間がこぞって《月の使者》の目を求めた。

 その結果として元より数の少なかった《月の使者》は激減し、エストア大陸では滅んだとされている。

 少なくともこの数十年、レノン国内での目撃情報はない。


(万が一《月光宝珠》が宝石ギルドに持ち込まれたという連絡があったとしても、とてもではないが買える財政状況ではないと気づいておられないのだろうな)


 ミレーヌは外見こそ人形のように典雅で愛らしいが、その性格は卑しく残忍だ。

 メイドが少しでも強く髪を梳けば痛いと騒ぐ。

 紅茶が自分好みの温度ではないと当たり散らす。

 極めつけに、掃除中にうっかり宝石を床に落としてしまったメイドの顔を鞭で打ち、身一つで追い出した。


 その一件があってからというもの、伯爵家で働くメイドや使用人たちの表情からは笑顔が消えた。

 主人の前では機嫌を損ねないよう、必死で愛想笑いを浮かべているが、引きつったその笑顔は見ていて痛々しいばかり。


 もはや頼りになるのは王都で騎士として務めているアルベルトの弟、デュークだけなのだが、アルベルトは代替わりをそう易々と認めはしないだろう。

 窓の外、侯爵邸の門の前では屈強な傭兵が立っている。


 彼らだけではなく、アルベルトはこの屋敷に多くの傭兵を住まわせていた。

 アルベルトは夜な夜な賭博で彼らと遊び、戯れに剣を打ち合わせているが、彼らの実力は確かだ。


 冒険者ギルドの徽章は銅、銀、金とランクによって三段階あるが、この屋敷の傭兵の徽章はほとんどが銀以上。


 徽章はそれぞれ図案が異なる。

 銅は薔薇、銀は交差する剣、金は火を噴く竜が下地として薄く彫ってある。

 実績に応じて少しずつその図案が冒険者ギルド専属彫金師の手によりなぞられていき、線が光り輝いていくのだが、この屋敷の傭兵には最終形態である竜が彫られた者がいた。


 金の徽章に竜が彫られた者、通称「金の竜持ち」は大陸でも七人しかいない一流冒険者の証。

 よほどの命知らずでもない限り、どんな悪党でも徽章を見ただけで逃げる。

 彼らに守られたこの伯爵邸は、難攻不落の要塞だ。

 たとえ重税に苦しむ民が暴徒と化しても、生半可な暴力では決して落とされまい。


 クロムの苦悩も知らず、今日も空は青く、庭に咲く花は美しい。

 もう一度クロムがため息をついたとき、部屋の扉を叩く音がして、返事も待たずに扉が開いた。


「ねえねえクロム、聞いた? オルハーレン侯爵家の噂!」

 ミレーヌは弾む声で言いながら、遠慮なく入って来て机に両手をついた。

 螺旋状に巻いた金髪。夏の海を思わせる青い瞳。

 華奢な身体を包むのは明るいオレンジ色のドレス。

 胸元の緑のリボンの中央では大粒のルビーが光っていた。


 耳にも揃いの涙滴型のルビーが垂れ下がっている。

 労働を知らない、白く細い指にはそれぞれ宝石のついた指輪が煌いていた。

 手首にも金の細い三連ブレスレットを嵌めている。

 クロムが知らない装身具だ。

 また無駄遣いしたな、とますます気が重くなった。


「いえ……オルハーレン侯爵様がどうかなさったのでしょうか?」

 オルハーレン侯爵といえば、ここからほど近い地方一帯を治める領主だ。

 アルベルトと違って敏腕かつ有能な男で、領民からの評価も非常に高い。

 彼と王女アマーリエの結婚が決まったときは多くの令嬢が枕を涙で濡らしたそうだ。


「オルハーレン侯爵家では《月の使者》を飼ってるのよ! 情報屋に聞いたの! この前の満月の夜、神秘の森を飛んでいるのを冒険者が目撃したんですって!」

 ミレーヌは興奮のまま、ばしばし机を叩いた。


「いくら積んだら譲ってくれるかしら? これまでのエサ代と世話代を含めて一千万ギニーあればいいかしら? うーん、千五百万ギニーあれば十分よね?」

「お言葉ですが、いまの伯爵家にそんな大金を支払う余裕はどこにもありませんよ。これをご覧ください」

 クロムは冷たく言って、帳簿を広げてみせた。

 よく見えるように、目の前に突き出す。

 ミレーヌは長い金色の睫毛を何度か上下させた。


「……あら、赤字ばっかりね?」

「はい。火の車だとおわかりいただけたようで何よりです」

 ――あなた方が金を湯水のように使い、代々の当主が大切に守ってきた財を食い潰してきたおかげでね。

 喉元まで出かかった皮肉はどうにか飲み込んだ。


「火の車なんて大げさねぇ。いざとなれば税を上げればいいのよ」

「既に重税を課しております。満足に施政も行っていないというのに、これ以上の税を取り立てれば暴動が起きますよ」

 クロムは帳簿を閉じて脇に置き、サファイアのような瞳を見据えた。


「失礼ながら、奥様は屋敷に引きこもり、宝石を愛でるばかりで外に目を向けられない。日々蓄積されていく民の不満を、事態の深刻さをわかっておられないのです。伯爵家を潰されるおつもりなのですか?」

「大げさな……ああもう、わかった。わかったわよ! もう言わない、これで満足でしょう!」

 視線の圧力に屈し、ミレーヌは勢いよく顔を背け、巻いた金髪を揺らした。


「では、《月の使者》を手に入れるなどという馬鹿げた妄想は捨ててくださるのですね? オルハーレン侯爵家は王家の傍流です。現当主でおられるイグニス様がアマーリエ様とご結婚なされたことで、ますます王家との結びつきを強くなされました。もしも侯爵様の不興を買えばどうなるか――」

「はいはい、わかったって言ってるでしょう! いちいちうるさいのよあんたは!」

 煩わしそうに手を振り、ミレーヌは部屋を出て行った。


「……本当にわかっておられるのか」

 クロムが嘆いた、その一方。

 廊下では。


「……ふん。せっかくあの《月光宝珠》が手に入るチャンスがあるっていうのに、誰が諦めるものですか。絶対に手に入れてやるんだから。――どんな手を使ってでもね」

 ミレーヌはポケットから取り出した紙を開き、口の端を歪めた。

 彼女が手に持つ紙。

 それは、オルハーレン侯爵邸で来月開かれる仮面舞踏会への招待状だった。


 気を取り直して二階の廊下を歩いていると、メイドたちに混じって、雑巾を片手に窓拭きしている少女を見かけた。

 少女の頭には猫を思わせる黒い耳が、そのスカートからは細い尻尾が生えていた。


 彼女はアルベルトが賭博で巻き上げた幻獣だ。

 獣型になったり人型になったりする、幻獣なんだか神獣なんだか不明な生物。

 仮にも幻獣のくせに人間と契約もできない出来損ないで、使える魔法も風変わりなもの、ただ一つだけ。


 最初はアルベルトもミレーヌもその魔法を楽しんでいたが、もうすっかり飽きていた。

 そろそろ闇オークションに出品して売り払おうかと思っていたところだ。


「あ、ミレーヌ様。ちょうど良いところに! 見てくださいです、フィーネ、頑張ったですよ! ピカピカになりましたです!」

 幻獣は窓を指さしてにこにこ笑った。


(ああ、そうだ。こいつの魔法はきっと役に立つ。どうせオークションに出したところで大した値はつかないでしょうし、《月光宝珠》を手に入れるための捨て駒にしましょう。もう三カ月も世話をしてやったんだもの、十分よね?)

 磨き上げられたガラス窓には見向きもせず、ミレーヌは幻獣を見つめて思案した。


「どうされたですか?」

「ねえ、フィーネ。私、あなたにお願いがあるのだけれど」

 猫なで声で言いながら、幻獣の黒髪を指で梳く。


「フィーネにお願いですか!? はい、はい、喜んで! ミレーヌ様のお役に立てるなら、頑張りますです!」

 幻獣は喜びを顔いっぱいに表し、決意を示すように小さな手を握り締めた。

「ふふ、ありがとう」

(愚鈍な馬鹿は操りやすくて助かるわ)

 ミレーヌは優しく微笑み、話し始めた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る