第五十九節 行雲流水
ベンダバル。その苗字に聞き覚えのあるレイは、衝撃に目を見開く。奇妙な運もあるものだ。
「ベンダバルって……じゃああなたは、スグリのお爺ちゃん……!?」
「お爺ちゃんと来たか、そう言われるのも久方振りだな」
「あっ!!ご、ごめんなさい!」
思わず発した言葉を謝罪した。それに片手をあげて制し、静かに笑うヤナギという人物。物静かなのに威厳があり、なんだか
一度深呼吸をして、改めて尋ねる。
「スグリの、ご家族の方……?」
「左様。某は長年この地を治める、ベンダバル家の元領主。領主なき今は代理として、この地を治めている。若様は、次期領主にござりました」
「あ、だからさっき"若様"って……」
エイリークがぽつりと呟く。なんでも囲まれていた時に、この人物が漏らした言葉が聞こえていたらしい。その言葉の意味がようやく分かった、と納得している。
何にも知らなかった。思えばスグリから、自身のことを聞いたことがなかった。
「そうだ、こっちも自己紹介を。俺は、レイ・アルマって言います」
「俺は、エイリーク・フランメです」
「ふむ。エイリーク殿、その風貌……人間ではあるまい?」
エイリークの姿をじっくりと見たヤナギが、彼に問いかける。
自分が見られているわけでもないのだが、射止めるような鋭い視線に思わず背筋が伸びる。ただ言い方から捉えて、避難するつもりではなく確認するような口ぶりだ。嘘を吐ける状態でもないし、そもそも嘘偽りなく明かした方がいいだろう。エイリークも同じように考えたのだろう、真剣な眼差しでヤナギを見据えた。
「はい。俺は、バルドル族です」
「ほう、バルドル族とな」
「ご存知、なんですか?」
一つ、頷く。
領主たるもの、異国の種族を知るのも修行の一つだとか。
「じゃあ、バルドル族が狂戦士族って言われていることも……」
「然り。されど、百聞は一見に如かず。己が目で真実を見極めてこそ、真の領主たるもの。其方は確かにバルドル族。しかし人の心を持ち合わせているのも事実。なればそこに、一切の疑りはなし」
はっきりとエイリークに伝えるヤナギに、疑いようはなかった。冷静に物事を見極められる人物で良かった。エイリークに笑いかければ、彼も笑って頷く。ヤナギに向き直り、感謝の意を述べた。
今度は先程の襲撃について、ヤナギが謝罪する。
「先程の無礼、許されよ。ここ最近、この土地に何やら不穏な兆しが見られていた故、あのような手段に出るほかなかった」
「こっちこそ、疑われるような状況を作っていましたから……」
「うん。あおいこです。俺たちの方こそ、すみませんでした」
頭を下げて下げられ、各々の誤解は解かれた。説明ついでにと、レイとエイリークはあの場所に来た経緯をヤナギに話す。
自分たちは今、ミズガルーズ国家防衛軍に保護されていること。世界巡礼のこと、カーサについてのこと。そして、そのカーサとの戦闘のこと。自分たちの敗北。そこでヤクやスグリが負った、怪我のこと。
「俺の治癒術じゃ、二人の怪我を完全に治せなかったんです。ごめんなさい」
「謝られるなレイ殿。其方の力があったからこそ、若様たちは命を長らえられた。そのことに感謝こそすれ、罵倒する権利などあろうものか」
「でも俺がもっと力を使いこなせていたら、そしたら二人はすぐに目を覚ませたはずなのに……!」
拳を握る。震える。
女神の
「其方らの状況は理解した。全員が回復するまで、ここで静養するとよかろう」
「いいんですか?」
「なに、乗り掛かった舟よ。それに怪我人を放ることなど言語道断。ゆっくりと英気を養うがよい」
「ありがとう、ございます」
「其方らの部屋を用意しよう。場所は、若様たちの近くがよかろう」
ヤナギが付き人らしい人を呼ぶ。その人の案内で別の部屋へと案内された。
案内された部屋も先程と同じく、畳というものが敷き詰められた部屋だ。青い草の匂いが鼻腔をくすぐると、なんだかとても安心した気持ちになる。自由に使ってくれと言われたが、結構上質そうな部屋を本当に使ってもいいのだろうか。
尋ねたところ、通された部屋は客人用の部屋だという。それならば安心だと、ようやく落ち着つくことができた。
「おお、そうだ。其方らの召し物も汚れているだろう?これを着てほしい」
渡された着替えは、珍しい襟をしていた。落ち着いた藍色の布で出来ている。生地は厚みがあるが、通気性がよさそうな構造になっているようだ。初めて見るそれに、首をかしげる。
「それは甚平というものだ。下の履物はズボンと同じように穿けばいい。上も着るのはそんなに難しくない」
「えっと、ありがとうございます。でも、いいんですか?なんか何やら何までお世話になってるというか、なんというか」
「構わんさ。お前たちも大きな戦いをして、疲れているだろう。しっかり羽根を伸ばすことも、また大事なことだからな。我らはそれの手伝いをするまでよ」
黒髪の気前がいい中年の男性は、そう笑う。珍しい服を着ているが、きっと体格はいいのだろうと思う。なんというか、オーラを感じたのだ。
甚平についての説明を受けていたら、別の人物が廊下から声をかけてきた。
「ナカマド様、湯浴みの用意ができました」
「ご苦労。下がっていいぞ」
「御意」
中年の男性──ナカマド──が言うと、廊下の男性は引き下がった。なんだか凄く縦社会がしっかりしているんだな。
再びこちらに顔を向けたナカマドは、自分たちに風呂を勧めてきた。特段断る理由もなかったため、言われるがままにする。脱衣所まで案内され、ゆっくりするよう気遣われた。衣服は脱衣所にそのままにしておけば、洗ってくれるらしい。本当に何から何まで至れり尽くせりだ。二人そろって礼をする。
「ありがとうございます。その、ナカマド、さん?」
「おお。ナカマド・シルト、それが俺の名だ。ヤナギ様がおられない時は、俺を尋ねるといい」
「はい、ありがとうございます」
もう一度礼を述べてから、脱衣所に入る。ここも例に漏れず、結構上質な造りだ。服を脱いで浴室に入れば、言わずもがな。
宿屋で使う風呂とは段違いだ。質の良さそうな木を使い、見るだけで温かい空間となっている。ちょっと気後れしつつも、折角だからと湯に浸かることにした。
一度体を湯で流してから、ゆっくりと入る。自分とエイリークが二人並んで足を延伸ばしても、まだゆとりのある大きい浴槽だ。これは確かに、体の疲れはとれそうだ。ほう、と息を吐く。
「気持ちいいねぇ」
「そうだな。スグリがこんな立派な屋敷に住んでたなんて、俺全然知らなかった」
知らなかった。
自分で発した言葉が水の中に沈む石のように、深く自分の中に沈む。そうだ、自分が幼い頃からスグリはすでに、傍にいてくれた。それで自分は、彼のことをよく知ってると思っていた。だけど、実は何にも彼のことを知らなかったのだ。
自分も今まで彼に聞こうとはしていなかった。とはいえ、こんなに何も知らなかったとは思わなかった。
思わず片膝を抱えて、ため息を吐く。
「あとでさ、スグリさんが目を覚ました時に聞こうよ」
自分の心を読んだのだろうか。エイリークが自分の中の不安を和らげるように、声をかけてくる。顔を上げて横を見れば、笑っている彼がそこにいる。
「まぁ、スグリさんが言いたくないって言ったら仕方ないけど……。わからないのならさ、聞いて知っていこうよ。レイはいつもそうしてきただろ?」
彼の励ましの言葉に、救われた気がした。不安が湯船の中へ溶けて消えていくようだ。
「そうだな。俺いつも、そうしてきたよな」
「そうだよ、らしくないじゃんか。一人で抱えるなんてさ」
「お前にだけは言われたくないな」
いたずらのつもりで、エイリークの顔めがけて湯をかける。情けなく小さな悲鳴を上げる姿が面白くて、つい調子に乗る。
「やったなー?」
隙を見て反撃と言わんばかりに、エイリークも同じようにお湯をかけてきた。反撃してくるとは思わず、それをまともに顔に受ける。お返しと笑う彼に、ならばこちらもと再び反撃に出る。それがたまらなくおかしくて、笑いあっていた。
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