序説6 父と子の関ヶ原 真田家・九鬼家・蜂須賀家

 「関ヶ原の戦い」という2か月間の内戦の、勃発の号砲ともいうべき「内府ちがいの条々」が発布されて1週間以内に、ためらいなく家康への内応の手紙を発送した脇坂安元16歳とは、いったいどんな少年だったのだろう。父安治との関係はどうだったのだろう。 


 関ヶ原の戦いで父と子が別々の動きをした家は少なくない。脇阪父子の動きを詳細に知りうる資料は残されていないが、資料の残る比較的有名な武将たちの父子別行動の事例を比較すれば、何らかの「類推」は可能になるのではないか。


 何といっても最も有名なのは大河ドラマ「真田丸」でも見せ場となった真田家の「犬伏の別れ」の事例であろう。


 合津征伐の命を受けて上野の国(群馬県)沼田城に集結した真田勢は下野の国(栃木県)宇都宮の徳川軍に合流するため沼田を出た。この時真田昌幸53歳・長男信之34歳・次男信繁(幸村)33歳。ところが7月21日、宇都宮城まであと1日行程の犬伏に陣所を構えたところに、石田三成の密使が到着した。


 真田昌幸は石田三成とは姻戚関係で、真田信繁の妻はクーデター首謀者のひとり・大谷吉継の娘である。密書が発送されたのが7日前とすると7月14日のことになり、「内府ちがいの条々」の天下公布の3日前である。明らかに三成は、真田家を暗黙の「同志」と信じて最高機密の書状を送り付けてきたと言える。


 ところが長男信之は家康の信任厚く、家康は重臣本多忠勝の娘・稲姫(後の小松姫)をいったん徳川の養女としたうえで信之に娶らせていた。信之は形式上は家康の婿の立場にあった。


 三成、家康、どちらに着くか。一夜を費やす談合の上で、採用されたのが「ふたまた」の策である。昌幸と信繁は三成に与して上田城に籠り、信之は家康に与して宇都宮に参じた。おかげで関ヶ原の敗軍のあと昌幸と信繁は、武功を上げた信之のとりなしで命だけは長らえて紀州九度山に配流されることになる。


 ところが同じ「ふたまた」の策でも残念な結果を招いた事例もある。伊勢の国・鳥羽を本拠とする九鬼家の場合である。脇阪安治とともに閑山島海戦で李舜臣と戦った九鬼嘉隆はこのとき58歳。2年前に家督を継いだ九鬼守隆は27歳。関ヶ原の戦いが起こると嘉隆は三成に与し、守隆は家康に与した。


 嘉隆は守隆が家康に従って会津征伐に赴いている間に、守備が手薄になっていた守隆の居城鳥羽城を奪取し城主として指揮をとる。得意の水軍で伊勢湾の海上封鎖を行い、8月24日の安濃津城の戦いの勝利に貢献する。しかし9月15日関ヶ原で西軍が壊滅すると、鳥羽城を放棄して答志島に逃亡した。


 九鬼守隆は徳川家康と会見して父の助命を嘆願し、了承された。ここまでは真田家と同様である。ところが守隆の派遣した急使がそれを嘉隆に伝える前に、九鬼家の行く末を案じた家臣の豊田五郎右衛門が家康の怒りを忖度し、家康の寛恕を引き出すためには切腹するしかないと嘉隆を促した。これを受け入れた嘉隆は10月12日に自害して果てた。


 九鬼嘉隆の首級が家康の首実検のために伏見城に送られる途中の伊勢明星において、守隆の派遣した急使がこれに遭遇し事態を知って守隆に報告した。守隆は激怒し、「忖度」の重臣・豊田五郎右衛門を鋸(のこぎり)挽きで斬首のうえ晒(さらし)首にしたという。かわいそうな豊田五郎右衛門。かわいそうな九鬼守隆。現代ならばケータイで連絡を取り合って行き違いを防げたものを。


 「ふたまた」は一見安全策に見えるのだが、当時の交通事情、通信事情では、こういうリスクも覚悟しなければならないのだ。


 しかしもっと複雑な別行動をした父子もいる。阿波18万石の当主・蜂須賀家正42歳と嫡男至鎮(よししげ)14歳である。至鎮が家康に合流するため軍を率いて東海道を行軍しているとき、当主・家正は病気と称して大阪城にいた。


 そもそも至鎮(よししげ)は「内府ちがいの条々」の「ちがい」の当事者であり、関ヶ原の戦いの発端と言ってもいい少年である。


 豊臣秀吉の遺訓は自らの死後の政権運営を、幼君秀頼を頂く五大老五奉行の合議制に託した。大名家同士の婚儀は必ず五大老五奉行の合議による認可が必要とされた。しかし家康は公然とこれを無視し、諸大名と婚儀による同盟拡大を進めた。遺訓を無視した縁組のひとつが蜂須賀家をめぐるものだった。


 家康は小笠原秀政の娘・氏姫(家康の曽孫)8歳を家康の養女とした上で、蜂須賀家正にせまって、14歳の至鎮(よししげ)の正室に娶らせたのだ。至鎮(よししげ)は形式上家康の婿になったのである。


 石田三成を筆頭とする五奉行と前田利長を筆頭とする四大老は家康の私婚政策を咎め、これをきっかけに政争が始まった。当初は互角に見えたが、前田利家の寿命が尽き、石田三成が失脚し、利長の嫡男・利長が屈伏し、上杉景勝が討伐の対象となり、家康の覇権はあと数か月で不動のものとなると誰もが思った。ちょうどその時7月17日、三成たちのクーデター軍が決起したのだ。


 それまでの経過から、蜂須賀至鎮が家康に与して行軍していることに、何の不思議もない。問題は何故家正が大阪屋敷に残ったか、である。公式の理由は「体調不良のため」だったが、そんな理由で大阪に居続けるのは、少なくとも7月17日以降は危険極まりない。何しろ彼は豊臣恩顧の大名で秀吉の遺訓に真っ先に背いた張本人である。更に言えば三成が失脚する直接の原因となったあの「七将襲撃事件」の当事者ではないか。三成に不倶戴天の敵と思われていてもおかしくない。


 「七将襲撃事件」とは慶長4年(1599)閏3月4日、前日の前田利家の死によって抑えの効かなくなった武闘派の七将、すなわち蜂須賀家政、細川忠興、福島正則、藤堂高虎、黒田長政、加藤清正、浅野幸長の7人が、慶長の役の論功行賞を巡って遺恨のある石田三成を手兵を率いて襲撃した事件である。大阪城を脱出した三成は手兵を率いて伏見城の治部少丸に立て籠もりにらみ合いになった。あわや軍事衝突というぎりぎりの段階で、家康の裁定で、三成が奉行職を辞任することで和解決着した。三成は無念だったろう。


 そんないきさつがあるのに三成の制圧する大阪城をうろつくのは命がけ、と言えないだろうか。おそらく家正は、命がけを承知の上で大阪城における多数派工作に影響力を振るおうとしたのだ。


 20年前の秀吉の中国攻めの際に、家正の父蜂須賀小六正勝は黒田官兵衛と並んで、毛利家との外交に当たる「取次ぎ」の要職にあった。家正も交渉に陪席することが多く、毛利・小早川・吉川の三家とは重臣たちも含めて面識が深かった。小六の死後は蜂須賀家正がこの三家との「取次」の役を続けてきた。三成が何人かの大名と同心して決起しても、政権の中核たるこの三家が動かなければどうにもなるまい、と家正は思ったに違いない。


 蜂須賀家正が、7月16日付で毛利家の大阪留守居役に宛てた長い書簡が「毛利家文書」に残っている。小早川家にも、宇喜多家にも同様の書簡は送られていたはずだ。光成準治著「関ヶ原前夜」(NHKブックス)にその全文と現代語訳があるので、現代語訳のみ引用しよう。


 「この度の石田三成と大谷吉継の謀反はけしからんことです。その企みに輝元様も同意しているとこちらでは言われていて、不安に思っています。もし事実であるなら世間の非難をあびるでしょう。


 近年家康が届をせずに縁組したということがありました。しかし、そのことが秀頼公に対する謀反であるとは私は聞いたこともありません。ですから、(輝元が三成らの企みに同意するという)覚悟は天下に乱れをもたらすものです。歎かわしい事であり、よくお考えになってください。このようなことをこちらからいうのは失礼なことですが、長年非常に親密にしてきましたので申し上げます。この旨を(輝元に)伝えてください。(中略)


 猶、三成と吉継に同意したとのこと、初めは噂に過ぎないと信じていませんでしたが、安国寺恵瓊から聞いたことには、この度東国への派兵を差し止めるように仰せられたとのことで驚いています。」


 1か月前の6月16日、家康は遠征軍を率いて伏見を発って東に向かったが、同じころ輝元は広島に帰国して地元で遠征軍をまとめるために西に向かった。在国している輝元に向けて、7月14日ごろ三成の密使が遣わされた。そのことが何らかの諜報活動で蜂須賀家正の耳に入った。家正も阿波徳島で遠征軍を準備中だったが、それどころではない。急遽舟運により大阪城に飛び、政治工作により三成の企図をくじこうとした。ところが、時すでに遅かったのだ。


 7月15日密使を受け入れた毛利輝元は、全軍を率いて水軍による昼夜を問わない強行軍で丸二日で広島から大阪に急行した。家正のせっかくの書簡は入れ違いになり、何の効果も及ぼさず、毛利輝元は三成に同心して大阪方の総大将を引き受けた。家正の立場はあっという間に最高に危険なものとなった。


 ここで家正は起死回生の奇手を連発する。阿波一国を豊臣家に返上、合津遠征のために組織した阿波の軍勢の総指揮を豊臣秀頼に委ねるというのだ。更に素早く、大阪屋敷を出て、和泉国枚野の豪商渡辺立庵道通の屋敷に入って剃髪し、蓬庵と号して高野山に上り出家して光明院に入った。こうして豊臣政権にせいいっぱい恭順の姿勢をとりつつ、抜かりなく嫡男至鎮(よししげ)にわずか18騎の「軍勢」を率いさせて、秘密裏に家康の元に「従軍」させた。この時点で主な街道は三成によって封鎖されていたが、18騎ならば間道を通って抜けることは造作もない。


 こうして家正の複雑怪奇・一世一代の「ふたまた」策が発動された。


 蜂須賀領の阿波には毛利軍が進駐し、2千の軍勢は豊臣家の馬廻に編入されて毛利氏の指揮のもと北国口の防衛に向けられた。しかしこの軍勢は交戦前に関ヶ原の戦いが決着し、敵対することなく東軍に合流し家康に同行していた至鎮の指揮下に戻る。


 こうして蜂須賀家は、家康から何の咎めも受けず、18万石が安堵されることになった。後に伊達政宗はこの時の蜂須賀家正の行動を評して「阿波の古狸」とあだ名することになる。

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