序説5 「脇坂記」にみる関ヶ原の戦い

 寡兵でよく7万人に大勝し世界戦史にも冠たる龍仁戦闘に対して、日本語版wikipediaが無視を決め込むとは、現代の日本人はなぜこれほど脇坂安治に冷淡なのだろう。


 その回答として

「国民作家・司馬遼太郎に嫌われたから」

と答えたら言い過ぎになるだろうか。


 藤堂高虎という武将がいる。加藤清正と並ぶ築城の名人で織豊系城郭を語る時に「名城」とされる城の半分は清正、半分は高虎が設計している、と言っても過言ではない。


 その藤堂高虎の評判が、平均的な日本人にはとても悪い。恩義のある主君に忘恩で報い7回も主を変えた変節漢、というのが一般的なイメージである。その高虎が最後に裏切った主君とは豊臣秀頼である。


 関ヶ原の戦いで、西軍大名には多くの寝返りが生じた。大大名小早川秀秋の裏切りはよく知られているが、より小ぶりな大名として、脇坂安治、朽木元綱、赤座吉家、小川祐忠の四将がいる。江戸時代に成立した様々な軍記もので、藤堂高虎は自身が早い段階で家康に通じたばかりか、ひそかに西軍大名に寝返りの誘いを繰り返す家康の外様の腹心として書かれている。四将はついにこの誘いに応じたとされる。


 司馬遼太郎はこれが気に入らないのだろう。なにしろ司馬は作家生活の大半を東大阪市(旧河内の国)で過ごした生粋の大阪人だ。多くの代表作では巨視的中立的視点のゆるがない「国民」作家だが、ローカルな局面では、「家康たぬき、秀頼あわれ」という大阪ナショナリズムの血が騒ぐのだ。


 司馬の小説の中で関ヶ原や大阪の陣を舞台にした「関ヶ原」「城塞」「侍大将の胸毛」などの作品では、高虎は無垢な存在である秀頼の支柱にシロアリのようにたかる狡猾な我欲の人として繰り返し繰り返し描かれている。


 極めつけは遥かに時代が下る幕末の徳川慶喜を主人公とする「最後の将軍」である。旧幕府軍と薩長が軍事衝突した「鳥羽伏見の戦い」で旧幕府軍に裏切りが出た。それが藤堂高虎を藩祖とする津藩(藤堂藩)である。


 この裏切りを描写するとき司馬遼太郎の筆は260年をさかのぼって藤堂高虎の関ヶ原の暗躍にまでさかのぼって多くのページを費やし、機を見るに敏で裏切りを恥じない藩祖の遺伝子がこの藩には脈々と流れているのであろう、というような書きぶりをしてしまう。


 そして多くの国民の脳裏に国民作家の高虎への義憤がステマのように刷り込まれるのである。


 脇坂安治に対しても同じ傾向がみられる。司馬の短編に、脇坂甚内安治を主人公にした「貂の皮」という作品がある。ここでの脇坂安治は次のように描写される。


 「貂は劫を経れば人をだますという。

甚内も若いころから世の移り変わりのなかで齢をかさね、やがては事に古り、ついには彼が陣頭にかかげている貂のようなあやしげな老人になっていたのであろう。

(中略)

 七本槍の仲間のうち、大名では脇坂家だけがのこり、貂の皮は参勤交代のごとにつつがなく江戸と播州竜野のあいだを上下した。めでたいというほかはない。(了)」


 吐き捨てるような結語ではないか。


 小説の前半は脇坂甚内安治と秀吉の熱い主従関係がむしろ好意的に書かれている。安治にとって秀吉が絶対の存在であるエピソードが「脇坂記」をもとにたっぷりと書かれる。その彼が関ヶ原では寝返るのだが、この時安治の年齢は47歳。本能寺の信長より若い。「貂のようなあやしげな老人」とはあんまりである。


 若いころの安治を愛すべき好漢と見る司馬遼太郎が、その好漢の裏切りに納得できない戸惑いが作品の推進力になっている。「脇坂記」前半の安治のキャラは、石田三成よりも宇喜多秀家よりも熱心な秀頼の擁護者になってしかるべきではないのか。司馬は裏切りにいたる理解可能な心理分析を考案できずに思考停止になり、貂の皮の霊力が人智を超える結果をもたらしたという、オカルト説明に走ったと見るべきだろう。


 そして平均的なわが国民は「貂の皮」の祖筋でもって脇坂安治を理解しあなどるのだ。


 しかし私たちの知らない本当の戦いが関ヶ原の靄の向こうに隠れていた。「脇坂記」を読み解きながら、各地に残る史跡に立って安治の痕跡をたどるとき、読者は「海馬戦記」を通じて、脇坂安治の思いがけない素顔をかいまみるだろう。


なお文中の家康の参謀「山岡道阿弥」は脇坂の家老・白馬の金仮面「山岡右近」の義理の伯父である。


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同(慶長)五年庚子ノ秋。逆臣石田治部(じぶ)少輔(しょうゆう)三成陰謀フ企テ。東照大権現(だいごんげん)ニ背(そむ)キ奉(たてまつ)リ。濃州(みののくに)山中(やまなか)関ケ原ニ出張(でばり)テ拒(こばみ)奉(たてまつ)ラントス。


大権現(だいごんげん)彼亂賊(かのらんぞく)ヲ追伐(ついばつ)シ。四海ヲ平治シ給ワントテ。関東ヨリ御馬ヲ出シ給フト聞エケレハ。安治ガ子息。淡路守(あわじのかみ)安元(16歳)ヲ関東ヘ差違(さしやり)ケルニ。上方シキリニ騒動シテ。路次ノ通リモ留(とどこお)リケレハ。竊(ひそか)ニ関東へ使者ヲ差(さしむ)ケ。其身(そのみ)ハ江州ヨリ大坂ニカエリヌ。


此時(このとき)。大権現淡路守(あわじのかみ)(16歳)ニ御書ヲクダシ給フ。


 山岡道阿彌(やまおかどうあみが)所へ之(ところへの)書状彼見(みられ)懇意之(こんいの)趣(おもむき)執着(しゅうちゃくに)候。


就(すなわち)上方(かみがた)忩劇(そうげき=非常にあわただしいこと)従路次(ろじにしたがうを)被罷(やめられ)歸之由(かえるのよし)尤(もっともに)候(そうろう)。彌(いよいよ)父子(ふし)有相談(そうだんありて)堅固之(けんごの)手置(ておき=常に心を用いて取り扱って置くこと)肝要候(かんようにそうろう)。


近日(きんじつ)令上洛之條(じょうらくせしむるのじょう)於様子者(おようすは)可御心易候(こころやすかるべくそうろう)。尚(なお)城(しろ)織部佐(おりべのすけ)( 注: マンガ「へうげもの」の古田織部介(おりべのすけ) 重然 (しげなり)

)可申候條(もうすべくそうろうじょう)令忠略 (ちゅうりゃくせしめ) 恐々謹言(きょうきょうきんげん)。

   八月朔日(ついたち)   家康御判

            脇坂淡路守殿

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 さてこの8月1日付の書状が、脇坂安治本人ではなく嫡男安元(16歳)宛になっていることをご記憶願いたい。当時京都からの書簡が上杉討伐のため下野の国にいる家康に届くのに7日を要したから、安元の手紙は8月1日から7日遡る、7月23日以前に発送されたことになる。また、石田三成等によって「内府違いの条々」が発布されて豊臣家遠征軍(官軍)のはずの家康が、秀吉の遺訓に背く「賊軍」とされたのは7月17日のことである。


 徳川家康率いる上杉討伐軍は、第一陣として東北勢(伊達政宗、最上義光、佐竹義宣、南部利直ら)が6月16日に京都を発し、続いて徳川家康が直轄する東海勢の第二陣(浅野幸長、中村一氏、池田輝政、田中吉政、福島正則、山之内一豊ら)が6月18日に出発した。四国や九州の大名は必ずしも従軍の義務はなかったのだが、自発的に与力する第三陣(黒田長政、加藤嘉明、藤堂高虎、蜂須賀至鎮など)はやる気満々の前のめりでこれに続いた。しかし本国からの距離があるので、近江を通過するのは7月初めになってからだ。


 7月17日、安元を含む機内近国と西国の中小大名は近江の街道を列をなして三々五々行軍中だった。ところがこの日突然愛知川に関所が設けられて、軍を返すよう大阪城からの命令が届いた。諸将は回軍せざるを得なかった。


 よって安元から山岡道阿彌に向けて書状が発送されたのは、7月17日から23日の7日間のいずれかの日に絞られる。


 さて徳川家康が下野の国小山で評定を開き、諸将に石田三成の挙兵を告げたのは7月25日である。豊臣恩顧の大名は一人残らず家康についた。しかし23日の時点では福島正則も山之内一豊も、黒田長政も加藤嘉明も藤堂高虎も、まだ東西どちらに着くか明らかにしていない。よって「豊臣恩顧の大名」が「家康に内応した」のは、「脇坂安元」が一番乗りだったことになる。


 ここでいくつかの疑問が浮かぶ。

(1)この重大な遠征の脇坂勢の指揮を、なぜ安治は自分自身ではなく、初陣の安元16歳に任せたのか。そもそも安治はこの時どこにいたのか。伏見か。大阪か。それとも水軍の舟の上か。


(2)石田三成のクーデターが成功し、「上方(かみがた)忩劇(そうげき)」という事件が起こったまさにその時、三成と家康とどちらに着くかという重大な判断を、16歳の安元が父に相談なくできるだろうか。相談してから書状を練ったとすれば、真田家の下野・犬伏の談合と同じく、自家の存続のため親子それぞれが東西両軍に別れる「ふたまた」の策をとった可能性はないだろうか。


(3)安元の手紙が家康本人ではなく、山岡道阿彌に当てられているのは何故か。山岡道阿彌は後に江戸幕府開始後、家康直属の諜報組織「甲賀百人組」を開設することになるが、このころすでに諜報部隊として活動していたのだろうか。だとすると道阿彌が甥である脇坂家の家老・山岡右近を介して、若い安元を籠絡して、家康の陣営に引きずり込んだ、ということはないのだろうか。安治を蚊帳の外においたまま・・・。


 これらの疑問はのちに本編で明らかにされるだろう。私たちの知らない本当の戦いは、まだまだ関ヶ原の靄の向こうに隠れているのだから。今は「脇坂記」の先を急ごう。

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大権現既ニ関東ヲ発向シ給ヒテ。濃州赤坂ニ御陣ヲ移シ給フ。脇坂父子ハ大坂ヨリ濃州(みののくに)山中(やまなか)ニ馳向(はせむか)ヒケル。


九月十五日辰ノ刻ノ一戦ニ。筑前中納言豊臣秀秋ト。安治同子息淡路守安元。カネテヨリノ御同意ナレハ。御味方ニ参リケル。


其後(そのご)三成敗軍ス。大権現伊吹山ノ麓(ふもと)ナル。小山ニ御陣ヲ移シ給フ時。脇坂父子御禮ヲ申シアケレハ。大権現戦功ヲ勞シ給ヒテ。台顔恰悦マシマシケリ。是ヨリ初メテ。大権現ノ幕下ニ属シ奉ル。


カタテ江州佐和山ノ城ニハ。三成ガ舎兄(しゃけい)石田木工頭(むくのかみ)ト云ヒシモノ楯籠(たてこも)リケレハ。又彼ヲ追伐スベキヨシ。均命クダリテ。其日牧原ノ宿ニ陣ヲトル。


明レハ十六日佐和山ノ城ヘ押ヨセケル。十七日卯ノ刻ヨリ脇坂父子ハ城ノ南大手ヨリ押入リ。稠敷(おびただしく)攻メタリ。午ノ刻計ニハ落城シヌ。石田ガ倍臣。津田泉州父子。上野喜左衛門父子等十四人生逮(いけどり)ニシ。城和泉守(「へうげもの」の古田織部介重然)ヲ以テ上聞ニ達シケレハ。大権現イヨイヨ恰悦マシマシケル。


斯テ佐和山モ落城シ。石田ガ徒党悉(ことごと)クウチハタシ給ヒテ後。大坂ニ入ラセ玉(たま)ヒテ。安治ニハ西国船ノ渡海出入ノ押ヘニ。川口ヲ警衛スヘキヨシ仰(おお)セ付(つく)。


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