序説4 朝鮮側史料にみる龍仁戦闘(용인전투)
朝鮮側の同時代の史書「懲毖録」はそのタイトルを「詩経」の一節から採っている。「懲(じん)」とは「こりる」、「毖(ひ)」とは「つつしむ」で、「われ、それ懲りて後の災いをつつしむ」が引用元の原意である。
著者の柳成龍(リュ・ソンニョン)は戦乱勃発当時に朝鮮第十四代王、宣祖(ソンジョ)の宰相であった。この書は政府高官として、豊臣秀吉の侵攻を防げなかった反省と自戒の記録であり、後世への諌めである。
「懲毖録序」はこんな風に書き出される。
「ああ、壬辰の戦禍の惨たることよ!わずか旬日の間に、三都は守りを失い、八方は瓦解し、国王は乱を避けて落ちのびられた」(朴鐘鳴訳、東洋文庫)
柳成龍は短期間の失脚時期を除くと、戦乱の七年間のほとんどを平安道偵察使、三道都体察使などの重責を担って活躍した。戦乱が終わると間もなく隠居して故郷に引き籠り、1607年に亡くなるまでのおよそ7年間を執筆活動に専念した。
彼自身が懲りて悔いるように、党派闘争で四分五裂の朝廷は、来るべき日本の侵攻に備えて有効な対策をまとめ上げることはできなかった。それでも、いちはやく水軍の重要性に気づき、無名の李舜臣を七階級特進で全羅左道水軍節度使に推薦したのは柳成龍その人であった。李舜臣の活躍がかろうじて国を保った。
毖(つつし)むべきは宮廷の党派闘争。進めるべきは政府軍に火縄銃を普及させること。第十五代王・光海君は柳成龍が血の記憶で書いた教訓を守り、やがて北方で勃興してきた女真族の後金国(ヌルハチ) に対して賢明な外交策をとり国を守った。
しかし中立政策を維持する光海君を生ぬるいとする事大主義の宮廷派閥(西人派)が1623年、宮廷クーデターによって光海君を廃位し、第十六代仁祖を即位させた。仁祖の親明・反後金政策は女真族の怒りを買い二度の侵攻を招く。
1636年1月、国号を後金から清に変えた女真族の王ホンタイジは10万の兵を率いて疾風のように鴨緑江を越え、わずか5日目にソウルを蹂躙した (丙子胡乱)。この時火縄銃を 装備した3万の朝鮮正規軍は、雙嶺戦闘(쌍령전투)でわずか300騎の女真族騎馬隊の突撃に壊滅する。柳成龍の諌め「毖(ひ)=後の災いをつつしむ」の効果は30年もたなかった。
その「懲毖録」で脇坂安治の龍仁戦闘は次のように書かれている。
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三道巡察使の軍が、龍仁で壊滅した。
初め全羅道巡察使・李洸(イ・ガン)は、全羅道の兵を率いて京城(ソウル)救援に向かったが、国王の車駕が西に向かわれ、京城はすでに陥ったと聞いて、兵を収めて全州に還った。
道内の人は、李洸が戦わずして帰ったのを咎(とが)め、憤慨して不平をいうものが多かった。洸自身も、心が休まらず、再び兵を整備し、忠清道巡察使・尹国馨(ユン・コクヒョン)と軍を合わせて前進した。慶尚道巡察使・金睟(キム・ス)もまた、慶尚道から軍官数十余人を率いてやって来た。兵は全部で五万余となった。
これら三道の軍が龍仁に到着したところ、北斗門山上に賊の小塁があるのが望見された。李洸はこれを軽く考え、先ず勇士・白光彦(ペク・コンウォン)、李時礼(リ・ジリョ)等を出して賊の力を試みさせた。光彦等が先鋒を率いて山に登り、賊塁から十余歩の所で馬を下り矢を射かけてみたが、賊は現れなかった。
日が暮れ賊は、光彦等の緊張がややゆるんだのを見て、白刃をきらめかせ大声をあげて突進してきた。光彦等はあわてて馬を索して逃げようとしたが、間に合わず、みな賊に殺されてしまった。諸軍はこれを聞いて恐れおののいた。
この時の三道巡察使は、みな文人で、兵務に習熟せず、軍兵の数が多かったとは言え、命令系統が一つでなく、しかも険所に拠って備えを設けることもせず、まことに古人のいわゆる「軍行、春遊の如くんば、いずくんぞ敗れざるを得ん」ということば通りであった。
翌日(六日)、賊はわが軍が怯えきっているのを察知し、数人が刃を揮(ふる)って勇を誇示しながら突進してきた。三道の軍はこれを見て総潰れになり、その声は山崩れのようであった。打ち棄てられた無数の軍事資材や器械が路を塞いで、人が歩行できぬほどであった。賊は、それらをことごとく集めて焚(や)いてしまった。
李洸は全羅道に、尹国馨は公州に、金睟は慶尚右道にそれぞれ還った。
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次に、同じ朝鮮の同時代の史書「乱中雑録난중 잡록」を見てみよう。
「乱中雑録」は文禄慶長の役(壬辰倭乱)当時義兵将として活躍していた趙慶男(ジョ・ギョンナム)が13歳の宣祖15年(1585)から70歳の仁祖15年(1637)までの57年間の国内の重要な事実を記録した総10冊の大冊である。
壬辰倭乱の部分は、李舜臣の「乱中日記」が主に海戦の見聞に限られるのに対し、この書で扱う範囲は海戦も陸戦含めてはるかに広い。さらに時代が下ると女真族の朝鮮侵攻である丁卯(ていぼう)胡乱(1627)、丙子胡乱(1636)などの重要戦乱も詳細に記録されている。
この「乱中雑録」で龍仁の戦いは次のように書かれている。
------------------------------------------------------------------------------乱中雑録(壬辰六月六日)(北島万次訳)
初六日、三道の師(いくさ)、龍仁に潰(つい)ゆ。是の朝、李洸(イ・ガン)等漸次兵を進め、広教山に陣し、軍に朝食せしむ。炊烟(すいえん)纔(わずか)に起り、賊騎突きて至る。先来の五賊、金仮面を着し、白馬に騎して白旗を持ち、釼(けん)を揮(ふる)いて直(ただち)に前(すす)む。忠清道兵使申益(シン・イク)、先鋒を以て前に在り。風を望んで先(ま)ず潰(つい)ゆ。十万の将士一時に、皆散ず。賊数騎、追趕(おいすがり)すること十余里にして去る。
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ちなみに金仮面とは甲冑の「面頬」のことである。金の面頬でよろい、白馬に乗り、剣をふるって大軍に突入したこの武者こそが、「脇坂記」で「山岡右近を先駆として一騎うちにおし出しければ、敵陣これを見て案に相違して、少し色めきてぞ見えける」と描写された、脇坂の家老「山岡右近景興」にちがいない。
山岡右近についてはこのあと関ヶ原の前哨戦の段階で、徳川家康の側近山岡道阿弥について触れるときに詳しく書くことになるだろう。山岡右近は山岡道阿弥の義理の甥であり、脇坂安治の家康との交渉は山岡一族が取り次いでいたのだから。
さて龍仁戦闘の朝鮮側の描写の最後は大河ドラマ「不滅の李舜臣」である。DVD「不滅の李舜臣」第34巻(第69話)を視聴すれば日本語字幕付きで見ることが出来る。
6月5日三道勤王軍7万がソウル南方に迫ったという一報を聞いて、脇坂安治は即座に手勢を率いてソウルを出発する。この「迅速果敢」が良くも悪くも脇坂のキャラクターを特徴づけている。なぜならソウルには遠征軍総大将・宇喜多秀家の兵力1万5千を筆頭に少なくとも数万の大軍が駐屯していたのだから、通常なら少なくとも敵の半数以上の陣容を備えて進発するのがいくさの常識のはずなのだ。しかし大軍の編成には時間がかかり、脇坂はそれを待てなかった。
三道勤王軍が進軍する龍仁の平原に、赤地に白の輪違いの紋の幟旗をはためかせて、山岡右近の軍勢が立ちふさがる。李洸将軍の指揮で勤王軍が前進すると、山岡の率いる脇坂軍は恐れをなして退却を始める。優勢を確信した李洸将軍は全軍に突撃を命じる。7万の大軍が逃げる山岡の脇坂軍に追いすがる。ところがこれは罠だったのだ。
三道勤王軍の側面に埋伏していた脇坂安治率いる本隊が、楯を連ね銃を構えて立ち上がる。退却すると見せていた山岡の部隊が、騎馬隊を先頭に反転攻勢をかける。三方から攻めたてられ7万の大軍はあっという間に瓦解する。この用兵こそが韓国の視聴者に「壬辰倭乱の倭軍中、最高の用兵であり大将…。脇坂安治は認める…。」といわしめたドラマ中の脇坂の白眉である。
ところでこの戦術は我が国の戦国マニアにはどこかで見たデジャヴの光景ではないだろうか。そう、九州制覇で島津軍が得意とした「釣り野伏せ」戦術ではないか。脇阪安治はいったいどこでどうして「釣り野伏せ」戦術を学んだのだろう。
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