第2話 センゴク権兵衛秀久と東の丸二段廓

洲本城は熊野水軍安宅(あたけ)氏が1510年に築いた土の城がその始まりとされる。洲本川のデルタを挟んだ対岸の丘の上に、同時期に築かれた炬口 (たけのくち)城跡の土塁が今もほとんど無傷のまま残っている。水軍の城の特徴がよく観察できる。初期の洲本城のたたずまいはおそらくこれに似ていただろう。


本能寺の変の半年前、天正9年(1581年)の11月中旬、信長は四国攻めの前進基地として、羽柴秀吉に淡路平定を命じる。黒田官兵衛の率いる部隊が淡路島に派遣され、短期間に安宅氏ら在地土豪をなぎ倒し、天正10年配下の仙石権兵衛が洲本城に入った。


その直後に本能寺の変が起こり、秀吉は織田家中の覇権争いに奔走することになり、黒田官兵衛は中央に呼び戻される。取り残された仙石権兵衛は土豪達の向背が定かではなくなった淡路の支配を一任され、洲本城を根拠地として2年あまりほぼ独力で悪戦苦闘しなければならなかった。この間の事情は宮下英樹 のマンガ「センゴク権兵衛」に詳しい。


この時仙石権兵衛が石垣の城を築いたかどうかは文献資料からは判らない。安宅氏の土塁の城をそのまま使っていたとしてもおかしくはない。


ただし仙石権兵衛が築いた可能性のある石垣が洲本城址に残されている。それは「東の丸二段の廓」と呼び習わされている一角で、絵図では長四十二間×横十二間(75.6m×21.6m)と記されている長方形の石垣廓である。石垣の低さ、石積みの稚拙さは徳島城の石垣と似ている。これは天正期の石垣の特徴だ。


羽柴秀吉が「賤ヶ岳の戦い」で柴田勝家と織田信孝を滅ぼし、「小牧・長久手の戦い」で徳川家康と織田信雄を屈伏させ覇権が確立すると、脇坂安治は洲本3万石を宛て行われ仙石権兵衛のあとを引き継いで洲本城主となる。「脇坂記」には次のように記録されている。


同(天正)十三年乙酉五月。安治伊賀國より摂津國能勢郡にうつされて。釆地(領地)壹万石を領す。同七月秀吉関白に任する時。安治従五位下に叙し。中務少輔に任す。八月に能勢より大和國高取の城に移りて二万石を領す。十月淡路の國にして三万石給はり。須本(洲本)の城に移る。安治三十二歳。


「脇坂記」の記述は余計な修飾がなくまるで履歴書のようだ。現代語訳して解説を加える。


天正13年(1585)5月、安治は伊賀の国から摂津の国能勢郡に移されて1万石を領した。7月に秀吉は関白に任ぜられ、自分だけでなく部下の多くに官位を授かった。安治は従五位の下、中務(なかつかさ)少輔(しょうゆう)に任ぜられた。


中務少輔は唐名を「中書」ともいいこれ以後脇坂の通り名となる。ちなみに京都市中京区に「中書町」という町名があるが、聚落第の時代に脇坂屋敷がここにあったことに由来する。京阪電車の駅名で伏見駅の隣に「中書島」があるが、伏見城の時代に城下町の脇坂屋敷がここにあったことに由来する。


同年8月に能勢より大和國高取の城に移って二万石を領した。10月淡路の國に三万石給わり洲本城に移った。このとき安治は三十二歳だった。それまでの任地は秀吉の「代官」として統治していたのだが、独立大名としての脇坂安治の戦歴はここから始まる。

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